第8話 邪推につき眠れない音楽

文字数 4,631文字

 いつも余計なことをする、僕の両親の話だ。

 父は僕の誕生日のたびに、祝ってもらうことが嬉しくてしょうがない他の子供達と同じような僕に、「今日はおまえが祝ってもらうのではなくて産んでもらったことに感謝する日なんだ」と早々にテレビの野球中継に熱中した。
 母は過保護を通り越して、押し付けがましい愛情を他人の目の前でも当然と疑うことがなかった。早く死んでくれればいいと想った思春期を過ぎ、いなくなってみれば今生の血のつながりという仮初の泡、特段過ごしやすくなったというような事もその逆もなかった。

 二人は団塊の世代の人間で、どちらの両親も戦争体験者である。その自分の影の伸尺を振り返ることも周り見渡せば容易だった筈だが、昭和から平成へ、宛ても考えぬまま文明だけが隆盛するこの国で、一寸先の栄華必衰を知らぬまま、何食わぬ顔で僕を産み落とし、真っ平らな地面に深く固く沈めようと、彼らもまた基本的人権の旗のもと創造的であるはずの個性を失うこととなった。
 両親の思惑よりも自分の正体xを分からなかったのは僕自身であることに、頭抱えて喚くのに、周りの大人たちは揃って誰も素知らぬふりをして過ごした。

 この三十年の間にフェルマーの最終定理も解決した。故里にして山脈に神宿る資料としてのパルス信号その迷走も、夜中の闇に3キロ離れた踏切から警笛と車輪音に考察するドップラー効果も、少年のいたいけな脳構造に田園からの維新的背景を覗かせた。

 祖母に育てられた少年に、思い出はその毛布にすっぽりくるまれ、その内でだけ効果を発揮するあたたかな暗闇の、まじないの文言だけが気乗りしない帰省を促した。東京暮らしに日記を書くようになると祖母が亡くなり、その理由を付けて切符と流景と、ほど良い疲れを土産に持ち帰った。

 いつのまにか両親も死んだ、春、いつものように実家に帰るとバッタが庭の草を噛み毟っている、携帯電話で医学部の知り合いに庭の広さを伝え、細胞の寿命やそこまでの活性速度、実は今日、彼女との結婚の報告に帰省したんだ、いつもと同じ電車で、時刻で、酔い加減で、かならずおとずれる、僕の精神障害の兆しが見える夕闇が、両親の頑なな愛情の押し売りの声が聴こえる。
 だが静かだった。町役場、公園や野球グラウンド、駅から誰にも出会わず、東京の彼女とのこと、僕にして珍しい経験を聞かせる、今回は人並みの愉悦を土産にしようと、申し訳なく思っていたところでもあった。

 大学院修士課程に合格した際、両親はプレゼントをくれると言った。切りが無いからいいと電話口で断ったが、二日後、高価な万年筆が下宿に届いた。そう、そこのペン立てにあるアイボリーの万年筆だ。使い勝手は悪くなく、書きながらペンを換える癖を持つ僕にはそれなりに重宝したものだった。

 紙は原稿用紙の他に、その枠立てがあまり意味を成さない程の乱筆もあり、方程式を無意識に連ねてしまう夢遊癖から、ふざけて彼女が五線譜を買ってきたこともあった。印刷に失敗した裏紙でもいいし切り取った先月のカレンダーの裏側でもいい。詩は書けど友人から譲り受けたギターは一度も弾くことも、手に持つこともなかった。

 人類の音楽の嗜好性にインマヌエル・カントは「ア・プリオリ」原典を用いた。永続と断続の違いも目に見える、非ユークリッド幾何学として点と線とそうでないものを生み、もしかしたら音の記憶に時間制限がないのも、想像力の無限浮遊状態、視覚的効果の有利に隠された解答への演算手段、社会形態を為す振動弦の一つなのかも知れなかった。

 空間認識から時間認識と位相する日常に単純平面から移動曲面へ返答をする、充分な経験を既実とした習慣的ア・プリオリに数学的理性(明証性)を帰納してみる。彼女が五線譜の余りを買い物メモに切り取った。環境に敷く音楽と必要分の余地は互換して重複をつづける。
 
