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文字数 2,130文字

 約束よりも五分遅れて、玲はやって来た。昼休みの社員の出入りの多い一階フロア。優菜が指定したのは、会社すぐ近くにあるイタリアンだった。入社したばかりの頃、優菜の教育リーダーだった有紗に教えてもらった店だ。
「うちの会社、スウィートマンバが器用されたでしょ。出村君もホームページの広告とかに携わったの?」
 パスタを二つ注文している間、丸いテーブルに向かい合わせに座った玲に訊ねると、居心地悪そうにしていた玲が、ゆっくりと顔をあげた。
「まさか。それは別の人が担当だった」
「そう、残念だったね」
「……絹川さんって」
 テーブルに置かれていた水を一口飲んだ玲が、ぼそぼそと言う。
「面白いよね」
「それ、朝にも聞いたけれど」
「面白いよ。普通、こういうのって気持ち悪がられる」
 直接的な言葉に、自覚あったんだ、と優菜はむしろ感心を覚えた。
「別にそうは思わないけれど。ユウナが好きなんだっけ? どういうところが好きなの」
 ボサノバ調のBGMが店内を流れている。見渡す限り周囲は女性客ばかりで、立地上、ほとんどが会社員のようだ。午前と午後の切替を行うために、時間とお金をかけて過ごす空間。
「ユウナの好きなところ……」
 BGMに消え入りそうな声で思案していた玲は、やがて両手をテーブルの上で組み、話し出した。
「ユウナは元々オーディションでいったん脱落したんだ。そのオーディションっていうのは全国から一万人以上の女の子達を対象に行ったものなんだけど、最終ステージでユウナは落ちた。でも、ユウナはその時に泣くわけでもなくて悔しがるわけでもなくて、その後のレッスンでさぼる事もなくて、結果が出る前と同じように歌もダンスも練習を続けたんだ。それで、プロデューサーがその姿に感動をして、ユウナは異例のデビューとなったんだよ。リーダーはマイコだけど、結果的に一番人気が出たのはユウナだった。ユウナはマイコにもサキにも劣らない、それでいながらその人気ぶりを鼻にかけているわけでもなくて、マイコやサキの事も尊敬していて、バランスの取れた三人のフォーメーションダンスは揃っていて、三人のコーラスは本当に綺麗で、それもユウナがスウィンバにいてくれたおかげだ。マイコもサキも、ユウナがいてくれて良かったと言ってる。俺もそう思う。ユウナは努力を惜しまないアイドルだから」
 ふっと息を吹き返したように玲の声が途切れたのは、店員が二皿のパスタを持ってきたからだった。「ごゆっくり」と事務的な声がかかり、トマトソースの匂いが空腹を刺激する。
 こんなに多くを語る玲を見るのは初めてだった。優菜はフォークにパスタを巻き付ける。自分の推しを語った事で熱気がこもったのか、玲の前に置かれたグラスは空になっていた。優菜は店員を呼び、水を注いでもらう。玲は何かを取り戻したように、パスタを食べ始めた。思ったよりも綺麗なフォーク使いだった。そういえば、先日にラーメンを食べた時も、綺麗に箸を持っていた。
 ふと、テーブルに置いてあったスマートフォンが震え、フォークを置いた優菜は画面をタップする。透也からのメッセージだった。
「大丈夫?」
 目の前で、玲の瞳が優菜を映していた。曖昧にうなずき、優菜はスマホを裏返しにして置く。他人に気遣いをする玲の姿も、新鮮だった。
「そういえば、絹川さんの名前を知って驚いたんだけど」
 パスタを食べ終えた頃、紙ナプキンで口元を拭いながら、玲は言った。
「絹川さんの名前って、ユウナとも読めるから、ちょっとびっくりした」
 玲の目が優菜を捕らえた途端、優菜の鼓膜の機能が狂ったかのように、店内のBGMや食器の音や人々の声が霧がかって聞こえた。スウィートマンバのデビューよりも優菜と玲の入社の時期の方が早いはずで、その感想自体がナンセンスだ。
 消化不良を起こしたように、スパイスの効いたトマトソースが胸元で存在感を示している。
 優菜は返事をせずに伝票を持ってレジに向かう。どうして玲をランチに誘ったのか、今になって小さな後悔が生まれた。優菜が一緒に過ごしたかったのはアイドルオタクである玲であり、優菜に視線を向けるただの同僚の男ではなかった。
 ごちそうさま、と隣に並ぶ玲から、思わず少しだけ距離を置いて歩いてしまった。会社のビルまでの道を長く感じる。今日はどのフロアのトイレで歯を磨こうか考える。なんとなく、普段使っている情報システム部の入っている四階のトイレを避けたくなった。
「絹川さん」
 エレベーターを待ちながら、玲が言った。
「話を聞いてくれてありがとう」
 ユウナについて熱く語った玲を気持ち悪いと思わない。だけど、物静かな表情に隠された熱は、優菜の最も欲しくない感情に似ているようだった。
 昼休憩が終わる十五分前、自分のデスクに戻ってスマートフォンを開く。透也からのメッセージは誘いのものではなく、スウィートマンバのスキャンダルについての内容だった。先日に優菜がその話をしたからだろうか。これでは単なる世間話のようだと、優菜は深くため息をついた。
 誰かと特別な仲になりたいわけでもないし、特別な感情を寄せられたいわけでもない。 憧れていた光景と自分の感情が剥離していく感覚に、優菜は何度も失望している。
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