第15話 契約とその満了、契約のはなし

文字数 3,053文字

 腹がすいて夜も中途に目が覚めると、カーテンの隙間から月より大きな星は見えなかった、雨は匂いのみを残し、足あとはまた明日へと続く、喉の渇きを昨日の缶ビール残りで潤した。

 プルタブの音がこめかみに痛くて、車通りも落ち着いてきたので例のベランダの椅子に腰掛ける。僕に時計の読み方を教えてくれたのは母方の祖母だった。
 迷信めいた話をするのが得意な祖母で、今も茨城の家で質素に暮らしている。元気か、問われれば、ああそうだ、付け足して、食べてるか、たまにしか電話をしないのに短い会話で、しかし気が付くと0時を回っていることに、早起きの邪魔になる自分が甘えているのだな、〆切の三時間前にコーヒーを沸かす。
 大正生まれの祖母はシェイクスピアの愛読者で、僕の小説や詩を褒めるのに目耳を鈍らせるようなことはなかった。でも今はもう何の便りもなくなっていた。

 ベランダをつなぎ居間へ、食卓の上に封筒、飲みかけのコーヒーカップは底が見えず、その隣に茶封筒がぼわーんと浮かんで、目をこすると其処に僕への解雇通告が、何度瞬きしても変わらず置かれていた。さて、編集さんは昼間、何を思して、パンの香り、気がかりの、お祝いのワイン、別の気がかりのその「理由」ってやつから封筒を切った。

 思った通り契約満了の結びとささやかな見舞金、それに国際EМSの小封筒が入っていた。海外に友人はいる、親しくはない。英語は読めない、困った顔は出来る。消印はFrance、いずれにしろ頭をひねり、宛て先に出版社の編集部と僕の名前が、費用が重点の熱烈なファンレターでもあるまいし、僕の小説文体は対外的に非常に、咀嚼しても理解し難い物の筈だ。

 便箋が一枚、インク印刷書きで、日本語のレタリックに分かり易く箇条書き。サイン欄と航空券の引換番号、文面ではどうやら僕の小説をフランス語で出版し、後援し、そして生活に関して、順に並べると先方の契約条件、

一、渡仏し、
二、リヨンの大学でフランス語と数学を専修、
三、支援者としての“私達””は支援者としての義務以上を為す、
四、アナタは“貴方”の為すべきことをなしなさい、

とのことだった。選択肢は二つ、選べるだけ、現代のコンビニエンスストアは気晴らしにもなるが、この街のこの湿り気が肺を慣性自体とニコチンを脳に貯めていたので、おいそれ着物を代えるのに大へん億劫な航空券に思えた。

 無論片道のことだし、急に胸が痛い理由も、もうここにはいられないことも、義父や義母からの電話に丁寧に卑屈に応える日課も、それとは別のもう一つのこの部屋の時計を理由に、その航空券をテーブルの上へそっと戻した。もう眠るよ、君みたいにぐっすり眠る。いつか君にフランス語で愛を告げよう、クロワッサンの駄賃を鼻先に自慢するよ、勘弁してくれ、分からなくて、人と話すなんて久しぶりだったから、喩え話で、アポロ40号は到達をその(目的)に果たされた。「おやすみ。朝ごはんは任せるね。おなかを空かせておくからね」笑えば済むと思ってるんだろう君はこの旅の結末を、よく咀嚼しないまま飲み込もうとしている、まるで遠慮なんてものが最初からないみたいに、それも一度に二人前を。

 フランス便、ワインはいかが?ライン運河は大きな時計塔の前をゆったり流れて、ノートルダム大聖堂から不変不朽のカンパニーニョ、都市に美術品は地下を埋め尽くし、祭儀のワインは移動しながらコトコト眠り続ける、ブルゴーニュの雑木林、大衆酒場にグラスが並び、三年前の樽に倉庫に、僕の旅行鞄に、赤ぶどうの青々と、はじける待って実るころ。


