第3話 張りぼての月、人類初の到達者

文字数 4,518文字

 すこし昔の話に戻る。どの地点からの昔なのか、月、インターネット時代に確固とした巨大情報の些細な誤差なぞ介もせず、迷信家やフォークロアのマニア達がこぞってこれを詠む。
『「月」如何なるものにして此れを「月」と詠むか。』

 子どもの頃に皆既日食なるフレーズを耳にした。屋根から大きな月をぼんやり眺めた。眠れぬ枕で雲に隠れたそいつを想像した。ブラウン管の向こうに月面を見た。外国でも月が見えるらしい。祖母は十五夜に団子を捏ねながら、つがいのウサギの正月の昔話を始めた。

 いにしえに詠み人は皆がみな万葉に虫食うように月に恋焦がれた。昨こん双子星座のカストル・ポルックスに通じるように大公転と小公転に互いみれば地球と月は連星と見做す運びもある。元にして地球上で平等分配される衛星(1/6E天体)は20世紀、一つの貿易貨物として世界中で買収が始まった。

 でっち上げの月ばかりで無く、貨幣やエネルギー産業のプロモーションとして惑星(そこに衛星)としてのロマンテイクを奪われた。原子力移動から其処までの道路が通り、世界中で或る意味もっとも安定した往路と地理を確立された。目視に円体としての月の役割は地図にして平面性を今も継続する。僕は五線譜に少しだけ小さめの四分休符をくるり描く。

 いずれ別の通説も生まれようが殊「月」に関して地理の歴史に年表が、二、三世紀動かないのは其処までの、幾枚にも重ねられた研鑽や、無駄に尽きせぬ想像力、宇宙の膨張に拠る重力の相殺、仮定値としての周回路、夜の散歩に宵町心中、小川に流れる蓮花さざなみ、アポロ四十号の話はまた今度にしよう、今日は僕が月を見上げて其処までの距離を巻尺を頼らず測ろうと、修士なんて冷やかされて東京は新宿の下町、場末のバーで安いウイスキーをちびちび啜る、無尽に出てくる柿ピーと、口あぶくの与太郎、その頃の出来事から話そうと思う。そして彼女と出会うまで。

 大学院数理学研究科での専攻は数論にして「群論」。独自研究課題はgroup station「群論的論述解方法(群論述)」。
 授業はサボタージュ、午前中の学食の常連で、公務員の親は息子の研究課題について何も知らないまま修了式に出席した。学生の頃の思い出といえば、知らない街でもヒョイと飲みに行ける上着つっかけの軽さと、各街に夜毎色毎の違うグループを繋いだ塀伝いの猫の又旅である。

 月に手をかざし見たり憧ればかり遠く、ポケットのスキットルが軽くなると公園を宛てなく彷徨い、何度か目にしたベンチや、入り口なのか出口なのか判らない鉄柵、北極星を目印にすればそれが雲に隠され、途方に暮れて太陽の昇ると目の前を通る散歩人に道を尋ねた。酔いどれ逍遥、都市のあけぼの、喧騒に喉洗われ、互いに目を擦りながらの問答では連れのベロを出した犬の鼻のほうが夏の暁より道に明るそうだった。


 月の一際大きな晩、大学から天体望遠鏡を無断で持ち出し、西新宿の公園から高層ビルディングへ向けて灯りと灯りをつなぎ合わせている、缶チューハイと袋チップス、肩寄せ合うカップルや風と木々のささやき、手元の文庫本より遙か遠き物語、未だ見ぬ月世界に焦がれ馳せて、一くさりの夜空が放火のように明るく、間断なくあちこちで救急車のサイレン、穏やかな絵画を雲間に探し、僕は煉獄で住まいを追われている。
 その発熱する都市に潜ってパリパリとポテトチップスを頬張る音、腕時計に目を遣り、腹が減ったなあ、足元にシケモク転がり、汗かさんで喉が渇くと、其処に在ったはずのレモンチューハイがなくなっていた。ポテトもない。

