第1話 天気予報を予報する

文字数 5,678文字

 そんな君が好きだから、毎日の料理の匂いも音も、唐突な雷雨や雫、玄関に並んだ傘もズブ濡れの靴も、さわってみれば冗談だよ、っていつものように笑う、歯磨きしながらも笑う、洋服が汚れたって、前髪を短く切りすぎた、大胆だけど人見知り、そんな君が好きだったから。

 ドアノブには作られた理由があって、いつか君に尋ねたら、あちら側には沢さん人がいて、カラフルな花々もあって、歌が聴こえて右から後ろを廻って左へ、ばかみたいに酒ビンが並び、綺羅びやかなステンドグラスもある、でもスキップしちゃだめだよって、わかる、わかり易く鼻を啜った。見れば知ってる顔もいるんだからね。かっこうの声が迫ってきて、昨日のことみたいにドアノブを捻って開ける、通り過ぎていった風が時季良く、目にゴミが入った、ハンカチーフがポケットに勿体なかったので差し出すと、切り紙の花吹雪のまんなかで彼女はチーンと鼻を噛んだ。
 笑いの渦に呑み込まれる更に君と僕の恋物語も、続きがあればお義父さんも困らなかったよね。お義母さんが入院することもなかった。

 この都市の六月には珍しく晴れて、晴れて晴れて晴れ渡った日に、いつも君の写真を眺めて物思いに耽っているよ。切り取った白いドレス生地に鼻を埋ずめて、気の済むまで目を瞑っている。三年経った。タバコの量も多くなって、叱られるかな、モノトーンとラジオが拾った電波が部屋に蔓延している。

 窓を開けよう、やわらかな風を受けて、散らかった机の上からひらひら写真が舞い降り、くるくる落ちて、その度に君は笑い、そっぽ向き、そして床に伏した。夕暮れに諦め癖が付いた僕だから、その事でなくも動けなくて、目の赤いだろう自分を見たくない、鏡を避けながら写真を元の位置に戻した。

 梅雨入りから三日経て、鼻に蒸す、泥の塊だか沼が浮いているような雲が、遠くからゆっくり近づいてくるのが見えた。それも三回目で三年経った。今日、恐る恐る死線を跨いでベランダに、何想うでもなく椅子を置いた。
 ピンク地の、無論、自分の物ではなく、ブルーのストライプ、彼女は一度も座ることがなかった、引越しの際、引越センターが壊した、眉間に皺を寄せて駄々をこねて、見回したが節はなく、何のことか判らなかったが、その組木のハイカラな椅子が作られた「理由」って、その答えを期待しながら腰掛けた。

 ベランダは電線の高さとおんなじで、雀の会話を何だろう、って聞いている。引っ越してきたばかりのお隣さんが窓を閉めるのがわかったが、何くわぬ顔と椅子の軋む音で挨拶を返す。冷蔵庫から冷たい缶ビールを三本、あまり自分のペースでいると君は決まって怒ったが、「幸せなのだよ」一人つぶやくと、カタカタとペン立ては揺れて、煙草の一口目に鼓膜をケタケタ、乾いた笑い声が行き来する。

 一昨年は仕事も何も手につかなかった。去年はやっと義父母に挨拶に行けた。一人暮らしから二人暮らしが嬉しかったぶん、きちんと分担された家事を思い出すとその逆は、グラスを洗うのも面倒で、寝起きが悪くて独り言が歯痒いね。いやはや何とも言えんねこのビールって飲み物の味は。

 電話が鳴るのでお義父さんからだ、十コール以上続くとお義父さんで、受話器を上げるまで鳴らすのがお義母さんだ。時計の針は、涼み風に汗が吸い取られると、チクタクチクタク、点けっぱなしのテレビがあると言われて気がついて、ご免お義母さん、恋人が友達を連れて来てる、笑うと咳がひどくて、毎度のことで心配で、いつもありがとう、水で薬を飲みこんで、回診の医者が待っている、野球場の掛け声もいつしか沈み、車両の音が低く鈍くなった。またね、よろしく言っておいてね、受話器を持つ手が二ミリ沈み、セミが午睡する間、くるぶしが痒くなって屈むと同時に電話が切れた。

 灰皿掛け置きのタバコが茶色しなびて、今さらながら言いたいことを考える。食事には独り言を儲けて、生活に支障のない必要最低限の恨み言も、繰り返されたはずの毎日に、後生の文句も浮かばず、僕にとっての言葉はもうすでに価値を失い、誰のせいでもない退屈を、空白と空白を、繋ぎ目が分かるよう、埋め合わせるように、君の名前を唇でなぞってみた。そして雨が降り出した。

 遠くから地面が滲みはじめ、遠慮なく近づいてくる、絵筆を洗うように雨音が、雀を追い払い、人を左右に分けて、二十秒後には手のひらに垂直に叩きついた。さんざんと口先に生まれたばかりの哀れを消し去る、それは望遠鏡で見るような優しくも人見知りの雨だった。

