第28話 無論そのはず、立ち飲み屋にて

文字数 1,766文字

 何もせぬまま自転が半分ほど進み、僕はこの部屋で湿った夕暮れに別れ惜しむ。僕にしか判らないその哀しみって奴は、地球が動転するに左右されない物としての自負をこの三年、ここ軽く放蕩に気が進むのも軌道の延長線上に新星や名無し星群の冠詞望む。

 いざないの凡てに足取り任すのも、今日に限っての自由をポケットへ、手ぶらサンダル見返り辞さぬ、煩悶からの開放も茶柱が三本立つような偶然で、階段につっかかりそうになりながら下っていく、深呼吸に夏草の懐しさ、横断歩道の真ん中で月や、雲や、星や、酒や、耳を澄ませばなるたけ静かな方へ、更けに殊より千鳥足の邪魔にならぬよう右に折れて左に登り、水溜りの乾かぬを写る自身に思い出し、薄明かりの東京の夜空に一服ふうっと問い返す。

 立ち飲み屋には財布だけで訪れた。明け透けに裏声で生ビア頼みて、マスター返事の変わらない今、好奇も羞恥も折り重なって、目配せに臆病役を買って出る。
 「Aちゃん」は「変わらず」「変わらずだねえ」胸の中で心臓の居場所が無くなっていく、みるみる収縮して居た堪れなく己、臓腑の奥底から励ますように絞り出して「そうなんですよ」出掛けるってのに忘れ物が多くて、ふくらはぎで膝を支える。さっき迄の星探し気分は消え去に、呼吸を整えるのに地球の自転及び移動を東へ二度ほど経た。

 提灯の仄暗い暖かさが視界から滲み入り、呼吸の先から言抜けて、疑心の霧雨みのがくれ、知らない顔には知らない礼儀を勘定する。一口二口、こめかみが拍打つのに焼き鳥のタレが焦げた煙を上げて、換気扇の位置を、灰皿の地形を、言葉も味も片目なみだで確認できた。油汚れの品書きが相も変わらず剥がれ際に怺えているのが他人事とは想えなくて、ビルの窓明かりが少なくなっていく、サンダル底の砂利が潰れて細かくなっていき、隣の客が欠伸ついでにテレビに笑うとびっくりついでに足が浮いた。

 本題に、今日此処に来た理由の段で、気になる名前がところどころ耳に、もう一口のジョッキ残したまま、肩で笑って暖簾揺れる風に勘定を済ませようとしたところ「あらあら、もう頂いてるよう。あと二杯分はね」頭ぽりぽり三年前からのツケもすでに、二日前に片付いていた。

 「墓場に持ってくなって学生時分に言ったぎり、放蕩たらしに当て付け程度で悪口だったのにねえ」ガマ口が開いたまま閉じないでいる。「焼鳥にしちゃあもらえませんか?」、神頼みの裾に寄っかかり、「泡は少な目だね~」次のを注ぎ足しゃ口まで持ってこさせようってな魂胆、「うちのが飲み過ぎに五月蠅くて、珍しいですね先に勘定」奥歯の閉まらない侭つたえると、ハハア、笑って銀歯が口に収まらないようだった。

 救急車のサイレンが聴こえる、遠く近く音だけが、この東京って街では楓情の行き届いた踊りが耳に消えて、平素の今日も過ぎ去って、夜風差し込みに「明日、飛行機に乗るんです」と意を伝え、決死の奥歯すきま風が相手の腑に落ちたようで「はいはい行ってらっしゃい」、もう一杯の酒を断る断る仕舞いに土産も頼まれた。

 帰り道、昨日壊れていた道端の自転車がピカピカ形良く留まり、明朝の出番をうずうずと待っている。ゴミ捨て場にはカラスが夜袖を濡らし、鳩は少しでも明るいほうへ光を逃げ衣て行く。

 マンションの傍らまで来た所で、そうだゴミを捨てよう不用品を捨てよう、スローガン思い付くまま階段を何度も昇り降りし、片端から酔った頭で物を運んだ。

 気をもいだのは椅子の破片十七個。捨つに捨てられぬ思い出の品を廃棄場にのこし、部屋に上がると胃酸が喉に込み上げてきた。涙目を洗面台に写し、吐くのには先ほど飲み屋の無闇な親切が役立った。新宿中央公園の噴水おとが巳み、これから両手で掬う月が水面に張り付き、全世界中、今、森の奥深く、楽隊の寝ぐら探しに忙しい寄辺、暇なウサギ捕りに静かに、沈むように眠り就いた。

 哀しい思い出を棄てたその哀しみを胸に当ててソファが揺れて、静かな闇に寝息の通りすがる、航空券は引き出しの中、マドロス、ガソリン、駅舎に夜行バスの睡眠が移動していく、森の摂理の夜だった。

 コンビニ袋に詰めた木片をガシャッと、目的なく置いて去るのに、ゴダール映画の惑星間高速道路、目が覚めると違う星、そう在って欲しい、東京六月の裏側で、機械仕掛けの冬眠だった。




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