「日常の音楽にして非なる物は純粋音楽であり、順列としての進行と音楽進行は曲線及び曲面の値を与えるを以ち平行となる。「原因」はそこに当該しない「理由」にその一部を由来し音楽に従って(時間)と(空間)が対面し(相互に情報を得る)ことになる。必要分としての幾何明証的(意識)を求めて、潜在が経験から得られることを音楽の記譜と再現、相互求似性にして原初藝術となる」

 うつくしい、小さくて薄くて可愛らしいくちびるを、G線のすこし上、胸の奥に痛いほど何度も、チクチクとその言葉、聴いてる、レコードの振動と微風、かるく埃を散らし、針が喉を刺し、高い波長から地に着く真っ赤な超低音、脳髄からつま先まで電気信号に硬直、雨音と悲鳴が揃わないシュプレヒコール、飲み過ぎたカクテルパーティー効果の行方、あの時、彼女は笑いながら口だけ僕の方に向けて「バカだね~、おバカさんだね~」、距離は三メートル、体温と同じ雨が激しく身体を打ち付ける触覚だけが人間の輪郭を留どめ、飛行機が雨雲の中に飛んで消えゆくのに、置いてきぼりを食らった産まれ落ちる前の自分を二重観測させた。彼女がそっと目を閉じるといつものように、そこにはもう元々の僕さえいやしなかった。

 まったく動かない、と言うのは行動学的にも社会学的にも、という話で、ベッドに従属する精神労働からどうやら夢を見ないということもないらしい。呼吸もするし喉から食事もする。あの朗を投げ放った、時には奥ゆかしい、彼女の明るい笑い声が僕の顔面にまんべんなく貼り付いて、茶飯事の合間からも現実に逃げ出すことが出来ないでいる。

 鏡を見る度に、ガラスに映る度に、隣には彼女が、君、今日は出掛けないから、シャツの襟は直さなくていいから、掃除機が掛けられないだろ、欠伸が出るよ、腕時計はどこ、パスタが茹で上がる、今行くから、椅子に腰掛けると反対側のテレビ画面、スリープモードにいつもいるはずの君がその影すら留守にしていた。

 編集さんの話では浮かれ気分で雨上がりに、ワインだか傘だかを買いに行く、言伝の帰結点に僕が、彼は悪気もなく今日の落日を待っている。無論、新作長編小説なぞない。彼女の足取りの手がかりも彼の言う以上には、その信憑性から疑わなければいけなかった。

 僕の両親には僕の他にも聞き分けのいい息子娘たちが大勢いて、自慢気に卒業アルバムをかぞえてソムリエのように口に含みをもたせ話して聞かせた。家族写真は高校の卒業式と修士課程の修了式のみである。実家では僕は居心地が悪くて、それまでの誕生日では食べた物すべて吐き出すつもりでトイレにこもるのが幼年時から毎年のこととなる。
 生活には事欠かなかったが、それ以上を催促することもなかった。大学には大きな望遠鏡があり、距離と速度と数式で夢中になった。

 僕の両親は交通事故で死んだ。車で教え子の結婚式に向かう途中、それは澄みきった晴れ渡った正午近く、皆が皆、空を見上げてしまうような、トラックと正面衝突、最後に言い残した言葉は意識の朦朧とするなか「結婚おめでとう」、半年後ひと伝に僕もそれを耳にし、友人達に囲まれたささやかな結婚式をたびたび人類がそう垣間見せたように、反抗することもなく真似て祝ってもらった。

 老若男女、友人知人はやたら多かった。それら皆に、その誓い言のあっという間の行く末を曝け出すことになったのは不本意で、苦い酒も飲めなく、外出もめっきり減った。決して嘲るような輩たちではなかった。その分、同情の言葉がとても恐ろしかった。
 誰かが奢ると言ってくれても、その裏を読むと無力な自分が足を裸に棒として立つに、その足では何処にも行けなくなるような気がして、日が暮れて年が暮れて、立ち飲み屋にも顔を出すことがなくなってしまった。