そして後方から声を掛けられた。

「ごめんなさい。本当はこんなことするような女じゃなかったんだけど・・・」
失恋でもしたのかな?、咎めるにも状況が判らず、もちろん晩酌を譲るほどの顔見知りでもないし、苦学生に余裕はない。
「いいけど、パジャマでスリッパは部屋着のたぐいだよ」
「パパとママが喧嘩して家を出てきたの」
「お腹すいてるの?」
「ディナーの途中だったから」
歳は?二十一。何月生まれ?6月。ご両親の職業は?法律家と主婦。
「今月誕生日なんだね。」
「今日、だったよ」

 二人で笑った。彼女の方が幾分か笑うのに慣れているような笑い方だった。ポテトチップスを食べる手を止めて、僕のジーンズのポケットからタバコとライター取り出し火を着けた。咳き込むところから察するに幾分酔い任せなようだった。時計は午後十時半、人影の鳥目に隠れて、虫くさ音無しした沈む。

 見たいテレビはもう終わってるし、酒でも飲みに行くに程よい時刻だった。しかし彼女はこちらを見つめてニコニコ、帰る素振りってその遠慮を見せなかった。
「今からすぐそこの立ち飲み屋に一杯引っ掛けに行くんだけど、来る?」
「ひっかける?まあ、パジャマとスリッパで差支えがなかったら」
僕は望遠鏡を覗きながら
「どの部屋?」
彼女はそばに来て高層マンションの一つ、二十一階辺りを指差した、あの部屋。
確かに閉じられたカーテンに二人の影、物を投げつけたり取っ組み合うような様子が見えた。
「原因というか理由は何なの?」
「そう。『原因』ではなくて『理由』なの。元からあった話ではなくて、元からあったんだけど、それが今わかった話なの。」

 違いが分からないのでファインダーから目を逸らして、そう言葉にした彼女の口元を眺めた。ポテトチップスのカスがポロポロこぼれていて、雨雲の近づいてくる音が聞こえる、そう、あなたの親御さんはどんな人?、「笑えるけど笑えないんだ」、公園の噴水が流れを止めた、「うちの親は公務員であり畑の区別のつかない兼業農家だよ」、学生でしょ?、「大学にはあまり行ってない」、カラスが今日最後の姿を隠しながら、僕は言葉があまりうまく出来ないな、思い、彼女の両親の喧嘩のその、理由、ってやつを尋ねてみた。

「私が海外留学するのに、それはもうだいぶ前から決まっていた話なのに、パパが賛成、ママが大反対、私はどちらでもいい」
缶チューハイの残り、湿気がまだるっこしく、彼女の口をまごつかせた。
「どちらでもいいの」

 短い煙草を揉み消すと口元が寂しくなりヘタクソな欠伸をした。「興味ないの?なのに聞いたの?」彼女は僕を睨みつけて、そのあとクスクス微笑んだ「だよね」。会話も途切れると望遠鏡と天体の盗み見が男女の話題になる訳もなく、気付くと今夜の予定が無沙汰過ぎて、彼女の家出に関するいくつかの些か気になる事情からも、彼女を酒場に連れて行かない訳にいかない気持ちになった。

 彼女はパジャマの尻を手で払うと伸びをして大きな欠伸をした。呑み助だった祖父の命日で供える積もりの予算もあったから、だから煙草のこり一本火を灯し、歩幅ひろく店に向かいながら、湿気の満ちた夏の夜空を吸い込んだ。星々は沈黙を続けたまま動かず、来た道を戻れるように淀んだ蛍ケムリで舗道を照らす、間断なく降り注ぐ夜の闇と星の光線は彼女のパジャマを一夜だけのイブニングドレスに仕立て、半渇きの道沿いに彼女は溜め息を振りまいて歩いた。

 彼女の宙吊りになった海外留学の「行き先」を片耳に、大通りに出ると沿道の南洋植物が肉たわわ、そういえば今日は珍しく晴れた日で、そう思った直後、大雨が降ったことを思い出した。天候の不明瞭に「異国の都市」なかなか思いつかず、思い出せば子供の頃から雨には身体を冷やされ風邪を恨んで雨を恨んだ。そして今日の雨もいつか似たような別の世界の別の、その『理由』ってやつで嫌いになるだろう。

