第26話 その旅は以前に予定を繰り返した

文字数 3,091文字

 チューイングガムが昨夜から口の中にこびりついて、枕に反響する歯の堅い跫音と舌に少し切れた痛覚が連れ立って目が覚めた。時計が惚けて見えて眼鏡が足に当たる、ボンボン鐘つきが数え唄、テレビは電源を抜いていたし逸早くの身支度色気のけむり先、洗顔フォームと歯ミガキ、香水ネクタイと靴下で戸外に出られる筈だった。

 ふむ、もう今からじゃ間に合わないな、独り言の耳眠たさに飲み差しのグラス・スコッチ、気にしない女だし、気にしない女だったから、洗面所に欠伸を蔓延させるまで酷い寝癖に気づかず、航空券をパスポートに挟んでスーツケースに、今はもう「風と共に去りぬ」羽田空港までの移動距離はどの移動手段に任せても、どうしようか、空港に電話を掛ける前にガムを包み紙に吐き出して手芸のダストボックスに放り込んだ、そう、寝過ごした。

 「急だな」「せわしないな」、急ぐといらないことばかり頭に浮かぶ結婚前夜の夢まだらのように、まだ起きぬ君にいつか空からそっと口付けるよ。

 ここでもう一度彼女の行方を案じる。まずは目が覚めてすぐに顔を洗う。一度寝起きに「口の周りに食べかすがついてるよ」からかったところ、鏡も見ずにキッチンで顔を洗った。眉毛が痒くなって爪で傷をつけると彼女は面白くないように洗面行動を次所、うがいに移行した。鏡に写る鏡はその奥の扉を永遠に開けたままにする。そう、出口の見えない迷宮のように君が毎朝ぼくを閉じ込める。


 家を出るのに靴下を探すがそもそもの荷造りに揃えてあったので、荷解きも、直り切らない髪の跳ねも、トースターからパンが飛び出して、珈琲はさっき沸かして半分は既に胃にある。冷静に戻ると夢に実感がないのも、社会生活に理想の先端がないことも、どちらも先に果てないことも、この三年はカフェインと酒量に懺悔の時間を許していた。

 冷めたトーストを齧ると一羽の雀が部屋の窓ガラスに飛び込んできた。ベランダに出ると散りぢりの茶色い羽に白い息言切れ、してもいない悪いことをしたような気にもなり、空を眺めると雲のなだらかなグラデーションと時おりの斑の青空に、六月はカレンダーから塗りつぶして毎年過ごしてきた自身の卑屈さを、ちいさな雀の絶えゆく呼吸に謝った。

 云う事を聞く子と聞かない子、暴力的に無理やり二つに分類し、そして後者に逆さまを考える。彼等の云う事を大人しく聞いて、頷いて、既成ナラティブとしてのバベル崩壊神話を信じて疑わない。然かし建立中のその塔を「バベル」と生活する言語社会の仮宿に肉体を労資する人々は、目の前の建造物の行き着く先を全く知らない。学生時分の言い訳は「無知の知」ではなく、従順なる「知られざる普遍性(蓋然律)」に限った。

 子供は云う事を聞かない。嫌われるし遠ざけられる。しかし追随するものなく天体に収まることなく窮屈は毎夜の盗人、傍若無人な時間の強奪者、天井を眺めながら理由なんて恥ずかしくて言えないし、眠るのに手こずる、そもそもに原因は因子に名付け親がいないものだから煙の如くうっかり消して仕舞う。くしゃみが二回、三回、アレルギーは鼻がむず痒くなるのに二人とも一緒だったから、其れだけで何か何度も春は接吻する場所を間違えたんだよ、それを彼らは「シェイクスピア的(小市民階級の反逆)」と旗を掲げる。