 見上げるのも首が痛い遥か空、そこで雨が作られたわけ、わけも分からずこんなもんに振り回される階下はネズミ花火の終末を待つに、木陰から木陰え、カバンや羽織が地上をはうのに、僕はビールの残りを喉に押し込む、新宿って街はさあ、作家風情のゆで卵もいっ時の感傷も、吸い込んでは吐き出して、チクタクチクタク、不夜のまやかしに魚溺れ、時雨に呪術の風まかせ、靴乾けば財布の紐切りて、もし、もしだよ、もし君が玄関をいつものようにノックでもしたら、トンビ猫の群れの形の雲に驚きゃしないし、無重のムラサキ鯨や、整然として眩暈のする幾何学模様だって、蒲公英、ぺんぺん草、繰り返す君の吐息、正確には君に似た誰かの吐息に喉が詰まり、もっと言うと誰かが君の真似をしてさしも君のように僕に話しかけてくる毎日に、不十分ながら受け答え、不機嫌な時は頬をトラフグ、おとぎ話の鬼の角が生えたり、もっと露骨にユニークで、互いにしか分からない感情表現をクイズ並べて笑った時もあったね。

 今もなお思い出し笑いを急かすように、一段と雨が強くなった、時計は動き、距離にして思う、雨の中に静かに音を忍ばせた。彼女が僕の顔を吐息近くでのぞき込み目を見つめるときは
「細かいことを気にするのはやめよう、君、わたしは今お腹がすいている」
その合図だった。

 海の下にも津波が起きて魚がそのまま楽器になる。魚群にテンポが間断なく、目が急ぎ、くらぶれば自分の心臓の音、耳澄まし彼女の呼吸、ゆっくりだなあ、ビールの味も淡く変わり、涙目に訴えた炭酸も気が抜けて、油断すると自分の分の悪いことも散々思い出す。
 彼女の、君のフキゲンは見た目にも甘い、しかし食べ方の難しいフルーツパフェのよう、冷蔵庫レシピに確か僕の名前が貼ってあって、誇らしくサイフ紐解き、つっかけサンダル足裏の痛みに、呑み屋をハシゴつのはず阿弥陀、忙しい君を呼べばすぐ来る賭けをして、うれしいことに負けたことは一度もなかった。しこたま叱られたし甘え上戸に世話をかけたね、ごめん。

 したした雨足に踏まれながら今日を祝おう、ケーキを買うお金がなくて、つつましくも誕生日にシャンパン泡にして、静かに眠る、愛し君へ。いつも不機嫌の最中の僕の彼女へ。
 バカンスの期待が山積みの雲は今や天井がてら軒下つづき平坦で、西をみれば明日は普段の天気予報、このシャツも、哀しみも、雨という雨が、過ぎれば昨日のことと、いつかは老人となり、地球の汗も乾くだろう。
 一本目のビール空いて、雨水が缶に水位を作る、二本目へ、プルタブはカキンと、そのまま音も匂いも雨に盗まれ、見下ろす粉塵の静まるに底の深しに恨み言、とわにとわ誓うそれは、神の祝福いのりを他に任せ、いつもの朝食くちづけの味、月張りぼての期待テレビの一寸先、喜んだり残念なのは、僕だけじゃないって、言ってくれよ君の口。

 「ヨーロッパに行きたいね」、寒さが苦手な彼女は僕の誕生日ではなく自分の誕生日を、その二人の記念日に選んだ。子どもの頃を思い出すとあまり子どもを作りたくない、聞いてあからさまに不機嫌になった彼女は、カレンダーを丸一日で過ごし、僕は煙草くわえ気を晴らそうモーターサイクル雑誌を、その表紙を見て睨み、企むように微笑むと、そっと、彼女はつぶやいた「もう充分にあなた、わたし幸せみたいよ」。

 冗談に聞こえなかったので煙草を揉み消すと、結婚式も済んでないのにね、拗ねる。くちびる韻律読めず、彼女は僕を子ども扱いするのに慣れてもいたが、こちらは不得意にページをめくって、指をボソボソ舐めてまたも拗ねる。

 君がいつかアンティークで買った一輪挿しに、道端でひらった蒲公英、すうっと匂いを聞くと、耳にフフって、どうやらいつも笑い声から始まるみたいで、来春やそのつぎの初夏や、黄色とうつろう白の境目に、その花しおりを季節に挟む今日は、君の誕生日、明日からはビーチサンダル、ほら、アロハシャツ、わかりやすい君と僕の記念日、潮干狩りで買った麦わら帽子が雨翠に乱れて、ほつれて、ながつき散るは葉に少なく、待ちて来春ながめると、ついビールの三本目に飽きてしまい、草の香りがする、微温くなった炭酸が、昨日今日の憂いだけではないような気がして、雨しとしと喉を撫ぜ、排水口の百役を金輪際必要のないものと、君が望むなら雨水さえ、テレビプログラムが退屈で、駄々流しの時間とビールをまるごと呑み込む。

 いずれにしろ蒲公英の種子が明日の風に散るのに、ぶら下がった退屈な待ちぼうけがたった今から、いくつもの夏休みを、ベラドンナで喉がカラカラひっきりなしに、知か己きに恋人の惚気話をするように、隙き間なく世界に蔓延していく。持ちきれない荷物に有閑のお裾分けは、水ながれの益価だからこそ、物見の雀たちもすっかりうんざりしてすこし高い処から首をクイクイひねる。

