第23話 先人に学び、仮説を構築、再構築する
文字数 2,730文字
椅子には作られた理由がある。そして部品があって、その部品には一つずつアルファベットが刻んであり、それを隠すようにペイントされていた。そしてそれら羅列のどこかにその設計図たる「理由」があるはず。
その理由について、今から言って後日談にはなるが、かならず僕が突き止めよう謎が隠されていることも彼女の密やかな企みのひとつなのだろうな、木の一片をひらって足元に転がした。煙草がしなんで、吐いた溜息をそっくり吸い込もうとも味さえもう元には戻らなかった。
仮説1
彼女自作の椅子は壊れるように作ってあった。それを引越し屋が持ち運ぶ際、自分が壊したと早合点し、自前の金具で壊れないように「直した(元あった形ではない)」。それを彼女は「壊した・壊れている(=壊れないようになっている)」と言った。
マリー・ジャン・ジョルジュ・メリエス、人類最初の月への到達者、稀代のCinemagician、彼の目は絵画的感応術を、彼の耳は眠りにつく前の無量の静けさを、化学記号へと変換して太平洋に浮かぶ西端と東端を飛び越えた、自由自在に、遊び心の気まま動力として。我々の扱う言語の句点・読点、これらと同じ記号・符号として、秘密裏に隠された人類の無用な信心深さと、それに比例する疑り深さがひっくり返ってはさらに、もと来た道をたどる、未必の故意しかりとした企みのもと、想像力の吸収と排出を現代まで繰り返させた。
彼はパリ生まれ。父親はフランス人でたぶん母親はオランダ人、兄か姉がいて老犬を一匹、暖炉の前で番をさせている。彼は仮に本を読めなかったとしよう、さすれば此度のこちら彼女のアナグラムトリックにも全くではないかもしれないが他人ごとで理解してくれる。組立てるにしても殊更興味を持つだろう。それらも解法の一つとして置いておく。
言語学には盲点があり、それこそ文盲のための言語展開と帰結点が両肩落ちで期待されない点にある。無論、バベル神話の建立下、ルネサンス期のスコラ哲学「スンマ(テクロジカ)」にそれは在ってはならないのだ。とは言え口語の試し、キネマトグラフや蓄音機の恩恵がなかったら我々が過去という偶像を崇信するのに、時刻に頼らない、クエスティオネスの交通、説明的パラダイムも想定はできた。
しかし実際は人類の逞しい想像力によって視覚と言語双方のイマージュが互いに塗り替えされ、張りぼてを積み重ねるごとに必要であれば時差に間隔が少なくなっていくことになる。ジュール・ガブリエル・ベルヌは紅茶を一杯飲む間にメリエスの「不可能をとおる旅」のメモを構想した。
ベルヌは言葉をあつかう仕事であまりにも長い一日を過ごし、そして未だなお一杯のお茶が琥珀色から粒子成分まで透過推算を埋め尽くそうとしている。メリエスは世も世、理をことわらぬ輩たちが次第に明らかになっていく(天体)月への憧憬をとどめない中、アポロ計画よりも大胆不敵に、老眼鏡と擦り切れた革靴で目的地に着陸した。ウィットと映写機のノイズを現代へ蘇らせ、ティーカップにもあの月にも、空にも既に落書きがしたためてある。
文化的発展には時に拠り温故知新の豊かな介入と省察に反復構造が不可欠で、「月世界旅行」の当初の目論見通り、見たことのない世界、夜通し愛おしい惑星、不変の美を滴にして蘇らせるのに、僕に、眠っている彼女からのプレゼントを探させることにもなった。彼女に関するいくつかの知らない事情があって、椅子が壊れた、取り扱いが判らない、でも必ず正解があるはず、思い出そう、これまで僕が彼女にしてあげたことは、今これから僕が彼女にしてあげようとしていることだ。
ここでメリエスは奇術的明算を出来る限り人類文化の飛躍に務め理想範型のモデルと化し、ジュールは揺り椅子で長く浅い眠りに証明不可能な、または根として反証可能性を地中深く閉じ込めることになる。崩れ去った文明にも元々に考える組み立て方が、設計図それだけでも存在している。そしてそれは大切に「戸或る場所」に保管されている。
