第50話 彼女の紹介

文字数 1,807文字


 紹介が済んでなかった。僕の奥さんの紹介がまだで、今隣にいる、彼女はすこぶる感情豊かで建設的に物事を進め、現実観の頼れる何事にも動じない大らかな女性、頑固といえば振り回されてばかりの僕の自己紹介にもなる。



    パリジェンヌと駱駝のはなし


 控室に彼女のウェディングドレス姿を見に行った。ちいさなチャペルだが二人で気に入って決めた、通りを挟んで空港があり挙式後すぐにハネムーンに出発できる、離着陸の轟音もついでローラーコースターのような式場だった。

 披露宴は主人公抜きで勝手してくれ、会場にはそのまま二次会も出来るように互いに負担を約束しておいた。ドアを開けると彼女がネックレスを自分でうまく付けられないでいて、他には誰もいなくて、いつも手を貸すと怒るからそのまま彼女を眺めていた。「どうしたの?」「何が?」「何しに来たの?」「うん。ちょっと」灰皿を探すがそんなに都合も気色よくなく、言いたいことがあったんだけど「何?」、君に、言いたいことがいっぱいあったんだ。

 君に言いたいことがいっぱいあって、今までも十分幸せだったこと、先の後悔も全部いまから言っとこうと思って、飛行機の中の話題も英語のjokeも道中ケンカして謝るきっかけもいくつもいくつも考えた。愚痴愚痴言うのに君に笑って吹き飛ばされる卑屈な自分もたくさん想像した。十年経っても僕たちは些細なことで大笑いしながら、喧嘩しながら一緒に生活していくんだろうなって。でもたった今、君と何気なく会話しているうちにそれが何だか、丸々みんな、ぜんぶ吹っ飛んで、どっかに行ってしまったみたいだ。
「ご苦労さん。閑なときに頑張っちゃうの知ってるから」
パリが気に入ったらそこに移住することも考えた。でもだめでしょ、君は僕と違って親孝行だし、家具だって作る必要もなくなるだろうし、僕が夜中お酒を呑みに歩いたら探しに来れないでしょ。
「バカだねぇ」
君が寝坊助だから、朝食とコーヒーの間に色々考える事はあった。お釣りが十割を越えてしまうくらい、僕には閑で無駄な時間が有り余っていた。君を恨んでも文句を言っても寝返りしか返ってこないし、書置きして煙草買いに出て、帰って来てもまだ眠っているから、頬をつねったんだよ、君なんて言ったか覚えてる?
「夢みたい」
そう、今朝の話だ。本日の最初の仕事は君が起きるのを待つことだった。
「今日から奥さんです」
うん、そうだ。
「婚姻届けは二日前」
うん、そうだ。
「結婚しようって言ったのはどっちだった?」
それは、僕の方から
「違う。私が言った。私がプロポーズしたから結婚が決まったの。忘れた?」
うん、忘れてた
「ダメな旦那さん」
うん、そうだ。
「カレンダーはごめんね。かわいい猫さんの、気に入ってたのに」
いいよ、赤い花マルでしょ。それが今日
「雨の匂いがする」
うん、君の髪から、ほんのり雨の匂いがする。かがせて
「いいけど」
いや、ごめん、やっぱり、
「ん、おや、泣いてるのか、君?」
いいや、気にしないで、だいじょうぶ、すこし
「ねえ、あなた、見て、今日はすごくいいお天気」
それは本当に本当にそうだ。

 六月なんて鬱陶しいばかりだと思っていた。春の病にひどく痛んだ胸の傷に、鈍色の絵の具を、何色も混ざって新鮮な光を失った泥のかたまりを、形だけ埋め合わせるように塗りこむようなもの、蝶やトンボが舞い行き交う夏の交差点で、振りほどくのに纏わりつく厄介な深くて抜け出せない、底の消えた沼の泡あぶくだと思っていた。

 彼女はこの世で一番自由にお洒落をしてそわそわ散歩に出掛ける今日、僕は行く先に荷物多く腰低く付き従い、途方もなく、宛てもなく、広大な宇宙に星を探してさ迷い、彼女の誘導に従順に少し思考が速度を失ったまま、一歩手前の真空を確かめながら、一歩ずつ噛みしめて恐る恐る踏み出して行くばかりだった。

 そこには鼻先の花の香りと耳後ろの不確かな昨日の夕暮れが、狭間のなかで僕を高揚させ、その六月って特別な天候の、少し不機嫌になる、彼女の誕生日に、カラフルな彩色をほどこす、思い付きの詩にしてもAさんにそっくり委ねて、僕には自分らしく生きる権利を、雨と雲の晴れ間から流れゆく光を絶え間なく抱きしめては水溜まり濡れるのを怖れずに、彼女を存分に愛し、祝杯を尽くして、「毎日」を黙々と続けようと思う。誰かにことわる理由も、その原因さえも二人で笑いとばして、永遠に、祈ることも眠ることも忘れるように。




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