第35話 物語の在り処をさかのぼる

文字数 3,643文字

 天気予報はとても親切でその日のアメダスや気温、紫外線量と光化学スモッグを教えてくれる、それはテレビとラジオがあれば誰にでも気前の良いやつだ。梅雨は明後日には上がり、紙芝居やフラッペ屋や桶屋が忙しくなるらしい。
 沸かしたての珈琲に鼻をつけ、熱がるのにも一人ほのかな愉快、眼鏡が曇り、ワイシャツ、ネクタイ、革靴に足を突っ込み階段を段飛ばしに駆け降りた。電車の吊革に掴まってテレビが付けっぱなしなのを思い出したが、もう一人分追加して電気代を算すれば以前いつもの些事だった。

 幹事を無理やり任されたもののその役をいつの間にか譲渡し、招待客の顔をして財布と既に半ば酩酊した胃袋を持参する。主人公が自分だと物語がヒロイックに流れていくのが目に見えてきた半生だったので、洋行帰りの友人に酒食全般の音頭を任せてある。

 ポケットに自作のなかなか笑える数式のメモを忍ばせ、電車は乗り換えが二度、ハラハラ小雨の肌寒さが勝って自販機でお汁粉を買い、下北沢の沖縄料理店、何度か来たが暖簾の記憶、入るとエアコンが更に寒くて、小上がりには先に六人、待てど、僕の後には誰も姿が見えなかった。

 メニューに泡盛の銘柄と値段が列記してあり、揃えて酔えれば欠伸と本音もいずれ出よう、一通り参加者の顔をちらちら眺め、店内の他客もさりげなく目認したが化かすような妖かしは足音させず、水を一口含み喉から胃へ、吐いた息吸い込みそのまま安堵を落とした。「久しぶり。もう飯は済ませた」

 集まった面子を見ると自分も含め七人。例の洋行帰りと、企業コンピュータのエンジニア、高校の数学教師、農耕学兼民俗学者、この四人は覚えているし数学教師の彼は三年前の結婚式にも参列している。もう一人は尋ねると主婦で三児の母、後のひとり黒髪長髪は奥の見えない瞳から睫毛刺して「当ててみて」すこし気まずそうな口元をするので、午酒酔いから一間の隙をつくり、当てずっぽうの空鉄砲で「占い師か霊媒師で僕の前世でも肩に見て、無いものを在るとでも云いそうな」泡盛の盃にフフ鼻息が転がり、
「ええ、そう、そうなの。訊ねたいのは此方の方で、あなたは誰でいったい何処に居るの?。私はさっきここにきたばかりなんだけど」。

 全員が音だけ先に大笑いして「ああ、そう、妻に先立たれ椅子の座り心地はどうしても良くないね」いいえ、まったく「そういう話」ではないのよ。あなたは故国の「物語」ってその成り立ちを「ご存知?」。カンパイの音頭は目泳ぎ任せ僕の耳カクテルは垂直に彼女へ、大丈夫あなたは「ここにいる、たぶん」そう、教えてくれても釈に全然おさまらないのはその質問、コップに揺れる水に目を移した、素直に経き緯つを答えたくないのはその意図をもしかしたら、勝手に自分が深く理解し過ぎてしまいそうだからだ。

 彼女の云う「物語」とは・今昔物語・と・歌物語・から結実した紫式部かの女に由来しよう、その後は酔う酔う打たた寝考える。

 「今は昔(今となっては昔のことだが)」「むかし男ありけり(業平現偈)」五・七・五・七・七、実は在原業平主人公の物語には地唄が快く想える節ならび、名無しの影が炭絵を踊るのに綴づり閉じる指伝承の雅楽譜、眠っているのか起きてどこかしら彷徨っているのか、夢現つつに矢印磁石当てならず邁進し、かならずそれは二つ目、二つ目の世界で井筒よりコップに水たゆたうよう汲んで目をこする。

 僕の文学作品及びその筆術にもかならず二つ目が存在する。一つではその世界では上手に生きられない、だからと副流に偲び支離滅裂に万化なる「声」を各地散没する。複数の世界を一つに結び付ける歌曲が柔軟に色形を変え、あふれ出すその世界を手に取りやすく其処此処パッケージングしていく。

 散ればこそ いとど桜はめでたけれ うき世になにか 久しかるべき

 井筒に比べてきた平安期につくばね連歌の昔と謂わしめた物語は石に変わらず、花にして詩に刻みたもうものの、虚ろと袂のわかれざる、韻律がつづけば結びに更なる移動の期待余白を残して、もう一つの現在が進んでいく。

 此たび懇中の彼の女が云わしめん今にし心得る「物語」の在り処、時代に朔流するに「多目的実存主義」と「シュール多面型夢幻式」、「記録タイプ」と「フォルメ・モデルニテ」、主題のないストーリーにこそフィクティフの結びを余白へ繋いでいく。源氏物語の断章は各々「をなごし」の(名並び)に「光る君」彼を移動させている。

