第17話 無理強いのダ・カーポ、深呼吸とカノン
文字数 2,333文字
世界中にアイ・ラヴ・ユーが溢れても、煙草を吸いながら、魚の呼吸の告白、君の口からじゃないと実感覚としての質量や、ガートルード、僕の詩には韻律が少ないような気がして、都会の瞬端の静けさに耳を拾い、繰り返される音符の数を空のまっさらな記譜に、主格目的格を置き換えながらテーマを間に挟んでみたりする。
これから覚えるのはフランス語で、セラヴィ、アクセントを意識して問答を繰り返す、君はどこ?、君はだれ?、何する勇気も出ないところに編集さんの狂言回し、並びにコーヒーの飲み過ぎで更に気が滅入ってしまった。確か「局地天体的ななんとか」と言っていたがその建設方法は施工手順を間違えると住み処のない星になり、借金ばかりかさんでしまう、繊細な注意が必要なテナントだ。これは僕がだいぶ前に話して聞かせた。
なので慎重に順を追って整理しよう、必ず君へ辿り着く方程式、寸分の狂いもなく計算され尽くした解法、時を巻き戻し昨日のこの時間、言葉は饒舌でない方が異国では円滑に事が運びそうな気もする、片腕がしびれて毛布がまつわりつき、例えば日曜日ではないそういう日曜日的な朝食に冷めたトーストぽりぽり齧る。何曜日なのか、思い出しつつはっきりと浮かばないまま、天井の照明器具を眺めて、僕はベッドから起き上がらず、そのまま足の裏を掻いて、予定と呼べる人生のレールを毎朝の雀のすすり泣きに喩えていた。
体調が悪かったわけではない。起きる気がしなかった。だから起きなかった。そしてその前の日もそうだった。
目覚ましを止めてベッドに戻り、点けっぱなしのテレビが天気予報、アスファルトうなだれる東京の地響きに居心地悪く、土地と労働の切り売り、古びたモータリゼーションの讃歌に必要以上の迷惑を頭痛被り、写真を見つめたまま今日がまたしても訪れた。三度目だ。だからと何も言わず枕をひっくり返す、居心地の悪い部屋の上に殊さら日和が差し込むのが迷惑だった。ダイニング・テーブルの上でピーピーガーガー、携帯電話にアメリカにいる友人のアドレス、振動と同じテンポで耳障りな電子音が鳴り響いた。
久しぶりの声で「変わりはないか?」、邪険にも出来ず「何年ぶりだっけ?」、「さあな。結婚式は出席できなくてすまなかった。ワイフは?」、瞬く間に喉に痰が絡んで「ああ、うん、眠ってる。何時だと思ってるんだ」、「こっちはまだそっちでの今朝だよ」。
用件は三ヶ月後、出張で日本に帰る、同窓会でも開いて欲しい、とのこと。あまりにも肩から背中が気だるくて、気だるい返事でうやむやに了承した。
さて、タイマー設定でコーヒーが湧き上がり既に煮立っている、枕の匂いも、壁掛け時計、黄ばんだレースカーテンや隙間から漏れてくる朝の喧騒、カレンダーも捲らず、去年にくらぶれば若干の心安じて、モカの甘い香り漂い、ノスタルジ・キー、ただ電話に無理やりベッドから引きずり出されなければもう幾分の空腹も先延ばしにできたのに。
カップラーメンにはお湯と時間、使い古された箸や誰の目にも映らない腹の音「いただきます」、湯気に温度が消えて奪われて、午後には雨が一降りするらしい、そういうのもう慣れてるよ、ひとり言が部屋の隅に薄ら消えていった。食後にコーヒーを含んで笑ってもおんなじこと繰り返し呟いた。
以前いつもの滲み着いた習慣で窓を開ける。開放的な夏が一人分先を歩いていて、差し引きに何の愉しみもないバカンスを他の皆に預けた。冷蔵庫には昨晩買っておいた缶ビール、彼女は今頃寝息を、夢見がちな女だったからさぞ忙しくスケジュールを立てて、僕がコンビニから帰って来るのを静かにのんびり待っている。煙草の銘柄にはこだわりなく飲めるものを飲み込んだ。
