第20話 日当り良好な公園のベンチで

文字数 4,291文字

 同棲三か月目、彼女がキーホルダーをなくした、春の散歩の陽気に騒ぎ立てて、昨日ピクニックをした公園を訪れる、ポケットに手を突っ込んで歩いていると何もないところに腹も減り、「このへん、覚えてる?」月曜の昼前に人通りは少なく、温暖な芝生みどり風吹けばカラコロ日差しに目ヤニ擦りながら彼女の上着を預かった。

 沿道のベンチに見覚えがあり、彼女は「ほら」小走りで、近くの高速架線が貨物の大きな音を立てると雀の群れが飛び去って、眼鏡に指を突っ込んで拭うと彼女は、白いベンチに先客、老夫妻に挨拶をしている。
「それはどんなキーホルダー?」
水族館のアシカのお土産
「見てないですな、おい、見なかったか?」
夫人は見ていないと答える。
仲のいい夫婦だな、落ち着いた柄のニットカーディガンを着た夫人がAさんにペットボトルのお茶を勧めると、小洒落たフェルトの丸い帽子を被った旦那さんがチョコレートと飴を差し出す、僕らにはこれからの暇がどのくらいになるのかその時はまだ分からなくて、夫人が言葉になる前からとても、とてもAさんに親切にしてくれるので僕は咳をひとつ、ふたつ挟んだ。

 僕たちはここから少しのあいだ優しそうな旦那さん、彼の話を聞くことになった。頼まれはしなかったが、彼女は夫人が手元でカチャカチャ音をさせているのをクスクス笑いながら、僕は彼女がいつもの人好き得意のお点前を披露してくれるだろう、面倒な気がしつつも彼女たちの交渉を待った。

 「あれから三十年になるのだけど」
子どもが三人いて自身は二年前に定年退職、夫人は医師に掛かりながら長男の紡績会社の経理事務を手伝い、「お茶の時間だよ」旦那さんが散歩に連れ出す。退職金で生活には困らず子どもたちと週に一度は食事をする、夫人は少し鼻を啜り、旦那さんは空を眺めた。

 彼女は春風に僕のシャツの襟を立てて、顔を覗き込みながらスンと鼻を鳴らした。
「腹が痛くてね、ちょっと、ここが痛いんですよ」彼は上半身の左、胃の辺りを擦りながら僕の煙草を羨ましそうに眺めていた。
「お身体わるいんですか?」
唸るように咳を払って「うちのやつが日課の散歩に飽きたらこの時間のこのベンチは他に譲ろうと、イタッ、痛いなあ」、僕しか聞けないだろうな「そういえば昨日もいらっしゃいましたね」靴底で火をもみ消して「治療はおやめになられたんですか?」、ゆっくり頷いて「そうです」もうそれから三か月になるそうだ。夫人は相も変わらず手のひらの中をこねくり回し、彼女は僕の袖に指を引っ掛けていた。
「うちの女房は情の深いやつなんです」


 彼は茶色の帽子を脱いで両手で握りながら静かに話し始めた。
「三十年前、最初の息子が交通事故で亡くなりました。十歳でした。私は仕事が忙しくて父親らしいこともあまりしてやれず、うちのが泣いてばかり、どんなに大切なものを失ったのか、分からなくて、どうやって慰めたらいいのかも分からなかった。しっかり働いてさえいれば一人前の男のような気がして家を省みず、電話で事故のことを聞いた時もすぐには帰りませんでした。そういう時代だったんです。

 妻はほぼ女手ひとつで息子を育てたと言っても過ぎたりはしません。通夜も眠らず息子にずっと話しかけていました。私の預かり知らない二人だけの思い出話をささやいて、落ち着きを取り戻してはまた泣き崩れておりました。

 うちのは一か月たっても亡くなった息子の写真を手放さなくて、ずっと眺めていて、そのころ私は会社から海外出張の話を渡されたんですが、うちのやつの心情も考え、一人でインドネシアに移ったんです。半導体の工場でエンジニアとして勤務しました。妻とは手紙で連絡を取っていましたが浮かない生気のない返信ばかりでした。

 二年経って海外での仕事にも目途が立ち帰国の話も出始めた頃、手紙から彼女の心のその、納得のいかない石ころの置き場所、みたいな、やっと整理もついたんだろうと読み取ることができました。毎日食事を作り、近所の人たちともうまくやっている、仕送りは充分で部屋に花を飾っている、って。

 海外勤務も終わり、帰国する飛行機に沢山の現地の家具や調度品を載せて、少し財産に余裕も出来たものだから贅沢もさせてやりたくて、以前の妻の屈託のない朗らかな笑顔を期待して家に帰りました。

 妻は以前と同じように家事をテキパキこなし夜もぐっすり眠って、私らは何事なく平穏に過ごし、いずれまた子どもが産まれました。私は今度こそはとその息子を溺愛しました。

 遊園地に何度も連れて行き、野球選手にさせたくて上質の皮のグローブを与え、父親参観に舶来の帽子をかぶって出席しました。この帽子です。今その息子は三十歳の手前で紡績会社を開きました。期待ほどではなかったけれど私は前に亡くした息子にしてやれなかったことを全部してやろうと英国に留学もさせてやりました。

 妻は得意の料理もするし、手芸も学校に通い、夫婦喧嘩もそりゃしましたが、そう、私たちは内から見ても外から見ても仲のいい夫婦でした。
 あるとき私が出先で胃を痛め、車で病院に向かい、着いたところで吐血しました。医者は急性胃炎と告げ処方箋を渡しましたが、迎えに来たうちのやつは医者にしつこく病状を尋ね、私を心配するあまり『ヤブ医者』とまで言い捨てました。悪態を吐く妻を初めて見たような気もしましたが私がその時あまりにも痛そうな顔をしていたんでしょう。