   新婚旅行のはなし

 彼女と僕はヨーロッパを一か月かけて巡る予定だった。鬱々とした空模様の下、ベランダで彼女は黙々と旅行ガイドを見漁っていた。航空チケットの仕舞ってある引き出しを何度も開けて、閉めて、僕はコーヒーカップ片手にそれを微笑ましく眺めていた。その頃僕はポケットにE・ヘミングウェイの「移動祝祭日」を突っ込んだまま日がな文筆に勤しんでいた。

 当時は新聞社、雑誌社、広告の仕事があった。どれも手につかず、二週間後の人生の一大事に想い馳せ、灰皿からあふれる言葉より二週間後の宣誓、彼女の気を引こうと咳払いばかりしていた。ワインが切れれば買いに行くのに産地ばかり気にして、インテリアだった地球儀には鉛筆で幾何学が施された。

 大学の建築科にいた彼女は建物よりも安価でこだわり甲斐のある家具を、身近にある家具を製作して食銭を稼いだ。インテリアデザイナー、聞こえは良いが高速道路を作るのと比べるとまた威厳の違うものとなる。「道路なんて誰も見ないじゃない。住んでるアパートの外観よりも見ないよ」あの椅子だ。

 椅子には足が四本あって背もたれがない。北欧調だと編集さんは言ったが、見たままスパニッシュやオリエンタルと勘違いされて納得もさせたろう、今思えば実にヘンテコな椅子だ。

 彼女はヨーロッパで家具を見たいと言った。元々の留学先も彼女の気紛れや父親の格式重んじる故の洋行でもあった。しかし、何も決められない彼女が巻き尺のデザインや仕様、君が本当にしたいことは何なの?、尋ねても笑って誤魔化す。

 彼女は僕と、一緒に行くのならと、南から北へ、欧州を縦断して亜米利加へ。旅行会社は帰りの中継地にハワイを勧め、式の直前までエントリーを許してくれていたが、その前の晩のお義母さんの早口で結局ハワイアンカクテルとパイナップルのバーベキューはお預けとなった。

 彼女は眠れないでいた。いつも先にぐっすり、時にけたたましい鼾、男勝りの寝相や寝惚けて何度も冷蔵庫を開ける、それを一晩中観察して物を書くのに慣れていたのだが、その夜は彼女しおらしく枕に頭を埋め、となりに本を、卒業文集に書いた夢、両親の夫婦喧嘩、動物園のキリン、転校した同級生との友情、紅茶を口に含み、僕は飲み過ぎで喉がカラカラで彼女の話に静かにうなずいている。
 指輪って、お揃いのデザインや無理のない金額、Aさんが決めた物だから安心して、安心するしかなくて、覚えのない瞼の重みが、短針長針かさなるころ、唐突に僕に襲いかかってきた。

 浅い睡眠のところどころ、彼女は僕に話しかけていて、耳半分、膨張を続けていく深遠な暗やみ、夢ながく、これからも続く穏やかな夜、すずめにカラス、車両の音はめっきり少なく、彼女の声が音楽に聴こえる、新聞配達バイクの音ではっと目覚め、水を飲みに立ち上がり、寝惚け跨いだベランダの湿気に睫毛を引っ張られ、息を深く背を伸ばし、星が鏤められた横縞のパノラマに目を細め「明日結婚します」。
 区民の誰彼にではなくその時は僕の両親へ、溜め息と一緒に素直にそう思えて、寝惚けているな、目をこすり、人が言う親孝行って何たらを、夢の消えないうちに済ませた。

 薄暗がりの向こうで彼女はクスクス笑った。「それを私に言ってどうなるの?」笑い声にスタンドライトが揺れて、もうすぐ太陽のおとずれる、キスシーンはまた後でね、遅刻したら許さないから。

 午前四時から午前五時まではぐっすり眠れた。頭が軽くて昨日までの不眠が嘘のようだった。それは忙しい朝だった。寝ぐせのままタクシーをひろって急ぐ「僕が持とうか?」彼女のスーツケースはパンパン、一ヶ月の長旅、いやらしさのない親心だったと思う。



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