第14話 喫煙のあと編集後記

文字数 923文字

 良い散歩になったな、編集くんに見せ掛けのコンビニ袋から買い物を取り出し、つまらぬ言い訳が無くて済むように、テーブルの上と冷凍庫と、薄暗い部屋の中で半々に分けて見せてみた。遅くなった理由も聞かれなかったので、とりあえずアイスキャンディーを宛てがった。
「何を買おうか迷って、途中で靴が脱げたから地下鉄の奥の涼しいところまで汗を掻いたんだ」
今日は奥さんの誕生日ですもんね、夕闇の中に囃しの音が向こう遠ざかり、僕は背中に縦に冷たい汗を掻き始めた。それ以前に額から胸まで汗でびっしょりだった。

 フィルムは書斎の机の上で、固く凍った氷が閉ざした世界、存在すること其れ自体が使命であるかのように生来の弾力を発揮しながらも、しばらくは頑なに沈黙をつづけた。

「先生の、こういう言い方もどうなのか、奥さん、変わりませんね。初めて会った、先生のデビュー作『サンセット通りの恋愛戯曲』の出版記念パーティー以来、相も変わらず。ユーモアに溢れ気さくな方ですね。えくぼも八重歯も魅力的で素敵です」
半分齧ったパンがテーブル上の袋から顔を出していた。珈琲も勝手に沸かしてあるし、その気になれば冷蔵庫の開け閉めやビールの開栓も容易だ。
 「あれは小説ではなくて半ば散文詩だよ」「そしてその前に書いていた日記手帳、私小説からの抜粋だ。数式の無駄な応用に、幾何学的風土文学の成り損ない、その後の顛末も、『サンセット通り』なんて在りやしないところに逃げ込むのも、僕のわがまま意固地で勝手な高潔さの独り得意だよ」
仕事中なので、とビールは断られた。そして帰ります。

 テーブルの木目にさっきの封筒がポツリ浮かんでいる。出版社からの最後の通信だ。独りで缶ビールを二本持っているのも窓ガラスの映り込みに気にはしないが、沈んでいく、既に三分の二越えて背中向きの今日に、腑に落ちる実験結果の持たされぬまま、祇園の衰退を耳の奥にすみずみ溶かしこんでいった。
 まぶたが重く書斎の電灯を小さくした。いつものごとく何も手につかず、セミダブルのベッド、三年目の今日も彼女の微笑を顎のムズ痒さに懐かしんで意識を枕から床に落とす。夕闇は急に表情おだやかで、僕のみっともない部分をさりげなし裾に隠しながら沈んでくれた。




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