眼鏡をかけると時計が9時を回っている、新聞配達員は一度午睡を摂る頃合いだし、二度寝の早起きは誰にも叱られないだろう、胃がむかむかするのでもう一度横になるのも言い訳を灰皿へ独り善がりにした。
笹の葉を割いたような雨の匂いがする。学校の卒業式の日の匂いや遠足の帰りの匂いとも違う、平生流れている不足感に輪をかけ、さらに谷底に向かう意識白濁の中、堪えきれない焦燥を背中に感じ突と目を覚ました。午前十一時、去年とまったく変わらないあの匂いだ。
子供のころ通り雨に濡れた。教科書も靴も町全体が沈むアトランティスのようにズブ濡れだった。
家に着くとタオルが一枚用意してあり、祖母が、菅原様も意地悪ねえ、くわばらくわばら、通り雨だから、ゴロゴロ怖いねえ、明日は晴れるから、くわばら、おまじないのように何べんも僕に言い聞かせ、いい子で両親を待っているよう冷えた身体を抱きしめてくれた。
記憶の中だけの向こう空に架かる虹に僕は「通り雨」の名を耳に知り、タオルの温かさから抜け出せずまだその実態をつかめないでいた。
午まえに遅めの朝食を済ませ、窓外とおく眺めると鈍色の雲が押し寄せてきていた。食器を重ねてダイニングに目を移すと、これまで気にもならなかったそれはキッチンの邪魔になり三余年も経てば疎ましさも消えた造形物、冷蔵庫にビールが冷えている、誰も一度も座らなかった不思議な椅子が視界に入り、彼女との思い出すばかりの日常生活に感傷的に為り過ぎないよう静かに窓を開けた。
追って夏がやってくる、逃げてばかりはいられない今更ながらの男らしさってやつが、煙草ライター、暗雲破天荒に抗し自ら足で進ませた、灰皿が溢れ、彼女はまだスヤスヤ眠っている。毎日が不可逆に算上され、いつもこの日はこんな日のはずだ、数式にぽっかり空いた特異点の、再びくりかえし景色がやってきた。雨をたっぷり運ぶあの雲、負けじビールを呑んでやり過ごそう。
以下、前文へと繰り返される。
これから覚えるのはフランス語で、セラヴィ、アクセントを意識して問答を繰り返す、君はどこ?、君はだれ?、何する勇気も出ないところに編集さんの狂言回し、並びにコーヒーの飲み過ぎで更に気が滅入ってしまった。確か「局地天体的ななんとか」と言っていたがその建設方法は施工手順を間違えると住み処のない星になり、借金ばかりかさんでしまう、繊細な注意が必要なテナントだ。これは僕がだいぶ前に話して聞かせた。
なので慎重に順を追って整理しよう、必ず君へ辿り着く方程式、寸分の狂いもなく計算され尽くした解法、時を巻き戻し昨日のこの時間、言葉は饒舌でない方が異国では円滑に事が運びそうな気もする、片腕がしびれて毛布がまつわりつき、例えば日曜日ではないそういう日曜日的な朝食に冷めたトーストぽりぽり齧る。何曜日なのか、思い出しつつはっきりと浮かばないまま、天井の照明器具を眺めて、僕はベッドから起き上がらず、そのまま足の裏を掻いて、予定と呼べる人生のレールを毎朝の雀のすすり泣きに喩えていた。
体調が悪かったわけではない。起きる気がしなかった。だから起きなかった。そしてその前の日もそうだった。
目覚ましを止めてベッドに戻り、点けっぱなしのテレビが天気予報、アスファルトうなだれる東京の地響きに居心地悪く、土地と労働の切り売り、古びたモータリゼーションの讃歌に必要以上の迷惑を頭痛被り、写真を見つめたまま今日がまたしても訪れた。三度目だ。だからと何も言わず枕をひっくり返す、居心地の悪い部屋の上に殊さら日和が差し込むのが迷惑だった。ダイニング・テーブルの上でピーピーガーガー、携帯電話にアメリカにいる友人のアドレス、振動と同じテンポで耳障りな電子音が鳴り響いた。