 記録媒体としての絵巻物と仮名かな文字のアーキテクスト、大学同期の彼女が言うに、言うように、言ったように、僕は僕の物語に、その中に押しとどめられつつ縦横無尽に移動しながら生活している。小泉八雲のムジナのように失面性にひた、ひた隠れがくれ、戯作者のように倹約戒厳令の身不自由に地下室あふれる酒に悶えて、限られた範型のスケジュールでイルカよろしく大洋を回遊し、塀上の猫の喉鳴らし横目そら鳥みだれ雲を語るがたる避ける。

 この世界には移動に伴う各「線分」が隔てられ、露店に金魚鉢が沢山ならぶ。水が満たされ充分で其れはこぼれない。沢山並ぶそのうちの一つは僕が子供のころ祖母に買ってもらった、太平洋戦争後に人渦に翻弄され、持ち主変えて金魚も知らぬ、呼ぶべき名すらないビードロの売値ない骨董である。

 祖母は「どんなに大切にしていてもモノは壊れる」祖父の湯呑み「それでも飲み込んで抱きしめて大切にするのですよ」僕はね、「いなくなっちゃうの?」隠れんぼは得意で「おやつは?ママは?さっきバケツで泳いでいた魚は?」質問攻めに寝惚けた老眼鏡を「んん。目にゴミが入って」声が小さいから、もう一回聞き返して返事がなくて、手持ち無沙汰で飴玉さしだして、夕日がじりじり額に痛いから「ごはんは?」って、祖母は優しいからいつも優しいから「あなたはどちらさまでしたっけ?」丁寧に言葉を置かれると自分が怖くて「いやっ、触らないでください、痛いですよ」って続けて「玄関はそちらですよ」って、僕が僕じゃないみたいに「ごめんなさいね」って僕をニワトリを見るみたいに見る。

 世界が窮屈で心臓ばかり大きくて、鼓動が耳に憎たらしくて息を吸って吐くのが精いっぱい、夕日がなかなか沈まない、炊飯器が蒸気を上げ続け天井に染みを作り、それは昨日だったか一昨日だったか、十年前だったか、物語に、果てなく雲のクジラのような回遊する生物に、毎日のお小遣い、午後を過ごすポケッタブルな貨幣価値を備えた。

 「物語」って、その定められた中で続いて行ってしまう、閉じ込められた永遠はスペクトラムを自在で、僕ばかり振り回されるのに彼女は同時刻その世界の中心にいる。北極星に手が届かないようにその揺らめく光を手に掴めず、足元でわかる地面の執拗な重力に、僕は隣人に話しかけ、「毎日」、当たり前の幕壇を演じ舞台裏でも変わらず明日の出番を待つのも、彼女にとっては一つながりであった。

 女は言う「物語」は私たちなの、誰も知らないけれど、私たちは「物語」で、あなたはそれを空に描く水夫なの。溺れたりしないわ、私たちがその舟を待っているから、どこにいるか、誰なのか、分からなくて当然、だいじょうぶよ、ただたまに確認はしてちょうだい、空を見上げて雨雲の上に光ゆらめく星を探して。

 今日の会費は五千円。泡盛もオリオンビールもラフテーも臭豆腐も胃に収まり、七人でたけなわの縁を共有した。時計は二十二時を過ぎてラストオーダーはまだ先だったが、一人が二軒目の店に三軒茶屋に新しく出来た天ぷら屋を推薦した。断りを入れたがそれももう言う前から分かっているようにハンドサインで了承された。

 僕に幻惑ねがい朧夢を見させた彼女は別れ際に月を見上げた。つかの間の晴れ間に湿った空気包まれ、彼女は髪の中から瞳を潤わせて「あなたは巴里へ行くべきよ」目的や生活が宙吊りになったまま「僕の奥さんが眠ったまま。朝ごはんまで待てないかい?」首をうなだれて「残念だけど」。

 ああ、そうか、それが何処の誰だかの思し召し、動じない北空の主ド・ポーラー、夏の大三角形は地球も結んで手のひらの四角形になり、日記に書くならなんの変哲もない一日で、この末永く裕福な酒宴の酒の味くちのなか、Aさんの思い出もその胸苦しさも吐息とともに、間もなく夏の星座に、彼女は小さく手を振って、口笛ごと盗まれるように、ふうと溶けていってしまった。

 こんな夜は数学日和だな、延と続く昇降数列がまつげに螺旋し、ポケットをまさぐると二進も三進もメモ用紙が宛付かなくて、友人たちが喧騒に飲み込まれていくのを遣り過ごし、ひとり駅前のパチンコ屋であぶく玉の数に埋もれて終電を待った。
 アルコールでふやけた脳で思い出すと、以前は珈琲を沸かす音だけで安心していたんだな、無理に財布の軽さに尤もらしい理由を付けて、甘えと惚ろ気を奥歯でひとり噛み占めながら、終電は僕を待って、定員を満たし、疲れた声のアナウンスとともに駅を後にした。




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