2-8

文字数 3,101文字

 その後、どうやって自宅に辿り着いたのか分からない。
 スピーカー越しでユウナが歌っている。――愛なんて狂気よ、そんなものがなくても私は一人で生きていけるわ
 自宅に帰ってコートも脱がずにまずした事は、全てのネットニュース記事を読み込む事、そしてSNSでの情報収集だった。玲はひたすらスマホの画面をスクロールしていく。
 どの記事も似たような内容だった。ユウナの熱愛報道、相手は一般人。一年前に共通の友人を通じて知り合い、約半年前から交際をスタート。ありきたりな常套句。蛍光灯の下で見るスマートフォンの四角い画面の明るさが、やけに目に刺さった。
 玲は壁に貼られたポスターを見つめる。三人の右端で微笑むユウナの姿は普段通りだ。玲は思い立ったようにスマホをベッドに投げ、テレビとレコーダーデッキの電源を入れた。いつかのトーク番組を思い出し、玲は録画された番組一覧から探していく。
『ユウナちゃんも、こんなに人気になったら恋愛する時間もないんじゃない?』
 厚化粧をアイデンティティとした男性芸能人が、物知り顔でユウナに質問している。いきなりこのシーンから始まったのは、玲がユウナのトーク部分だけを切り抜いているからだった。
 赤いソファーに座ったユウナが、マイコやサキと顔を見合わせた後、後ろめたさの欠片もない表情で笑った。
『恋愛は、今の私達には必要ないです』
 歌声よりも少しだけ甘く掠れた声が、はっきりと響いた。
『今の私達にとって一番大切なのは、ファンのみんなだから。だから、それでいい』
 ユウナの覚悟を伴った瞳の色を、テレビのカメラが映し出している。これが放送されたのは一月、たった二か月ほど前の事だ。
 作られたテレビセットのソファーで華麗に微笑むユウナの姿を見て、玲は安堵したのをよく覚えている。ファンの心理とはきっと様々で、なかには恋人ポジションを狙う熱狂的な追っかけもいるらしいが、玲がSNSでよく目にするファンの多くはきっとそうではない。ユウナの彼氏になりたいわけじゃない。ただ、恋だの愛だので埋もれていない世界の存在として認識していたかっただけだ。決して華やかではない学生時代を送ってきた玲にとって、誰かに恋をしないユウナだからこそ、応援したいと思った。それを励みに、この先も続いていくであろう途方もない日々を乗り切れると思った。
 トークの上手くないユウナの録り高は多くない為、その番組の録画はすぐに終わってしまった。
 玲は録画された番組の数々を眺めていく。ユウナは、面白みのない玲の人生の光だった。テレビを消すと、途端に黒くなった画面には自分の疲れた顔が映り、リモコンを投げ出したくなる衝動を慌てて抑える。
 のろのろと立ち上がり、ベッドに放り投げていたスマホを手に取り、SNSを開いた。変わり映えのない記事内容が並び、様々なアカウントが様々な意見を百四十字以内で述べている。
 【アイドルの恋愛禁止という風潮がおかしい】
 正論に喉の奥がぎりぎりと痛んだ。
 【サキはスウィンバお笑い担当だから許せるけれど、清純派を貫いていたユウナはあかん】
 心の中でうなずいたコメントに、思わずいいねボタンを押した。
 【ユウナって日頃から恋愛しませんのスタイルじゃなかった?ファンへの裏切りじゃない?】
 記事を見た瞬間に玲の頭によぎった感情がそのまま言葉にされていて、玲は生唾を飲み込んだ。スーツを着たままだというのに、皺になる事もお構いなしでベッドの上に寝転がる。手のひらからスマートフォンが離れない。
 玲はSNSを閉じ、検索サイトでヒットしたネット掲示板をアクセスした。〈スウィートマンバについて語るスレッド〉という名の掲示板では、すでにユウナのスキャンダルについての話題で持ちきりだ。
 世間的にオープンな場所であるSNSとは違い、アンダーグランドの側面を持つ掲示板では、SNSよりもずっとユウナに対する敵意剥き出しのコメントが羅列されていた。
 それらをひとつひとつ眺めていきながら、乾燥した指先で画面をスクロールしていく。目がひりひりと痛むのは、ブルーライトのせいか、悪意に溢れる言葉達のせいか、あるいはユウナのスキャンダルを実感し始めたからかもしれない。
 スマホの上部に表示された時計は、午前一時前を知らせている。寝転がっていた事でフレームが曲がっているかもしれない眼鏡を外し、枕元に置いた。明日も仕事なのに、勉強をしすぎてしまった受験前日のように頭の中には様々な単語がせめぎ合い、眠れる気がしない。窓の外では相変わらずエンジン音が響いていて、現実の空気が室内に流れ込むほどアイドルに夢中になっている自分の陳腐さを思い知らされる。
 ユウナは玲の救いだった。勝手に救われていただけだと分かっている。それでも、思わずにはいられない。恋愛とは無縁の世界を共に歩いているつもりだったのに、本当に独りよがりだった。

