2-12

文字数 2,873文字

 疲れた目をこすりながら、玲はデスクトップに表示された文字列を追っていく。羅列しているプログラムの始まり、ハローワールド。他人と会話をする事が得意ではない分、無機物に文字を与え続ける行為が好きだ。しんと研ぎ澄まされた空間に浮かぶ文字の集合体は、命を吹き込まれたように意味を持ち始めていく。
「あ……」
 数時間ぶりに発した声はひどく掠れていた。玲が小さく声をあげた途端、周囲の空気にぴりりと緊張が走った。
「出村さん、何か見つけましたか?」
 四月から改変している発注システムのエラーが見つかってから、すでに二週間が経っていた。気付けば花見シーズンも終わり、季節を五感に植え付けることもほとんどないまま、玲は会社に籠っていた。その傍らでいかなる場合にも稼働し続けている店舗での発注業務では、メールやファックスなどのアナログの手段で負担をしてもらっている状況だ。
 玲は同じチームである後輩にバグを伝え、さっそくシステムを試運転する事になった。感覚を失っている時間を確かめようと時計に目を向けると、午後六時を迎えようとしている。
「出村さん」
 男だらけの空間にハスキーがかった高い声が控えめに響き、玲が顔を向けると、真本の言っていた通り四月から情報システム部に配属された新入社員が玲の斜め後ろに立っていた。リクルートスーツに着られているような小柄な背丈のその女性社員は、本社での新人集合研修を終え、昨日からこの部署で勤務を始めている。
「何か私にできる仕事はありますか」
 彼女の教育リーダーが玲と同じチームにいる後輩である事もあり、彼女は情シス部の現状を理解し、研修課題をこなしながらも声をかけてくれる。受け身だった自分の新人時代と大違いだと思いながら、玲は言った。
「いや、まだ研修期間中だから、ちゃんと定時で帰って」
 玲はずれた眼鏡のフレームを指で直しながら彼女の顔をまっすぐに見る。顎のラインで切りそろえられた黒髪をさらりと揺らした彼女は、物言いたげに唇を動かし、やがて、「お疲れ様です」と黒いリクルートバッグを手に持ってドアの向こうへと消えていった。
 玲はその小さな背中を視線だけで見送り、再びパソコンと向き合った。その後、発注システムの試運転が各店舗でも行われ、問題がない事を確認できたのは午後九時を過ぎていた。対応していた社員で一斉に大きく息を吐き、そしてキャスター付きの椅子にうなだれるように背を預けた。
「やったー……」
 力なく歓声を言葉にしたのは、真本だった。
「先輩、やりましたね……」
 普段ははつらつとしている真本の顔にもさすがに疲労がにじんでいる。彼はチームの一員ではないものの、エラー発覚後からはヘルプに入ってくれていた。
 パチパチとまだらな音が響いた。目をこする為に眼鏡を外していた玲は、その音に聴覚を預ける。パチパチパチ。それを拍手の音だと認識できるまで、少々時間がかかった。
「出村、よくやった」
 玲の席の横に立って声に感嘆を滲ませたのは、チームリーダーでもある課長だった。寡黙で社員とほとんど話をしない課長に、そのような言葉を落とされた事に驚いた玲は、眼鏡を外したまま目をまばたかせた。
「出村、さすがだな!」
「出村さん、お疲れ様です」
 眼鏡をかけた男達が、疲労と歓喜を混ぜ込んだ表情で玲に声をかけている。
 基本的に個人主義という概念で働いている部署内が、ひとつの達成感を共有している。玲は、定時で帰っていった新入社員を思い出した。即戦力になれない悔しさや情けなさで、細い肩が震えていたかもしれない。入社一年目の頃の自分もそうだった。彼女ほどの積極性を持ってはいなかったが、矜持を持ってこの部署にやって来た。
 この狭い室内で、玲はもう六年も過ごしている。いつの間にかこの空間は自分の居場所となり、そこには共に過ごす仲間がいた。
 ずっと一人だと思っていた。自分の世界は自分だけで完結していて、誰かと何かを共有できる日は来ないと思っていた。
 玲はキャスター付きの椅子から立ち上がり、頭を下げた。寝不足のせいで視界がゆらゆらと揺れたが、そこに不快感はなかった。

 午後九時半。玲は真本に誘われて、帰りに会社の近くにあるラーメン屋に行った。
「おう兄ちゃん、いらっしゃい!」
 暖簾をくぐって店内に入ると、途端に空腹が刺激された。いつもより少し遅い時間だからか、カウンター席は比較的空いている。
 何度か真本を連れてきたこともあったので、店主は真本にも同じように声をかけ、肩にかけている白いタオルで汗を拭っている。
 隣に座った真本が「出村さんは何を頼みますか」と立てかけてあったA4用紙一枚をラミネートしただけのメニューを玲に差し出した。
 玲はいつも同じメニューしか注文しない。それに比べて、真本はいつも新しい何かを探している。期間限定メニュー、季節商品、今流行っているもの。そういえば、彼のかけている眼鏡のフレームは玲が知るだけでももう三回は変わっている。
 真本も仕事仲間の一人で、思えばいつも玲の味方でいてくれたように思う。部署内が無茶苦茶な状態で過労働を課された時も、後輩である真本は玲よりも先に声をあげてくれていた。
「お兄ちゃん達、おまちどうさま」
 店員として働くエプロン姿の店主の奥さんが、背後から熱いラーメン丼ぶりを二つ慣れた手つきで運んできた。
 玲は特別にラーメン通というわけではない。しかし、入社をしたばかりの頃に会社周辺の道に迷ってたまたま辿り着いたこの小さなラーメン屋も、玲にとってのひとつの居場所になっていた。
「そういえばお兄ちゃん、前に連れてきた綺麗なお姉ちゃんとはどうなの」
 白髪交じりの髪をひとつにまとめた化粧っ気のない奥さんが、カウンターの空いた席を片付けながら訊き、玲は啜っていた麺を咀嚼するのを忘れてしまった。優菜の事だ。湯気によって曇った眼鏡を外し、にんにくの香りが体内に伝っていくのを感じながら、二月の出来事を思い出す。
 偶然乗り合わせたエレベーターでは会話に困るほど気まずい沈黙が充満していたのに、優菜との関係はきっと、このラーメン屋から変わったのかもしれない。今ではエレベーターで乗り合わせても、きっとあの頃と同じ空気にはならないはずだった。
「え、なんですか出村さん! 何の話ですか!」
 玲と同じように眼鏡を外した真本が声をあげている。玲はグラスに入っていた水を飲み干した。
「大した話じゃないよ。二月に、ここに同期と来ただけ」
「それって情シス部以外ですよね? 出村さん、情シス部以外で飯食える人なんていたんですか、それも女で!」
 真本の失礼な物言いにも、不思議と嫌な気分にはならない。そして、自分で思うよりもずっと穏やかな気持ちでいられる事に驚いた。
 次に優菜に会った時には、ただの同期としてきちんと会話をできるだろうか。
「同期って誰ですかー、どこの部ですかー」
 まだ話題を引きずっている真本に苦笑しながら、玲は箸を進めた。カウンターの奥に設置されているテレビでは、四月に始まったばかりの恋愛ドラマが流れている。
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