久しぶりの声で「変わりはないか?」、邪険にも出来ず「何年ぶりだっけ?」、「さあな。結婚式は出席できなくてすまなかった。ワイフは?」、瞬く間に喉に痰が絡んで「ああ、うん、眠ってる。何時だと思ってるんだ」、「こっちはまだそっちでの今朝だよ」。
用件は三ヶ月後、出張で日本に帰る、同窓会でも開いて欲しい、とのこと。あまりにも肩から背中が気だるくて、気だるい返事でうやむやに了承した。
さて、タイマー設定でコーヒーが湧き上がり既に煮立っている、枕の匂いも、壁掛け時計、黄ばんだレースカーテンや隙間から漏れてくる朝の喧騒、カレンダーも捲らず、去年にくらぶれば若干の心安じて、モカの甘い香り漂い、ノスタルジ・キー、ただ電話に無理やりベッドから引きずり出されなければもう幾分の空腹も先延ばしにできたのに。
カップラーメンにはお湯と時間、使い古された箸や誰の目にも映らない腹の音「いただきます」、湯気に温度が消えて奪われて、午後には雨が一降りするらしい、そういうのもう慣れてるよ、ひとり言が部屋の隅に薄ら消えていった。食後にコーヒーを含んで笑ってもおんなじこと繰り返し呟いた。
以前いつもの滲み着いた習慣で窓を開ける。開放的な夏が一人分先を歩いていて、差し引きに何の愉しみもないバカンスを他の皆に預けた。冷蔵庫には昨晩買っておいた缶ビール、彼女は今頃寝息を、夢見がちな女だったからさぞ忙しくスケジュールを立てて、僕がコンビニから帰って来るのを静かにのんびり待っている。煙草の銘柄にはこだわりなく飲めるものを飲み込んだ。
眼鏡をかけると時計が9時を回っている、新聞配達員は一度午睡を摂る頃合いだし、二度寝の早起きは誰にも叱られないだろう、胃がむかむかするのでもう一度横になるのも言い訳を灰皿へ独り善がりにした。
笹の葉を割いたような雨の匂いがする。学校の卒業式の日の匂いや遠足の帰りの匂いとも違う、平生流れている不足感に輪をかけ、さらに谷底に向かう意識白濁の中、堪えきれない焦燥を背中に感じ突と目を覚ました。午前十一時、去年とまったく変わらないあの匂いだ。
子供のころ通り雨に濡れた。教科書も靴も町全体が沈むアトランティスのようにズブ濡れだった。
家に着くとタオルが一枚用意してあり、祖母が、菅原様も意地悪ねえ、くわばらくわばら、通り雨だから、ゴロゴロ怖いねえ、明日は晴れるから、くわばら、おまじないのように何べんも僕に言い聞かせ、いい子で両親を待っているよう冷えた身体を抱きしめてくれた。
記憶の中だけの向こう空に架かる虹に僕は「通り雨」の名を耳に知り、タオルの温かさから抜け出せずまだその実態をつかめないでいた。
午まえに遅めの朝食を済ませ、窓外とおく眺めると鈍色の雲が押し寄せてきていた。食器を重ねてダイニングに目を移すと、これまで気にもならなかったそれはキッチンの邪魔になり三余年も経てば疎ましさも消えた造形物、冷蔵庫にビールが冷えている、誰も一度も座らなかった不思議な椅子が視界に入り、彼女との思い出すばかりの日常生活に感傷的に為り過ぎないよう静かに窓を開けた。
追って夏がやってくる、逃げてばかりはいられない今更ながらの男らしさってやつが、煙草ライター、暗雲破天荒に抗し自ら足で進ませた、灰皿が溢れ、彼女はまだスヤスヤ眠っている。毎日が不可逆に算上され、いつもこの日はこんな日のはずだ、数式にぽっかり空いた特異点の、再びくりかえし景色がやってきた。雨をたっぷり運ぶあの雲、負けじビールを呑んでやり過ごそう。
以下、前文へと繰り返される。