 ほとんど眠れないまま朝を迎え、いつものルーチンを辿って家を出た。空を青く照らしている日の光が眩しい。何も考えずに冬用のコートを着てみたが、思いのほか外は温かく、電車に乗っている人々はいつの間にか春の色を身にまとっている。
 会社の最寄り駅で下車し、重たい足取りで歩いていく。革靴のつまさきが傷んでいる事に気付き、憂鬱さが増した時、
「出村君」
 いつかの冬の朝と同じように、背後から高い声が小さく響き、玲は思わず足を止めてしまった。恐る恐る視線を向けると、横に並んだ優菜が玲を見上げている。彼女もまた、きちんと季節に乗っていて、以前に巻いていた白いマフラーはどこにもなく、ベージュのトレンチコートが軽やかだ。
「おはよう」
 優菜の顔を見るのはずいぶん久しぶりだった。
 繁華街の交差点近くで手を繋いで歩く透也と優菜を目撃したのは二月末の事で、もう一か月近くが経っている。その後エレベーターなどで会う事もあったが、極力目を合わせないようにしていた。
 優菜のような女が自分の隣を歩いていること自体が奇跡で、学生時代の自分からは考えらえない出来事だった。どうやったって叶う事のない恋心をひた隠しにしながら、おはよう、と玲が答えようとすると、それを遮るように優菜が言った。
「出村君、大丈夫?」
 切羽詰まったその表情から、優菜の話題の矛先を読み取れてしまった。
 会社のビルに近づくと、周囲には社内の人間が多くなってくる。玲のアイドル好きは周知の事実で、スウィートマンバのユウナ推しである事も知る人は知っている。周囲の視線は、好奇心か、憐みか。
 学生時代の、体育のバスケットボールの試合でボールを上手く受け取れなかった時。英語の授業で先生に指名されたにもかかわらず英文を正しい発音で読めなかった時。首元に受ける視線とともに記憶がざわざわと音を立て、玲は唇を噛んで息を吸い込んだ。
 酸素が上手く肺に届かない。
「君が、それを、聞くの……?」
 すぐ横にある車道をトラックが走っていった事で生まれた風が、玲の前髪を揺らした。眼鏡のレンズにはミクロサイズのゴミが付着し、きっともう取り除く事もできない。
 思いのほか震えてしまった自分の声は、優菜に届いたのだろうか。玲は鞄を両手に抱え、優菜を置いて会社のビルへと走った。春の匂いをまとった生温かい空気が耳の後ろにちくちくと触れる。
 ビルに入るとなおさら視線が刺さった気がして、エレベーターの横にある扉を開け、外付けの非常階段を昇った。息があがる。覚束ない足音は自信のなさの表れだ。どこに向かえばいいのか分からない。
 せめて透也のように生きられたら、こんなに惨めな思いをする事はきっとなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み