第25話 眠りと深度、きっかけさえあればそれがライオンであろうとも

文字数 2,900文字

    枕もとの絵本、本棚の絵本

 寝付きが悪いのを僕のせいにした。僕は不眠症を看板にしていた。そして眠る技術を発明していた。しかしそれを彼女に教えるのは不本意だった。人の話し声に安心感を覚えるのは自分だけではないだろう、そして彼女もそうに違いない。テレビをつけるのも音楽をかけるのも眠る前の所作としてありきたりなものだ。僕は絵本を読んだ。何年何十年も前の、いずれと絶版になった絵本の話を、日課になった彼女の声を思い出している。

 動物園のライオンが檻を抜けだして冒険に出る。町なかにライオンがいたら大騒ぎ。ドロボウを撃退し、警察に捕まり、人々に助けられ、美味しいご飯を食べる。結びに動物園に帰り、旅先でたいそう感銘を受けたソフトクリームという冷たくて甘い食べ物を他の動物たちみんなに分けて配る話だ。夏の話だったと想う。夕暮れ時に少し寂しくなり、やわらかいソフトクリームが口に溶けてひろがって、みんながみんなよろこんだ。登場動物の多さだけにおおぜいよろこんだ。


 幼少時、両親共働きの僕には手をつないで遊ぶような友人はいなかった。求められるものと与えられるもの、必要とされるものと欲するものの均衡が酷く崩れた多感な時期だった。人が嫌いだったし祖母の他に季節時期折りの祭儀を施してくれる人間はいなかった。

 自然が生命化され顔と身体を得て、塔のように重なり続ける文明はつま先立ちのあと音を立てて滅びた。そっと歩けば影がついてきて、風の触覚にひとりだけの微笑みを空に浮かべ、己よりも長い時間生きた鉱物や植物、これからも延と続いていく生命の声の飽和、むなしさは一人遊びの得意だったし、それを説明する相手として厳密には、僕はひとりではなかったのだ。

 可笑しな話で、またよく聞く想像のつく話だが、いわゆる幼児由縁の対対人関係折衷タイプのインビジブルフレンドのことである。僕の場合はこうだった「空想上、天体から飛び出した人類の最初の王、その帰却、そしてあしあと」。

 1979年夏、その王は旅に出る決意をした。しばらくは見納めの街、紀行文を書くのに必要な日銭や太陽の角度を計算し、なるべく荷物も多くならないように気を配っていた。
「誰かいるの?」大人の声で
「ぼくがいる」僕が答える。
夜半に布団の中、懐中電灯の橙色のやさしい灯りは未だ脳の奥ゆかしみにこびり着き、朝を無抵抗に押し付けられるのが窮屈で、おねしょの言い訳をするのに証人は気付くといつもすでにいなくなっていた。隣の家の鶏が鳴くころ、のんびりしすぎる朝食を叱られて、眠い目をこすりながら柱に向かっておはようをする。すべってころんでもそいつのせいだし、教師にしこたま叱られるのも何となしにそいつのせいだった。

 彼、若しくは彼女だったろうか、いつしか僕は星空にそいつを探すようになった。顔のぼやけた友人の失踪時期は、僕の整理整頓術が一人暮らしの苦渋の中に勝手に上達し、きちんとした格好できちんとした財布から額面に惑わずひとりで夜の雨に喉くすぐられ、ビルディングに囲まれた空が牢獄のよう、鳥の住処は決まっていて、その友人がもう来ないことが自明と呼べる明晰さを以って自分の歩調が足音なしに、規則への同調が感じ取れる、探していた宝物がその地図自体へと移り変わった頃だった。

 酔い覚ましの帰路、歩けば電柱が邪魔ばかりして、それは友人の通夜の帰りだったが、もう名前も、もとから知らなかったのかさえ辿り着かぬ問答をし、北極星が一番きれいに見える季節、うろうろ焦点の合わぬのに胃薬飲んで、酒焼け喉に歌詞知らぬプロテストソングを大声で歌った。パトカーのサイレンが遠くから響き、つのる不安に押しつぶされそうな自分が影ごといつか通り過ぎてくれるものと、心もとより臓腑の底からも願っていた。

 そして全く別の似姿をした別の友人が我が戸をノックすることを待ち望んでいた。酒に酔いどれて我を失い、夜に星の見分けのつかず、朝になればどこかに小舟で、漕ぎ疲れては勝手に眠り、木々に果実に目を染めて、その異国の明るさと危うさに物言えず、言葉の通じない村落で僕は腹が減って不安でしかたがない。

 されば身の齧られたような気もしてあからさまな損失に値する。こうなっては人々の判別も自分の判別もほとほと危うい。そう、その時を以ってして友人二人分くらいの余裕が出来たのである。

 絵本には文章のみならず絵画が施されているのには興味しくしく、今でも古本屋巡りをするのに、東京中を歩いたって僕の本棚には以来、Spaceのふところ、お腹にはたまらないけど習慣の場所として、枕もとに目覚めればそれを本棚に戻す帰巣本能ぐらい、沸いたコーヒーの片付け、パン齧って洗濯物を干して、煙草のヤニまみれ気に入りの絵本はいつだって予約の埋まるその時を待っている、20.5×19×5。
 彼女はたまに捲っては気に入った頁だけ朗読してみせた。

 さて、差出人に「POOL」。手前ものさしのまま「LOOP」。遊び勝手がすぎれば自分で自分に出した手紙となろう、中身はまだ確かめていない。その投函がいつ、誰から、目的は、誰に宛てて、いずれも未確認で、まず僕が自分の居場所を地図上に確認する。
 ゆっくりと時間かけて部屋という部屋を探しまわり、しかしその投函人に憶測がまったく行き着かず混迷するまま、目が回るような忙しい明日の起床時間に従わなければいけなかった。

 そう、明日は用事がある。文面に従え航空券の数字(16:15)、ヘンテコな案内だ。それは郵便の差出人と投函人が別の人間だとうまくいくことも、それがそもそも日付に束縛されない一つながりの世界に僕が一人で存在しているってことを、毎朝、洗面台に向かう自分だけは知っているから。

 最初の頃は郵便受けが怖くて、もうこれ以上傷つけられたくなくて、思うように動かない脚ばかりベッドから下げて、重たい枕がカビて咳が酷くなるまで、郵便受けはそこから先の悲しみを引き受けるよう僕や君の残った世界を一身に引き受けてくれていた。

 二度目の夏には酒を買いに行くぐらいは事無く、その度に目にする洪水のような投函口を次第に笑えるようになってきた。

 今はね、雀がうるさくて、カフェインも適量、新聞は芸術欄のみ、知り合いに医者がいなくて困っていたが、今は医者が知り合いになった。

 今まで大家さんが気を遣い大量の郵便を片付けてくれていたが、先日ほんとうに必要そうな郵便は全部預かっている、教えてくれた。近所迷惑もよく叱られた三年前、今は少し整理もついて、ことしずかに、今日はもう眠ろうと思う。結局なにもしていない、そう日々に逃避する僕の現実と、無遠慮にその平安を破壊する彼女の明日がいずれ重なりあう、人の手で書いた平行な等分線の機器的明算をもうすぐ明らかにしてくれるはずだ。
 僕は何もしていない。何もしていなかったし何もしないだろう。そう、ただその絵本を毎晩枕元にそっと置くだけだ。

 そういえば郵便受けにはチューインガムが入っていた。かならず誰かが来たのには間違いはない。そしてその誰かは僕がこういう時お腹が空かないのを知っている。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み