 この国でやり残したことと言えば今朝は嘯いた電話をするにお誂え向きの静かな陽光で、国際電話に値札は知らず徐に携帯電話機をスイッチした。聞き慣れない呼び出し音のあと、
「今は何時だ?」
眠たそうな声で誰から誰への電話かコーヒーを飲みながら腑して、「夫婦喧嘩」の単語が出てきたのには硬止したが、かいつまんで話すとどうやら八時間前に同じような電話が掛かってきたらしい。そう、女性で、電話向こうでは金曜日のNew Yorkの喧騒が、隣の部屋でパーティ、眠れない時に眠れない電話を掛けてくるな、
「君のワイフのほうが気が利いてたぜ」
「気が効き過ぎて余計な世話焼きも今回の件もそうだ」もう何が在ってもそうそう驚かない。そして
「明後日の夜に成田着の便に乗る。仕事が忙しかったのだが、その仕事で帰る」
「ふむ。同窓会の幹事を断ろうと思い、食膳は急げと、それでも空腹は余ってる」
「喧嘩の理由は?」
「デートのキャンセル。天気に文句は言えない」
トクトクとグラスに酒か何か、注ぐ鼠尾が聴こえるが何も知らぬが云わん、
「君なりに冗談のつもりだろうが、そっちの天気予報は小事にせっかちが余るぜ。ハリケーンが三日に一度やって来るわけでもなし」
「一昨日までは何でもなかったんだ。なるべく正確に言うと二日前の午後三時までは。或る意味の順調だったんだ。天気予報が放送される時間も」
「仕事は順調か?」
足の裏がムズムズして次に顎が痒い「まあまだマシな方だ。」
シケモクを弄んでいると萎びて飲み差しのものが多く、
ーーー痛い、口でも切ったか。
「成田から直行で酒でも飲みに行きたいんだが、何処かに集まれないか?」
「急だな。乗り気じゃないんだが」
「まあ、久しぶりだ。気の置けない仲間で集まって飲み会するのに釣れない返事はなしだぜ」酔い加減で、
「それが一人も知り合いが思い出せないんだ、たったの一人も。すまない、幹事は出来ない」
「ああ、任せろ。それほど期待はしてなかった。なんとかなるだろ。こちらで手配するよ。これから三年越しのハネムーンなんだろ?取り込んでるところ此方こそ間が悪かったな。すまない。」


 ばかばかしい、有効期限が少しだけ残っている「仏蘭西行きのチケット」、破り捨ててゆっくりソファに腰を落ち着けた。

 稍々湿り気のある合成皮革のソファだが、数年来の酒付き合いの間柄だ。たまにおこぼれの酒も飲ませる。友人が眠気に電話を切りたそうにしているので意を呑んで、同窓会の件はうやむやに電話を切った。出せる顔と出せない顔が在って、今は何方とも言えない。数日前までは酔いどれ寝惚けで引き受けた案件だったが、彼女の流景に溶けた帰宅を待つに渋谷ではなく、新宿を待てど彷徨う。

 ベランダで背伸びする。雀の死骸はほうっておいても誰かが、この国のこの世界のこの時刻に他の誰かが埋葬する。僕にはとても難しい仕事で、少なく散った血しぶきがベランダ床に、更にたくさんの風雨に排水溝へ掻き消さされるだろう、リビングに戻り窓を閉めた。

 朝から酷く不味い物を食べたような気がして、スーツケースを玄関の方へ転がし、ソファに腰を下ろすともう一口トーストを齧った。雀が何羽か、何羽かの雀が窓に繰り返し、バンバンと耳に障る鈍い音を立てて鳳仙花のような赤い血とともに落下していく。一枚のトーストは口の中で工場生産イチゴジャムを、目を閉じてベルトコンベアーが順路正しく作動していくように、すんなりと朝食の中でその食事を済ませた。
 「バン」と一際おおきな音を立てて雀が窓ガラスに張り付いたので、この「雀雨」はいったい何なんだ、まだ六月でその半ばだぞ、それがいつの朝かは判別できないこともないが大降りの「雀雨」は十年に一度でいい筈だ。鳥目に見てもそれが妥当な事故件数だ。

 ふたたび珈琲を沸かしカップに注ぐ。コースターはいつの間にか使わなくなっていたし、テーブルに滲みが出来るのも毎度くり返しくり返し退屈の度も過ぎ、蓋し今朝は傍らの封筒が汚れるのを、名も知らぬ祭儀の神具を扱うように掌で引っ繰り返す。すると差出人「POOL」。

 ふむ、透かし見ると中身は紙片覚しく、椅子に腰掛けながら封を切り珈琲を一口、「バン」そのまま残りを膝に溢した。生活も空想も常に煙草一本の余裕は残しておきたい。




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