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文字数 2,021文字

 話は一か月ほど前に遡る。森奥透也と再会したのは、一月末に行われた高校時代の恩師の退任を祝うパーティーだった。
 慣れない空間で壁と一体化するように立っていた玲は、ただひたすらユウナの奏でるメロディーを思い浮かべていた。和洋折衷の料理の香りとともに最も愛しい歌声が鼓膜に流れ込んできた時には、とうとう自分の頭がおかしくなったのかと目をしばたかせたが、どうやら違ったようだ。
 パーティーは、貸し切った小さな居酒屋で行われており、そこで流れている有線にスウィートマンバの新曲が流れていたのだった。配信された日からもう何十回とミュージックビデオを見て、何百回とメロディーを耳にした。歌詞もすべて、自然と頭に叩き込まれている。
 高校三年間の担任だった恩師の挨拶などただの付録だったかのように、周囲では玲と同じ高校出身の人々が談笑している。ちょっとしたパーティーだからか、ほとんどの男は首元にタイを締め、一部の女は真冬だというのに半袖のワンピースで着飾っている。普段着である安いスーツでやって来てしまった玲は、きっと場違いなのだろう。
 玲は恩師への感情のみでここに訪れたのだが、高校時代にいい思い出などひとつもない。かろうじていじめられたりするような事はなかったと記憶しているが、決して明るい高校生活を送っていなかった事だけは確かだ。
「えっ、あの二人って結婚したの?」
 すぐ近くにいた女の四人組が、高らかに声をあげた。どうやら同じ高校にいたカップルが結婚をしたらしい。特に珍しい話でもないだろう、と玲はその場から離れながら思うが、玲自身には縁のない話だった。
 二十七歳にもなれば自然に湧いてくる結婚の話題。同僚の結婚式にも、玲はすでに二度ほど参加している。そのうち一人は同期だ。
 バーカウンターでグラスを受け取り、ウーロン茶を飲み込む。周囲の声が不協和音となって鼓膜を撫でていき、パーティーへの参加を後悔し始めた頃、視界の端で何かが落ちた。玲は視線を向ける。カーペット地の床には四角い黒い物体が落ちていて、グラスを持っていない方の手で拾ってみると、それは名刺入れだった。
 面倒事は嫌いだ。拾ってしまった事に新たな後悔を覚えながらも、玲は空になったグラスをカウンターに置き、中身を見た。
 森奥透也。
 有名な製薬会社名と共に印字された覚えのある名前に、喉の奥が鳴った。玲のクラスメイトだった男の名前だ。しかし、話した事はほとんどない。学校の教室にはヒエラルキーというものが存在していて、玲と透也は交わる事のない階層で過ごしていたのだ。
 玲はため息をつき、名刺入れを持ったまま視線を動かす。皮地の感触が指先にしっとりと馴染み、服飾や小物などのブランドに疎い玲でも、それが高級品である事が分かった。
 会場の中央に視線を向けても、透也の面影を持った男はいない。自分の記憶違いだったらどうしようかと思いながら壁際に目を向けると、そこには記憶から更に大人になった透也の姿があり、玲は生唾を飲み込んだ。
「森奥、くん……」
 透也の前に立って呼びかけると、スマートフォンを右手で弄っていていた透也は、初めて玲の存在に気付いたとでもいうように眉を潜めた。玲の事を覚えていない顔だった。玲は喉元に力を入れる。
「あの、俺……、同じクラスだった出村だけど」
 そもそもカースト底辺どころか、その構造からもはみ出たような自分を透也が覚えているわけがないのだ。しどろもどろ玲がつぶやきながらおずおずと拾った名刺入れを差し出すと、透也ははっと顔色を変えてジャケットのポケットに手を突っ込んだ。玲の着ている安物とは違う、きちんと見立てて選ばれた質のよさそうなジャケットは、長身の透也によく似合う。
「それ、どこにあった?」
 ジャケットのどこにも名刺入れがない事に気付いた透也の声は、玲の高校時代の記憶にあるものとは一致せず、まるで初めて会う人みたいだと玲は思う。
「床に落ちていたんだ」
「そうなんだ。ありがとう。よく俺だと分かったね」
「分かるよ」
 思わず即答すると、透也は目を見張った後、整った顔をくしゃりと崩すように笑った。
「すげー記憶力」
 いつの間にかBGMは変わり、スウィートマンバの曲は終わっていたようだった。普段であればユウナの声を一瞬でも聞き逃した事を悔やむところだが、透也の整った笑い方を見ていると、不思議とその感情は消え失せていった。
 会場の中央では、恩師が元生徒達に囲まれていた。十年前よりも恩師が小さく見えてしまう現実に、時間の流れの残酷さが滲み出ている。人はそれらから逃れるために、偶像に恋焦がれて現実から逃れようとするのだろうか。
「出村、だっけ?」
 同じクラスだったとはいえ、ほぼ初対面に近い相手に呼び捨てできる透也のコミュニケーション能力におののきながらも玲がうなずくと、透也は受け取った名刺入れをポケットに入れながら、言った。
「おまえ、この後ひまなら飲みに行かない?」
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