 さて、浅はかな睡蜜から一滴の夢をみた。寸分まつげ、思い出そうに、夢の中の彼女の笑顔に靄がかかって、それはここ数年、寝ても覚めても乞い恋しくて、無い物強請りの甲斐もなく、信号機の向こう側が遠くて、ぼくはずっと水滴のにじむ足元を見ている、これから訪れるカラフルな夏、重い雲の憂鬱に雷光うごめき、降りそうで降らない雨に誰かがそっと秋実の始まりをあきらめて、役目をなくしたコウモリ傘、腕を伸ばしては風の行き来を昨日の方角へと探していた。湿った枕を窓際へ放り投げ、飲みかけのコーヒーはいつまでも量さえ等しく、味に一くち目もその後も夢見はさほど悪くなかった。



 喫煙席のはなし


 彼女は僕のタバコが嫌いだと言った。だので僕のタバコの買い置きをいつも何処かへ隠した。ベッドの下、下駄箱、冷蔵庫の奥、ベランダ物干しに吊り下がっていたり救急箱の二重底の裏側。繰り返される都度、隠し場所に探し手は混迷を極め、ゴミ箱の中から発見した時は流石に安堵の苦笑い半分タバコが不味かった。淋しがり屋の僕の扱いをきちんと心得ていたし、朝食後にベランダに出ると洗ったアシュトレイが置かれている、万面極端として気遣いも得意な方だった。

 僕の両親の初盆で田舎に帰省する際、新幹線の座席で揉めたことがあった。駅弁が美味しければ、お茶の販売、足場の不安定なトイレ、のどかな景色や痴話旅情、荷物は多くないし、アナウンスが告げるその駅で間違いなく降りればまったく事もない。ただ僕が黙ってブックした席は喫煙席だった。叱られるだろうな、と思っていたら案の定こっぴどく叱られた。無言のうち座席の軋む音や曇り空の憂鬱、相席の老人が同じように奥方に叱られながら震える手で煙草を摘んでいた。
「やめようにもやめられないんですよ」
「まあ、数寄数寄で、夫婦やもめケンカのタネですかね」
「わたしあ肺があ癌で好き好きも通り越して、向こうの心配も通りすぎてしまったんですねえ」
「味がする方のタバコならお付き合いしますがね」

 先方の奥方は咳払いをして過ぎゆく景色ばかりに気を揉んでいた。近くはあっという間、遠くこそ眺めれば旅情の移ろいをいずこへ運ぼうか、Aさんが行く先を尋ねると東北、更に郊外は海の見えるホスピス、行き方は本人たちもよく知らず、人に尋ねながらいつか辿り着く、とのことだった。

 こちらの吐煙も喉に絡みつく頃、彼女たちはだいぶ打ち解けたようで、缶ビールを呑みながら各都市の駅弁や当地の名産物、彼女の名刺にInterior Designer、先方は上野は下町の夫婦そろって町医者だった。次の駅で僕たちは降り、老夫婦が窓から手を振るのに揃って手を振り返した。

 彼女のタバコ嫌いは相も変わらず続いた。しかし文句を言いながらも僕のタバコ買い置き隠すことはなくなった。半年後、どこからか絵葉書が届いた。名前なんて覚えてなかったが、彼女は海辺の灯台、キラキラひかるしなやかな水平線のその絵葉書を僕の書斎の窓にセロハンテープで貼り付けた。
 黄ばんだセロハンに持つ愛着は、思い出し笑いの他に今も続いている喫煙具の手入れ、彼女への申し訳なさが、分子サイズでふわふわと漂っていた。窓の向こうの排気ガスはそれこそ人類を蝕む便利に当然の不得意であったろうに。



 実はお祝いのワインを愉しみ胸に待ってみたりもした。しかしそれは届かなかった。今朝がどの朝なのか確かめようにも新聞はないし、新聞があってもどの新聞会社のものなのか、見出しにして日付は今の僕には左程期待できるものにはならなかった。

 彼女はまだ眠っているだろう、若しくはパンを買いに散策しているか、距離にして徒歩だが煙に隔てて、この際にも漂う膨大な粒子は世界文化の隔壁と屹立し、飽きて一本の煙草がながく長くて、そもそも遠い先の期待の筈には仮に何かに喩えたとしても、いつものコーヒーの味に違いはそう変わらなかった。




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