第32話 そこに古めかしき生命を

文字数 2,609文字

 アルバムの整理が未だだった。苦手だし臆病だ。しかし(去りし日々はいづれ去ろう)のスローガン契機に、いっそ片付けてしまおう、先ずは先日の現像から上がった写真。

 封を切るのにプリント屋が何故糊付けの理由も疑問符を呼吸して、破ってしまえば約束も向こうが先、一枚目に僕のいつのだろう寝顔、前夜の飲み過ぎか顔の浮腫み、煙草の吸い過ぎでくちびるが荒れている。

 二、付箋にキャプション「喫茶店の窓から」隅の方にカップ片手に熱い珈琲に顔しかめる僕がいる。手持無沙汰にティースプーンをつまんで何食わぬ呈で流れる時間を咀嚼している。

 参、二枚目の別撮りで窓の奥に大通り、法被姿と浴衣の入り乱れる往来、傍らにフィルムのプリント屋「30分スピード現像」。

 三枚目と四枚目と五枚目が湿気でくっついていて横着して無理やりひっぺがそうとすると、手にしていたそれら全ての印画紙が、案の定いまさら部屋の片付け床に散乱した欠片をひらう。

 ふと、拾いながら鼻唄くりかえし節を変えて数えると一七韻律、散らばった印画紙は数字の順番に揃うのを待つ、翌日の天気を待って、バス停で待って、珈琲が沸くのを待って、彼女が目覚めるのを待つ。何で僕ばかりが待たねばならぬのか。

 この際も誰かに自分を確認されているようで硬直する腕から背中、レシートの確認も忘れ草臥れ夕寂あてにさら暮れて、すべて拾い終えた後で茜むこうに雁影が去っていくのをぼんやりながめると、「十七度ほど西の扉を打て」頭の中でいきなり怒矢されたよう、ふたたび椅子がガラガラ崩れて、夕景が一段オレンジに輝いて太陽がトプンと沈んだので、その音にして吃驚、写真の束がするり手を離れふたたび床にバラバラ落ちてしまった。

 謎解きの名手は狼狽えぬを信条とし、左足を軸にテーブルから壁へ体重を移し、壁に手を這わせ部屋の明かりのスイッチを探した。彼女の夢は少し浮つく雲の絨毯に、烏が鳴いて遠ざかっていくみたいに、時刻に横入りされず毎日が境目の見えない白夜のように、僕は彼女の隣で夢を見ている。結論は17、最後の一枚だけそっと盗み見するとフレームまるごと真っ黒で、暗闇の中でその先を、どのくらいだろう、音もなく喉渇くまでずっと見つめた。
 コップで水を一口すする、肺でたばこが吸いたい、夕焼けの背中に君の名前をなぞるように、長い映画のエンドロールがやっと済んだあと、

The past will be gone(「ただいま」と「おかえり」はすこしずらして言ってよね)

 六月には彼女の誕生日があった。彼女は寒い季節を僕に任せ、いつも先にスキップで春を迎え、夏を口笛やり過ごし、クリスマスは僕と手を取り暖を取って、次の秋の入り口で昨日までの春を寝息しずかに耳元で聞かせてくれる。

 気づくと、この見知らぬ男が部屋でひとりすすり泣いていた。街の声だけが耳に過ぎゆき、背景には黒い雨のなだらかなカーテン、時に整理の付かぬジグソーパズルの箱が胸から喉までの辺りを停滞して染め広がっていく。目に見えれ施しようなくれば幾重ものオーロラで出来た街、その向こうに不吉な星ひかり、ふもとのサンタクロースの家の庭に考古生物学的ツリーが飾ってあって、木々も緑に寒い国、言葉さきに凍る息、凍ったナイフに凍った心臓で立ち向かう。

 最愛の眠り姫を遊園地にエスコート出来ず、ただ待つだけだったこの三年間は「オズの魔法使い」の登場人物全員の役をたった一人にすべて任されたようなものだった。そしてジュラ紀の生命が逞しい雄たけびとともに、僕たちが生きている、現在の燃料へとつづけて臨界していく。


   母校を一人でほっついた話

 天文学に必要な文献を探しに大学構内の図書室を訪ねる。分煙化がだいぶ進んで窮屈な思いをしながら屋上に出ると当時はパノラマだった都景が一変し、高架や新ビル高層マンション群に埋もれ、其処に行き着く階段一歩手前までは誰にでも判る必然のなか自己の所在に、一個の現実世界が手に取れる触覚物体Bとして存在していたはず。
 都市はそれ自体移動する有限状態の回遊過程である。階段のあと一歩と、すでに辿り着いた景色は分断された時代を相互隣在させ、僕の知り合い達が住んでいた昨日からは同じ星が確認できない。だからそれはあっと言う間に、一瞬にして冷凍睡眠を更に盗まれた小さな星間旅行であった。

 衛星は自転旋回する、時刻告ぐ星ににべもなく常に視界の外に逃げる星、見ている風景の中に埋もれているシャボン玉の街、燕の群れがびょうびょう風を鳴らして犬が吠え、僕は街の安全を守るのに精一杯で、その街の中で寝グセ髮を掻いてあくび、君を探しながら目ヤニをこすり財布を探していて、腹が減って階下の食堂へ向かう。

 放ったらかして出て来たものだから言い訳がてらの土産を用意しなければならず、手持ちと云えばさっきスーパーで買物をした残りポケットの小銭、ビニール袋には大根とネギと一球のキャベツ、豚バラ肉と秋刀魚三尾、ツナ缶2個とレトルトパウチカレー、掌上で拾らい数えるも数えるも学食のカレーにもカツ丼にも間に合わなくて、トッピングの香の物だけ買って帰ろうか、メニューも変わり、借りよう必要だった本のタイトルもすっかり忘れていた。

 はて、さて、サンダルに歩くのも疲れたので商店街のパーラーを過ごして家路に就く。いくらでもいつまでも続きそうな西茜に歩きタバコも咎められることもなかったから、マンションの手前で麸トとろけたアイスクリームの寓話を考える、待たせるのも悪いのだけれど、叱られ損に費やし散歩だったのでどうしてもどうしても愉し過ぎる言い訳が必要だった。
 いつの日だったか憶えてやいやしないけど、此の時の言い訳は頗る出来が良くて思い出すだけで医者が必要なくらい腹が痛くなる。


 文房具屋さんで君が言った、ライヴコンサートの帰り、思いついたのが其の時だったのだろう「あの時あそこでキスしてたら皆にお祝いされてるみたいじゃなかった?」、ふむ、悪くはないが打算が過ぎる。熱狂的盲信の果て、僕らの個人的な幸福論にあんな累々が拍手して褒めそやす必要はなかろう、印鑑ケースをぐるり一回転させた。今さら君の幸福論の上乗せに辟易するってことは今のままでも充分なんじゃないだろうか、欲張りすぎると碌な事にならないんじゃないだろうか、天文学的に膨らむ杞憂でこれから発見するかもしれない彗星に、二人分の名前を付ける。




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