第49話 ハードボイルドとは僕にはむつかしくて只の散歩

文字数 1,866文字

 目的地=フルリュス通り27番地=、少し遠出の散歩に出た。行ってみたかったんだ。地図を広げて小一時間歩いた。
 眩暈が同じところをくるくる逍遥させるので、売店で新聞を買ってカフェでひと休みする、珈琲が冷めるのに「時間」は正確でなく必ず既にパンケーキは食べ終えた。

 こう考えるとどうだろう、人通りを背景と入れ替えて僕の「位置」から小説のネタを釣りあげようとする。セーヌ沿いに釣具屋が並び、声を上げて知産ブルジョワジーを呼び込んでいる。騒がしくて、だから僕は灰皿とライターで物思いに耽る。ライオンが夢に眠り、アーネスト・ヘミングウェイはかんがえる。


ーーー旅をしよう、日曜日だ。ペーパードライバー風情はせいぜい近場の川釣りどまりだが、古い友人が死んだ、海を隔ててサヨナラも何だから、ピクルスとサンドウィッチとワインを二本バッグに詰めた。戦争で死にかけた俺が今じゃ夕餉に喰う魚のことばかり考えている。日がな「魚の話」ばかり考えている。

 鈎針を結わえた釣り糸を右指から垂らし、その魚を誘い出す。その川には必ず魚が棲んでいて、そいつの好物が何なのかは知らず、此方も腹を空かしている。左手でサンドウィッチにピクルスを挟んで口に運ぶと水面に大きな魚の口が見えた。「あいつだ」ワインを瓶口から飲み込んだ。あいつは笑ってやがる。

 川上から静かで冷たい水が流れてきて泡を吐く。昼過ぎまで待ってそれから本腰を入れよう、向こうもそう思っているはず。煙草にマッチを掠らせ、大仰に紫煙を吐いた。日曜だから散歩人や他の釣り人も見える。全員が腹を空かしてやがる。腹を空かして遊んでやがる。春風は岩の間するする駆け抜け、雲を数えるうちに日が斜めに両目を差してきた。川面にあいつは見えない。だが確実にあいつはいる。ただ夕陽が川面に反射して確かめや出来やしない。

 食い物も酒もなくなり釣果をあきらめ帰っていく輩もいる。俺はまだここにいる。足を引き摺って手ぶらで帰るのは全くもってご免だ。太陽が今日の役目を終えよう水面がふと際立って揺らめき輝いた時、右指の糸がピンと張りつめた。よしっ、さあ、これだ、こいつだ。そうだ、よしよし、そうこなくては、糸の微細な動きを捉えながら咥え煙草の優越感で立ち上がろうとする。ここからだ、逃がしはしない、よしっ、闘いに備え手に付いた油をズボンで拭う。風にワインの空き瓶が転がり気を取られる。すると想像だにしなかった信じがたい力で、橋げたが落ちるように川へ無理やり引っぱり込まれた。

 やれやれ、全身ずぶ濡れの俺を見て笑って魚は逃げていく。ああ、その通り、あいつはわざとゆっくり川下の方へ泳いで行きやがる。

 もうすぐ日が暮れる。ついてない。帰り道、知り合いのバールに寄り道して魚についてずいぶん語ろう。あいつのエサ場には宝箱が埋まっている。誰もその中身は知りやしないが、宝箱の装飾だけは、それは本当に立派なもんなんだ。ーーーーー



 テーブルでスコッチグラスが汗を掻いている。散歩疲れに立ち止まり、犬の散歩連れやベビーカーが街角を曲がり、粉塵に泣き声が聴こえて路面に染み込む。街は何処までも繋がって、その先でパリジェンヌがストローから甘いラテを啜っている。

 椅子から立ち上がると急に脚に疲れが落ちて、遠出の散策の後悔をカクテル片手に始めることにした。くわしくなくてどれも何も選べやしなくて陽も滑り落ちそうなほど傾いていた。ギャルソンに今の気分に合ったおすすめはどれか尋ねると
「どれもなんもかんもお勧めです。インクを消費してメニューに載せるくらいだから」
 
 明日はこっちで出来た画工の友人とルーブル美術館に、約束の時刻は午後二時、午後六時には閉館だからミケランジェロだけ眺めて終わる。どうせなら作者不明の作品だけ見て回らないかい、それが判らなかったら製作時期も創作意図も展示理由もキャンパスや石膏、元は変哲の無かった石の塊、余計な憶測ばかりの浮わついた入館料にもなりそうだ。

 友人は午前中にどうやら風変わりなインテリアショップのオープニングバザーに行く予定があり、店の名前は忘れたが全ての家具が組み立て式、組み立て前の段階で販売されていて設計図はどちらも無いらしい。ガレット店が生地だけこだわり抜いて其れ以外の食材を客に発案させるような頓狂な家具屋だがデザイナーも相当な気紛れを売っている人間だろう、僕はもう疲れて、あとワンショット飲んで帰ろうか、明日は予定がある。そのガレットを安心できるテーブルとチェアで食べたい気もするが、御目当ての開店日は明日だ。




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