 その夜は胃の収まりが悪くてなかなか眠れず、妻の作った粥を何度かに分けて食べました。翌日、全快とは行かないまでも日常生活に支障のないほどには回復しました。食べ過ぎだったんだと思います。」


 彼は微笑みながら夫人の肩をさすり、柔らかそうなカーディガンの網目がほつれているのを指でそっと撫でつけた。僕と彼女は顔を見合わせ、カチリカチリと、その音と話し声のために互いの耳に余計な言葉を注がないようにただ微笑んでいだ。


「それから三年経って私はその持病のために通院と検査入院が生活の一部となり、子どもたちはまだよく分からないながらも多少の家の不幸のように使命感に駆られ、この病気持ちを疎ましく思いながらも気遣ってくれていました。
 胃が痛いとき妻は必ず白粥を作って出しました。胃になじむというか、粥が身体に悪い訳はないし、薬を流し込んで妻に言いました『ごめんな』って。妻はいつも『いいのよ』と言って微笑むと寝室に入り扉を閉めました。
 確かに辛気臭いのは私も苦手で、寝室に妻の趣味の手芸品が並んでいるので、嘴の横入りも互いにしない時期に入り、腹を擦りながらテレビを眺めておりました。」

 「ある朝起きるといやに喉が渇いて、カラカラで、枕元手探りで水差しを取ろうとすると何か紙のような物で指を切りました。痛くて身体を起こすとそこには、あの、亡くなった息子の写真が落ちていました。十歳のとき交通事故で亡くなった息子です。父ちゃん父ちゃんうるさかった、顔は私によく似た息子です。七回忌が済んで新居に仏壇を置くこともないと妻を説得し、下の兄弟たちは話には聞いても影も形もわからない。
 すこし吐き気がしたんです。喉が渇いているから尚さら苦しい。今思えばその写真が家にあることは何もおかしいことではない。ただ私が忘れていたものを他の誰かが覚えていた。私が妻や家族を愛してきたそれまでの時間、その誰かはもういなくなった人間を愛していた。私はこの時代の人間には珍しく人をきつく叱ったり、怒鳴り散らすような人間ではありません。でも胃が痛くて吐き気がして、何か煮えたぎるようなものが臓腑の奥から込み上げてきたんです」


 カチリ、彼女は僕の腕をしっかり握りしめ、僕は目の前の老人の語り口が静かに強くなり、公園の十二時のチャイムが鳴り始め、なめらかに広がり街に染み込んでいく、少し待って、彼が夫人の髪を優しく撫で、遊歩道を行き交う人々が足音を取り戻していく、ふと、老夫婦の目が合うと夫人が膨らむように微笑んで、Aさんが手を差し出すとその手のひらには水族館の人気者が返却された。

 僕にも彼女にも目的が散歩なのか立ち話なのか、そのキーホルダーなのか、だとしたらそれが一体何だっていうのか、彼女が映画館でするように僕に何か耳打ちしたくて、僕はそれも面倒くさくて、そのベンチは白くて木で出来ていてペンキが剥がれていて、夫人が「うちの人すこし難しくて」、彼は夫人の肩をしっかり抱いて話をつづけた。


「私は部屋に入ってきた妻に目を真っ赤にして癇癪をぶつけました。『お前、俺を殺そうとしたな。食事に毒を入れやがったな』って。妻は驚いて持ってきた水差しを落として割りました。私はそのとき突然湧いた訳のわからない不快な、胃の方からやって来る怒りの塊のようなものを吐き出してしまったのですが、妻はそれ以来お粥の作り方をさっぱりと忘れました。
 子どもたちの顔も忘れ、そのうち自分の名前も忘れました。私が怒鳴りつけた時の妻の顔を私はいまだに忘れません。自分がその時なぜ妻に『殺そうとしたな』なんて酷い疑いを掛けたのかも分かりません。

 妻はたまに料理をします。相変わらず私は胃が痛いのですが残さず食べます。妻がこの公園のこのベンチに来たがるので晴れた日は連れて来ます。毎日が変わらないのですが、だから毎日が楽しくつづく。私はお察しの通り彼女より先に向こう側に渡ります。
 今は散歩の時しか彼女は私と一緒に居たがりませんが、それでいいんです。いいんです。残された時間を妻と過ごすというより妻と過ごす時間がここに今、残されたんです。」


 彼女と夫人はにこにこしながら見つめ合っていた。夫人は右手でベンチの端をコンコンと叩く、目配せで、旦那さんは合図を受けたよう立ち上がり、彼女が「はい」と返事をすると、二人連れ立って声弾む蝶の公園に陽の明かりを背負って去っていく。二つの背中が春のうららかな風にやさしく包まれるように消えていった。

 隣で彼女が僕の手を取り微笑み、そしてベンチの裏側をのぞき込む、何だろう、陽気にすこし汗ばみ、涼み風に吹かれるために歩いてもいい、「行こう」、うん、「何かあった?」、ううん、「ベンチに何か書いてある?」、書いてないよ、あなた、先を歩いて、「わかった」。

 彼女は後日ひどい風邪をひいて二日ほど寝込んだ。髪の匂いを嗅ぎに行くと首を抱き寄せてくるので照れてしまったが、朝食に生卵とステーキをオーダーされた「レストランは今は必要ないね」。確かに、行く必要は元々なかったし、散歩に行く気もしばらく、「金もないよ」キーホルダーの必要もなかった。




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