第44話 僕と物語は何処へも行かない

文字数 2,480文字

 電信柱に高圧線が阿弥陀橋、雀の羽切りは素早しこく、僕がこのマンションを後にする昼下がり、荷造り紐が、「ちゃっかちゃん」約束が、電話口「気を付けて。辞書は少しづつ減っていくよ」ご縁も、先生、契約があと三日在るんですが、結び目解どけずトランクは三年前の流行で、ザアザア雨も仏は知らず、自分にとって振り返る昨日が実は未だ閉じきられていない。

 すまない、オッチョコチョイが航空券を何処に仕舞ったか忘れてたみたいで、屈託のない笑談と軽口、土産の話に、暫し空き家に非常食と塵あくた残し、唐突に電話が壁の埃を振るい落とす。

(鞄)Tapes who be telling

 受話器の奥から少年コロスの「オーバー・ザ・レインボー」が聴こえ、路傍のボックスから国際電話を掛けてきたのは把握できた。コレクトコールだった。巴里旅行、セーヌにホットドッグケチャップが浮いていき、夜と夜を編んで海の一番端で結ぶ。詩篇に
「この物語、物語が在るのなら、君と僕だけの話にしてくれないか。」音楽が五月蝿くて耳たぶを引っ張る「そっちに着いたら(出来ればで良いんだけど)、お茶ぐらいどう?」
近所の彼女が半袖の袖を飛び上がって掴もうとするのでしゃがむと、反対側の耳に聴き慣れない言葉が忍び込んできた。
「ちゃっかちゃん、物語はどっかに行っちゃうの?」
ううん、自動車社会の塵煙は目尻や睫毛を焼き焦がし、逆さまに何処かへ行こうとしている彼女は、冷たいフラッペで赤くなったベロを出した。
「きのうねむる前に食べたの」どう見ても赤いので傍らの編集くんに目配せすると昨今の合成着色料の不健康に説き伏せられた。
「先生、映画コラムや見も知らない作家の書評、連続ドラマのシナリオ執筆だって出来るのに、どうしても(Paris)に行かれるんですね。スケジュールなんてチューインガムみたいなものなのに」

 ああ、久しぶりに冗談らしい冗談を耳にしたように思って、午後2時の便に間に合うように成田に行かねばならない、気付かれないように鼻を啜って、腕時計を虚ろ電話口の「相手」に返答する。
「あああ、ルルル、ラララ、アット・ルーブルの警備員室の椅子が見たい」
 饒舌を後悔して周りを見渡すと今日は記念日でお祝いが待ち遠しい、ケーキもないのに皆んな薄ら綻んでいるので、咳を二つ、パンの匂いが掠めたので独り言をつぶやくと彼は「焼き立てのパン」だか「さっき焼けたパン」だかをバケットポーチェから取り出した。名残惜しくて尋ねるところマーガリンは塗っていないそうだ「僕は言った、マーガリンが塗ってある」。

bag(語り部い依りて語らう)

「物語は何処にも行かない。僕は今君に話しかけてるんだよ」
「でんね。もうねむーくなちゃた」
「次の機会に聞かせるよ。これから何回もあちこち世界中を回るんだ」
「およめちゃんは?」
「いま巴里で、おんなじように夏だからワンピースの裾をパタパタしてるって」
「うん。およめちゃんらしね」
「きみの言っていた『1から10を数えられる?』って、それにはもう少し、ちゃっかちゃんには時間がかかるらしい」
「ふん。むつかしもんね」
「でもできるよ」
「いつかね」

 これから幾度も茜空に出逢うのに指び数の足りなく、言い訳よがりの会話がこれから東京を出たつ僕を彼らのつゆ涙に甘えさせた、彼女のはにかみに太陽が応えるように、一陣の雨に僕が怯えるのを慰めるように、編集くんがいつまでも〆切を待つ憂慮が無くなり、雲や虫、風や鳥、木々薫風と窓以外何もない部屋、ドアノブを握るとキシミシ音を立て、彼女はローラーコースターを怖がったな、自分に男前が在るよう思い出して三人で部屋を出た。

 荷物を抱えながら僕が云うのに「この話はここだけの話にしてくれないか」了承を得て階下でゴミ捨て場の木片を眺めた。雨風にいじめられて塗装剥がれ、いつか想像力が豊かだったこと、祖母がいた頃、バスタオルにくるまった土砂降りの雨ひる下がり、あたたかな会話を胸いっぱい吸い込んで、最後に見た彼女の笑顔を淡い群青色に融かした。

 二人に別れを告げると其処に常日頃ありがちで気にも留めない高き青空と、人通り、街の喧騒、しがみ付くように東京のそら眺むれば朝もや明けに一条の虹が架されていた。僕は歩くだけ前に進み、空港には考え事とともに行き着いた。思ったより荷物は少なかった。スーツケースの中でベランダに置いてきた月下美人の鉢植えがコロコロ音を鳴らして蕾を揺らして、このさき幾度も彼女「月下美人の『鉢植え』とその閉じた蕾」を思い起こすだろう、花は夜に向けて咲き始め、現つつ夢幻の舞台そで、そっと、蕾の中の永遠を待たず朽たれ落ちる。

 カーテンコールは二度あった。三年前と今朝のコーヒーの湧くまでのあいだ、僕が少し薄く作りすぎた後悔を部屋に溶かしていた数分間のち、コンポにCDをセットし、台湾の女性ジャズ歌手の「even if」をトラックする、その曲流れる迄のあいだ片手のカップに、ひとりが唐突に大声で叫んだ「真っ黒なスケルツォだ。乳母も子どもも退屈だって泣いてやがる」、曲間に「洗濯機にはブギもスウィングも出来やしない」、それは「人生はフフンだ」、いや意味が判らないが、「フフフーンだ」フーンフンフフフーン、曲間がいよいよ長く感じてポケットに一円玉もないからようやく笑えてきて「何て歌手だい?」耳に手を当てながら、聞こえていないようでまたそいつが叫んだ「人生が哀しくって笑ってやがる」。ぼかあ音楽がわからなくて得意だったから「例えばタランテッラに噛まれたって話なのかい?」「『タランテッラ』かい。そう、タランテッラがそいつに噛まれたって話だよ」。君は話をごちゃ混ぜにしようとしてる、そう言おうとしたところ「そいつがそれはもう大変でオイラはあの娘に参っちまってる」、そうだな僕もそうだな、沈黙に瞳を、耳に呼吸を返し、アンコールに花束投げて、一息ぐぐっと喉に溜め、熱が上がってセラヴィの言い掛け(御託は放って誰より先に踊っちまおうぜ)、Hey, thy! nay, As a Church-Window!




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