3-16

文字数 2,882文字

 その日の午後六時。
 いつもの安いチェーン居酒屋ではなく、オフィス街にある隠れ家風居酒屋の店内は、人通りの少ない土曜日のせいか、騒がしくなく落ち着いた雰囲気を放っている。
 カフェで朝食を摂った後、午前中のうちに優菜は帰っていった。その後に届いたメッセージによると、平行線ながらも母親である良美と話ができたという。「ありがとう」という言葉を送られたのはいったい何度目だろうか。昨日の夜、優菜の存在に救われたのは自分の方だったのに。
 それから一通り家事をこなし、ベッドで仮眠をとった後、思い切って玲に電話をすると、玲は仕事中だった。そして、玲に誘われたのがこの店だ。
「森奥君」
 家庭的な料理が並ぶメニューを眺めていると、頭上から声がかかった。トレンチコートの襟元から見えるストライプ柄のシャツにネクタイを締めていないその姿は、普段よりもラフに見える。
「出村、土曜日なのにお疲れ」
 透也が言うと玲は無表情のままうなずき、以前にも見たコートを壁のハンガーにかけた。生ビールを二つ注文し、店員が去った後でわずかな沈黙が漂ったのを合図に、透也は玲を見た。
「出村、この前はごめん」
 人の声がほとんど聞こえない店内では、落ち着いたBGMがよく響いている。席に灯された小さな照明を浴びた玲は、怪訝な顔で透也を見返した。
「何のこと?」
「おまえの、結婚の話。俺、ちゃんと祝っていなくて……」
「おめでとうって言ってもらったけど」
 出村のセリフには嫌味が混じっていない。よくも悪くも、彼はとても素直なのだ。
 やがて黒いシャツを着た店員がジョッキを二つテーブルに置いていった。真上にある電球によってグラスの影がゆらゆら揺れている。
「それでも、俺はあの時、動揺してしまってさ」
「動揺……?」
「おまえ、彼女の気配とか全然見せなかったし」
 自嘲めいた言葉がやけに子供っぽく響き、透也は慌ててジョッキを持ち上げた。それを見た玲も同じようにジョッキを手に持ち、軽く乾杯を交わす。
「式の準備はどう?」
 気を取り直すように透也が突っ込んだ話題を振ると、眼鏡の奥にある出村の瞳がわずかに揺れた。
「まぁ……、順調かな」
「あれって結構大変らしいよな。俺の同期も嘆いてる」
「俺の場合は、彼女が率先してやってくれているから」
「出村はこだわりはねーの?」
「あんまりないかな」
 ない、と言い切らないところに引っ掛かりを覚えたが、詮索はこの辺りにして透也は生ビールを飲み込んだ。お通しで出された野菜の浅漬けの塩分が、ほどよく喉に沁み込んでいく。
「森奥君、もしかしたら気にしてた?」
 はっと今初めて気が付いたように、玲が言う。
「敢えて言うほどの事でもないって思っていたんだけど……、やっぱり急な話だったよね」
「急っていうか……」
 ビールの泡と共に揮発していく二酸化炭素を眺めながら、透也は背もたれによりかかった。
「俺、おまえの事、何も知らねーなって思って」
 いつもの騒がしい店ではなく、落ち着いた店だからこそ吐露しそうな感情がある。玲から誘いを受けたのは初めてだった。断る理由など、あるはずもなかった。
「そんな事ないよ」
 適当に注文した酒のあてが、テーブルの真ん中に置かれた。玲は壁際に置かれてある小皿を手際よく透也の前に置き、ふっと笑った。
「森奥君は忘れているかもしれないけれど……、恋愛に得意不得意があるっていう話をした時に、森奥君は『出村は不得意じゃない』って言ってくれたんだよ」
 学校の成績や運動能力と同じように、恋愛にも人それぞれの向き不向きがあると思っていた。勉強も運動も人付き合いもそれなりにこなしていた透也の、もっとも苦手だった分野だ。
「俺、そんな事言ったっけ?」
「言ったよ。俺は、森奥君に救われたんだ」
 まるで映画のセリフに出てきそうな言葉を恥ずかしげもなく言い放つ玲の視線を受け、透也は色褪せた記憶に残る高校時代を思い浮かべる。
 狭い教室で、玲はどのように過ごしていただろうか。ネクタイもブレザーのボタンもきっちりと留めていた高校生の頃の玲は物静かで、いつも一人でいた。惰性の友情にも溶け込まず、授業中に背を丸めてノートをとる姿は真剣さそのもので、大人びて見えた。高校生の頃の透也は、誰にも流されないその強さを羨ましいと思っていた。当時の玲の強さは、多忙である今の仕事にも生かされていて、そして結婚に踏み出せたのだろう。
「俺なんか……」
 喉元から出した声が震えた。目に見えるもので完璧さを繕おうと躍起になっていた透也とは違う。玲の芯の強さは、揺るがないものだ。
「俺なんか、全然……」
 時間差を置いて、昨日の母親の言葉が脳内でよみがえる。
 いい子になれなくてごめん。電話を切った後で、煙草の煙と共にいっぱいになったのは、懺悔の言葉だった。
 いい子になれなくてごめん。期待通りになれなくてごめん。勉強も受験も就職もそれなりに頑張って今の生活を手に入れたけれど、その先に進めなくてごめん。
 でも、と透也は思う。――これが、今の俺の精一杯で、俺の幸せだ。
「森奥君」
 玲の声で、透也ははっと我に返った。玲は冊子になっているメニューを透也に向けている。
「次、何か飲む?」
 オレンジ色の照明の下で、玲の顔がよく見えた。重たい前髪と眼鏡のレンズに隠された、瞳の向こう。やたらとスマートな物言いを聞き、こいつはこんな奴だったっけ、と新たな玲の表情を発見する。これも、婚約者の存在のおかげなのかもしれない。
「あのさ、出村」
 次のドリンクを選びながら、透也はもうひとつ言わなければならない事を切り出す。
「俺、転勤する事になったんだ」
 やって来た店員にレモンチューハイを注文し、もう一度玲を見ると、玲はレンズの奥にある目を見開いていた。
「転勤? どこに?」
 予想とは違う反応に、思わず透也は面食らった。もっと淡々と返されると思ったのに。
「関西」
「そうなんだ……」
 それきり、玲はジョッキの取手部分を右手で握ったまま、黙り込んでしまった。
 最近では訪れなかった気まずい沈黙が、皿やグラスで一杯になったテーブルに漂う。それを破ったのは、玲だった。
「関西って、遠いね」
 感情の薄い玲の言葉が、やけにしんみりと響いた。
「新幹線に乗ればすぐだよ」
「でも、こうやって気軽に飲みに行ったりできなくなるよ」
 透也の気まぐれに近かったこの三年間は、玲にとって意味のあるものだったのだろうか。
「俺、森奥君以外にこうやって飲みに行ける友達もいないし、寂しいな」
 そう言って残っていたビールを飲み干した玲を見て、アルコールがまわり始めたように脳が心地よく痺れ始めた。
 俺の事を友達だと思ってくれていたんだ。照れ臭いセリフは発されないまま、店員に運ばれてきたチューハイと一緒に飲み込まれた。
 寂しいのはこっちのセリフだと思う。結婚という新たな生活に踏み出す玲を、透也は見送るしかできない。
「出村」
 玲は透也の両親とは違う。派手でなくてもいい、だけど確かな愛に溢れた日々を手に入れるだろう。
「幸せにな」
 透也が言うと、出村は眼鏡の奥にある目を細めて笑った。
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