 いつだったか、君が指差した方へ顔を向けると転んで泣いている子供がいた。雨の後の散歩だったから服がビショ濡れで、茜とは真っ逆さまに虹が差すのに、彼女は僕へ向かって溜息をついた。君はいつも「理由」を探しているね、気を揉むうちにサンダルが音を立ててアスファルトを引き摺りながら迎えに行く、彼女が辿り着く前に泣き虫少年はこちらに気付き走って逃げた。夕餉の買い物で両手のふさがった、困り顔を重ねた母親の膝もとへ。

 しゃがみ目線を合わせた母親は一生懸命に弁達する子どもの顎をつまみながら耳元からぐいと抱きしめた。少し寂しそうに公園のチャイムが輪にひろがり、色の映えた向こうの七色の光線もダークグレイが五分域を占め始め、居場所を奪われたように、甘えたかったのよ、帰りたかったのよ、そこから夕暮れ長く静かで、お腹が空いてたのかもね、雨の染み付いた公園のベンチは二人分の空席、登場人物に為り切れなかった僕の腹の音に、気づいた君は片目赤く口笛得意に、空高く、It’s all because of you♪、僕の方向にやり過ごしたね。

 雨は通り過ぎる。頭上の溶岩のような雲間から陽光の目に刺さり、細めるとぼやけた西新宿の建造物の群れ塊たまり、子どものはしゃぎ声が階下から聞こえ、車のボンネットの茹だりが更に視界を曇らせた。眼鏡の修理代は君が払うと言って、あれから三年置き去りのまま、テーブルの新聞紙がヨレヨレになって毎にち明日の日付を待っている。

 脱衣所で濡れたシャツを脱ぎジーンズが纏わり付くのを気持ちの良いものではなく、悪いことばかり思い出してしまう自分が如何に強欲で、彼女の好意に素直でなかったか。
 あの時、君、階段、ウェディングドレスの裾を踏んづけて転びそうになり、僕は何事でもない素振りを着物気のままに、君が誇らしげにホコリを払い、本当にその出来事は足して、付けても見返りの無いものだけれども、君は鼻がかゆくて、咄嗟に支えた僕を安堵した皆に自慢していたね。

 頼り甲斐がある、ユニークな文資、猫のカツオ節的な勘と夏バテ犬のアンニュイなキス、気まぐれ気迷い酒の風下、ミステリアスな女性遍歴と信憑性のない朝ごはんの批評、鏡越しに君が、これでいい?、どう?、二日酔いの方向感覚から尋ねられているのが自分なのか鏡に映ったもう一人なのか判然としないまま、何も決められないまま、君はウェディングドレスを一着あつらえ、酒代に膨らんだ財布のシャボン玉が、これから音なくやって来る急で朗らかな風を、懐の差し込みを怖がった。

 夢見心地の浮遊感が剥がれてパズルのように崩れいくのを明日にでも見えていたのなら、冗談にも君に「もう死んでもいいし、死んだら嫌だけどそれはもう死んだことになっても構わない」なんて言わないが、何度目かのプロポーズに君はほとほと辟易して何度目かのオーケーサインを、僕の胸にそっと宛てがったね。
 唇の振動や呼吸、胸と胸を山彦する鼓動、繋いだ手のつぎはぎの感触を、今まで一度も忘れたことはないよ。抽斗から取り出して、カラフルなアルバムの中から、いつでも君にたくさんの昔話をとめどなくするよ。

 濡れガラスが「カァ」と、いづれ沈むだろう今日に先立ち、締め括るのを他人事のように、黒い身体から黒い目を覗かせ眺めている。カーテンにも雨水の薫りが残り、明日にも乾くのならば、サボテンが光合成をさぼり、エアコンも日頃の習慣を忘れて、今日一日ぐらい湿っぽくなるのも許してはくれまいか、煙草になかなか火が着かず、長い溜息の後もう一度咥えて先を焦がした。
 水浸しのベランダ、雨月を共にした月下美人の鉢植え、階下ではパタパタとビニール傘が閉じられ、白いドレスシャツと礼服をクリーニング上がりに、新しい思い出のためにそっと場所を空けてくれるように、箪笥から取り出し、そしてゆっくりと、さよなら、雨雲は、匂い名残を惜しまないまま、東へ退いていつもの空にとけて行った。

 ひんやりとした床から体温や人間らしさを取り戻す、斜陽の心え虫のざわめき、公園が近く歩けばすぐで、手を取り喧嘩しながら花並んだ春も、ラムネ瓶で片手ふさいで寄り添った夏、からっ風にコートを帆曰くした秋、ポケットの缶コーヒーで手を温めた冬、巡っても君がいなければ筆の寝たまま契約期間終了の間際まで、何も書く気は起きなかった。

 今日、短くなった煙草にもう一度火を着け、ここから、それ以前から、たった今、始まったばかりの物語にふさわしい音楽を、日雇いの夏のオーケストラ、ふたたび何度も君に尋ねる。




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