メリエス的見解に「この世界の九割以上が想像力である」というヒントを、可能性という事実とともに白日と空を仰ぎ雲たかく、ベルヌ「二十世紀のパリ」は「想像性と実現可能性」のコンセプトのもと、見たことも聞いたこともない都市で、早寝早起きだった彼女の眠りの理由に、崩壊した椅子を尋ねさせた。未だなお見ぬ異国のオーロラにそうするように僕を彼女に、飽きもせず何度も恋慕させることにもなった。
映画がミューチュアルだった頃、それが辞書に載る前から「映画(活動写真)」に違いがなかった時代、その変容退化の神学が人学に、そして言語学に摩り替わる前に、彼女が僕にあたえた、人生の価値観と果物かごの世界という一見得体の知れない不釣り合いな天秤が、突如現実として彼女の睡眠で濾過されて片方に虚数域を摂り、強靭なシャボン玉の中の朝食の準備に、ほんとうに必要な分量だけをこの僕に任せた。彼女がまるで夢の中で、夢を追いかけてまた眠るように。
献立だけメモを貼り、翌日分の空欄を見つめる僕は、ひとり分とあと少し腹がぐるりと鳴る。
もうこの時点で結末は見えているようなものだった。それを誰に話すでもなく、ただその箱の紐解かれる時を待とう、時代は押し寄せてくる、僕にとっては極小規模なものや、見つめれば見つめるほど自分と入れ替わってしまうようによく磨かれていて、地球儀に焦らず吃驚せず、地図に戻して測量し、ひっくり返して電灯に透かして面白がってしまう僕だけの「夢」や「楽しみだった新婚旅行」、それは誰かに盗まれたから、思し召しの希望的観測は追いかけてくるように、追いかけられて、この部屋のニコチン濃度は食卓まで空腹感を、必要最低限のパンで明日を、「遠足前夜」の眠れなさとその「理由」に蝋燭の希望は、一歩近寄ってキスをする前にゆらめきサッと消え、いつまでも満たされぬその空腹に哀しむのをそっと手放した。
もう充分なのに必要以上に臆病風に吹かれ、事態が転んでいくのを作家が作家を面白がって書いている。幾重にも重なった綿雲の立体陰影をまさに自身の部屋に、窓から景色に心臓や血管ややがてやってくる喘息の発作を、君に期待して子どもみたいに看病を待っている。蛇足に風邪薬を適量飲んだ。風邪は引いていないが寂寥感は夜に向けて加速し充満し日常生活の一部となる。
それは彼女がいないせいで、いるような確信のもと、椅子の部品を一から組み立て完成させる、そうする意義を、切り取った白いドレスの一部に顔を埋める性癖を、僕の世界に垂直する「平行基準値i」に組み立てる。
忙しいスケジュールが充満するなか午後は暇とまがトっ散らかっていた。
その理由について、今から言って後日談にはなるが、かならず僕が突き止めよう謎が隠されていることも彼女の密やかな企みのひとつなのだろうな、木の一片をひらって足元に転がした。煙草がしなんで、吐いた溜息をそっくり吸い込もうとも味さえもう元には戻らなかった。
仮説1
彼女自作の椅子は壊れるように作ってあった。それを引越し屋が持ち運ぶ際、自分が壊したと早合点し、自前の金具で壊れないように「直した(元あった形ではない)」。それを彼女は「壊した・壊れている(=壊れないようになっている)」と言った。
マリー・ジャン・ジョルジュ・メリエス、人類最初の月への到達者、稀代のCinemagician、彼の目は絵画的感応術を、彼の耳は眠りにつく前の無量の静けさを、化学記号へと変換して太平洋に浮かぶ西端と東端を飛び越えた、自由自在に、遊び心の気まま動力として。我々の扱う言語の句点・読点、これらと同じ記号・符号として、秘密裏に隠された人類の無用な信心深さと、それに比例する疑り深さがひっくり返ってはさらに、もと来た道をたどる、未必の故意しかりとした企みのもと、想像力の吸収と排出を現代まで繰り返させた。
彼はパリ生まれ。父親はフランス人でたぶん母親はオランダ人、兄か姉がいて老犬を一匹、暖炉の前で番をさせている。彼は仮に本を読めなかったとしよう、さすれば此度のこちら彼女のアナグラムトリックにも全くではないかもしれないが他人ごとで理解してくれる。組立てるにしても殊更興味を持つだろう。それらも解法の一つとして置いておく。