 僕は学生時代、オペラ劇場の地下住人が顔を隠すように、世俗から逃げるように生活していた。追う者のない罪悪感だけの罪人の逃亡のように、それは何から、何処で、何のために、僕は隔絶された世界を好み、その日の気分で顔に表情を何枚も張りつけた。入相も始まりから夜の真ん中に向けて出かける支度をし、髪も揃えて一張羅のスーツの襟を立てる。

 行きつけの呑み屋の毎日違う客に、学生か?問われればそうだし、サラリーマンと間違われれば酒も飲みやすくなった。働きもせず親の金で酒を飲んでいる、疑己心により苦い酒を舐め、行きがかり向こうから酒がやってくれば無縁慮に頂戴、胃を痛めるとそれでも呑む、戻して呑んで帰して酒を迎えに行く、日捲り青年病の喀血詩人でも在った。

 今しがた待ってくれ、星の泪が終わる朝、ビールの泡が消える春、私にだけ囁けよ、終電窓を花びらたたき、昨日の野球のクジをくれ、古里に風ふく便り燃ゆ、帰らぬ明日を貝殻たずねん、自身の繰り返し問答の終着駅が、人生最後のアーベント、詰まりもせぬ会話を煙草の匂いで掻き消しては、灰皿の置き手そでに灰掛かるのを、クリーニング代や酒代、円タクの領収書、全て偽名を誂えた。

 父親は町立小学校の校長、母親は町立幼稚園の園長、ただし僕はその苗字や期待に応う息子ではなかった。祖父の没後に涙目の祖母の昔話に酒も、煙草も早いうちから覚え、通学路に道草を食い碌ろく学問を専修しない。区画された畑でこそ良質な野菜を育てられると規則するような両親の教育方針を、更に増した反抗期の自分に一辺化させるには、まだ数算幼すぎる才覚と血の憎きに肉親をも噛む自尊心がひそかに芽生え始めていた。「自分には一粒の世界に対して一斤のパン畑は窮屈すぎる」。

 或る時考えた、自由に生きる為に何を代償とすればいいか。何を不足して己を克ち得ればよいか。引き換えとし差し渡す物をつど提案し、取引以外は不可侵の領分で、隠れた理想郷として民はおのおの十分な自由を手に入れられる。それが自分の家庭であり玉座のない王国だ。それを建国せしめるのが結婚だ。

 自分の家庭を持てばいい。自分たちの王国を。隠れたり嘘をつく必要のない世界、部屋には好みの花瓶を飾り、玄関に靴をたくさん並べる。毎朝おはようを言う相手、のんびり朝食いってらっしゃい、草臥れたシャツ夕飯の匂い、テレビのない部屋で過ごし、にこやかに妻があくびする、僕が座る安楽椅子、妻が眠るリネンのベッド、小さな電球一つ、彼女は僕のことを何でも知っていて、僕は彼女をもっと知りたいと部屋の掃除と晩酌の片付けをする。

 ありきたりでは在るけれど、理想的な対置をなした可換半群、気紛れな天気にも一つの雨傘で収まる物語に、その中で僕は主人公であったし、ありしもヒロインには、傘のデザインにも、持ち手と、時分単純な役割と彩色しか期待されていなかった。
 僕の自由の代償はもう半分の僕の不自由で補えばいい。完結した自由を、同じように配偶者と分け合えればいい。

 初恋の詩片は屋根裏を探したが見つからず、意中の相手に手渡して雨に濡れて帰って来た夕刻、倫敦鐘の六つ、七つ、八、夕飯は時間をかけず睡眠に手こずった、九つ、十、十、中学の頃より作文・文作は十二分に評価は良かったが、居眠り授業の片手間で、その職業に就くことをその時はまだ考えもしなかった。
 僕の王国に建設予算はなく、百万枚の落葉であり春に跳ねる雪うさぎは野心に、芽が生ぶくのを地面深く、絶え間なく埋め尽くし続け、いつかやって来るだろう誰かの、その足音を鼻唄を辛抱強く待った。




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