第36話 披露宴での小話

文字数 2,232文字

     日記としての序文


 いつものように新聞配達のバイクの音で起きた。珈琲と独り言、雀のピーチクス、脳裏を過ぎるものが在って「今日は編集さんが来るな」、去年の祭りはマンションの前の通りを神輿が行脚し、今朝は早めの朝食を摂りアクビを大きく、小さなゲップが出た。TVニュースが退屈で鼻唄で珈琲に砂糖とミルクをほんのり足し、電話がコールするも丁ど十コールで切れたので応ずるまでもなく要件も相手も確認できた。

 彼女が散歩に出ている。菓子缶の下の書き置きは夕餉の材料の買い出しメモに「買い物に行ってくるね A」ふむ、これは半分は意味を成す代わりにもう半分を欠落している。そして今夜、僕は同窓会に行く。そうだ結婚式、あの結婚式も満足しまいの侭だった。
 僕の作家仲間が披露宴のスピーチで酔っ払って「3つのリンゴ」の小話をはじめた。


     〈3つのリンゴ〉

「(わざとらしい咳払い)

 エヴァがお母さんから「リンゴを3つ」買ってくるように言われました。但し代金は「一銭ももらっていません」。どうしたらよいものか、まずはじめに古い友達のザックを訪ねました。
 彼は留守でした。そこでエヴァは書き置きを残しました「リンゴは空から降るう物かい、そいとも地面から生えてくるものなのかあ」。当然のことながら留守中にすぐに返事が来るわけはありません。このままではお母さんに叱られる。エヴァは見当を変えて美術館に行きました。

 有名な美術館でたくさん絵画が並んでいます。一枚の絵の前で描かれている蛇の眼をじっと見つめました。蛇は優しく言いました。

 (赤い果実を懐に落とす者、汝いづれ我が恩寵のもと我訪ね、無垢な瞳二つ並べて問わん、林檎が2つ在ったなら何方から先に食べたら良いのか、知る者の積として答えん。全知全能の父は能う限りの食物をくださる、しか此れ袖に隠し必要以上の益価を得んとする者ふたり以上在ってはならず、ならば一人もいないこと同じと還る。やがて食物は我となり食する者我となる。何方が先とは何も変わらず、答え知る者こそ問うて知られる)

 はなしの先が見えず途方に暮れて、エヴァは家に帰りたくなりました。ほんのちょっとお腹が空いてきたのです。

 夕刻が近づき、いよいよ「リンゴを3つ」なんとか手に入れなければなりません。エヴァはもう自分で考えることにしました。せめて1つでもリンゴがあればどうにかして3つにすることは出来ました。でも1個もないのです。考え事をしながら歩いているといつの間にか家に着いていました。もう空に月がのぼっていて、これ以上帰るのが遅くなるとお父さんにもっときつく叱られる時間です。

 エヴァは家のドアをノックしました。1回でも2回でも100回でも変わらないから1つ叩きました。優しい声がしてドアが開き、オーブンからアップルパイの香りが洩れて漂っていました。お母さんにザックの話をすると「あの子はいつもいないようなものだから」、蛇の話をすると「蛇さんこそお腹を隠せないものよ」、けっきょく「リンゴ3つ」は手に入らなかった話をすると「お腹すいてない?」顔を覗き込んできてエヴァの様子をうかがうから彼はさとられるのが嫌で「リンゴはもうあるじゃないのうかあ?」お母さんはエヴァの頭をなでながら「リンゴ3つぶんくらいお腹が空いてるんじゃないの?」、お父さんが珍しくオーブンを開けました。「僕はできない子かあい?いらない子なあのかいないあ?」。両親二人とも笑って抱きしめてくれました。「あなたは天才よ。いつか世の中を変えるわ」。エヴァは鼻が痒くて「あのアップルパイはリンゴいくつぶんかあなあ?」「アップルパイがひとつよ。それを分けて食べるのよ」。

 美味しくて幸せで、もうエヴァはたじたじでアップルパイを頬張ることしか目の前にありませんでした。それから百数十年後、エヴァは月に行きました。



 コホン、この3つのリンゴ、この家族のように、色形は似ても違えど睦まじく、ひとつ粒の食事を分かち合い、思いも依らぬ化学反応のすえ、いや、数十年前に人類は月に到達し、既に到達したものの自然もう一度月に落下しよう、糸ほつれに、既に言い終えた全ての物語を思い出させる、まさに本日が、昨日と明日の3つの点在可能点であるべきだろうと我が友、友たちに言い託すのです。(笑い)。

                                     (拍手と怺え笑い)」


 この付けて足したようなスピーチに何の意図が在るのか知らないが、この友人の作風に似合わず、こんな童心のくすぐれる話も作れるものか、行儀の良い感嘆を述べると一部、笑いを堪らえられないテーブルがあった。後ほど知るがこの話は結婚前、友人たちと結婚報告パーティーを開いた際、深酒に誰かが嘯いたそうだ。頭痛に弁者の思い当たりはあるが一断明答に臆するところ「録音してあるぜ」、文明利器のお節介な優秀さと種々の銘酒をひとり恨んだ。

 ひどく雨が降り、式のあと参列者たちと小一時間、土砂降りを眺めながら歓談した。黄色いレインコートを着た小さな女の子が雨靄のなか外へ出て、そんな子はいなかったよ、気の所為に不安のはしり、空港へ電話すると「通り雨なので」そっけなく業務どおり切られた。
 20:00発、雲の向こうの欧羅巴はこの息苦しさと彼女との永久なる誓いの宿り木、同じ食事を分かち合い、髪の匂いを嗅ぎ合って眠る、そう、僕たちは彼れからそう変わらない未来を生きている。




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