言語学には盲点があり、それこそ文盲のための言語展開と帰結点が両肩落ちで期待されない点にある。無論、バベル神話の建立下、ルネサンス期のスコラ哲学「スンマ(テクロジカ)」にそれは在ってはならないのだ。とは言え口語の試し、キネマトグラフや蓄音機の恩恵がなかったら我々が過去という偶像を崇信するのに、時刻に頼らない、クエスティオネスの交通、説明的パラダイムも想定はできた。
しかし実際は人類の逞しい想像力によって視覚と言語双方のイマージュが互いに塗り替えされ、張りぼてを積み重ねるごとに必要であれば時差に間隔が少なくなっていくことになる。ジュール・ガブリエル・ベルヌは紅茶を一杯飲む間にメリエスの「不可能をとおる旅」のメモを構想した。
ベルヌは言葉をあつかう仕事であまりにも長い一日を過ごし、そして未だなお一杯のお茶が琥珀色から粒子成分まで透過推算を埋め尽くそうとしている。メリエスは世も世、理をことわらぬ輩たちが次第に明らかになっていく(天体)月への憧憬をとどめない中、アポロ計画よりも大胆不敵に、老眼鏡と擦り切れた革靴で目的地に着陸した。ウィットと映写機のノイズを現代へ蘇らせ、ティーカップにもあの月にも、空にも既に落書きがしたためてある。
文化的発展には時に拠り温故知新の豊かな介入と省察に反復構造が不可欠で、「月世界旅行」の当初の目論見通り、見たことのない世界、夜通し愛おしい惑星、不変の美を滴にして蘇らせるのに、僕に、眠っている彼女からのプレゼントを探させることにもなった。彼女に関するいくつかの知らない事情があって、椅子が壊れた、取り扱いが判らない、でも必ず正解があるはず、思い出そう、これまで僕が彼女にしてあげたことは、今これから僕が彼女にしてあげようとしていることだ。
ここでメリエスは奇術的明算を出来る限り人類文化の飛躍に務め理想範型のモデルと化し、ジュールは揺り椅子で長く浅い眠りに証明不可能な、または根として反証可能性を地中深く閉じ込めることになる。崩れ去った文明にも元々に考える組み立て方が、設計図それだけでも存在している。そしてそれは大切に「戸或る場所」に保管されている。
メリエス的見解に「この世界の九割以上が想像力である」というヒントを、可能性という事実とともに白日と空を仰ぎ雲たかく、ベルヌ「二十世紀のパリ」は「想像性と実現可能性」のコンセプトのもと、見たことも聞いたこともない都市で、早寝早起きだった彼女の眠りの理由に、崩壊した椅子を尋ねさせた。未だなお見ぬ異国のオーロラにそうするように僕を彼女に、飽きもせず何度も恋慕させることにもなった。
映画がミューチュアルだった頃、それが辞書に載る前から「映画(活動写真)」に違いがなかった時代、その変容退化の神学が人学に、そして言語学に摩り替わる前に、彼女が僕にあたえた、人生の価値観と果物かごの世界という一見得体の知れない不釣り合いな天秤が、突如現実として彼女の睡眠で濾過されて片方に虚数域を摂り、強靭なシャボン玉の中の朝食の準備に、ほんとうに必要な分量だけをこの僕に任せた。彼女がまるで夢の中で、夢を追いかけてまた眠るように。
献立だけメモを貼り、翌日分の空欄を見つめる僕は、ひとり分とあと少し腹がぐるりと鳴る。
もうこの時点で結末は見えているようなものだった。それを誰に話すでもなく、ただその箱の紐解かれる時を待とう、時代は押し寄せてくる、僕にとっては極小規模なものや、見つめれば見つめるほど自分と入れ替わってしまうようによく磨かれていて、地球儀に焦らず吃驚せず、地図に戻して測量し、ひっくり返して電灯に透かして面白がってしまう僕だけの「夢」や「楽しみだった新婚旅行」、それは誰かに盗まれたから、思し召しの希望的観測は追いかけてくるように、追いかけられて、この部屋のニコチン濃度は食卓まで空腹感を、必要最低限のパンで明日を、「遠足前夜」の眠れなさとその「理由」に蝋燭の希望は、一歩近寄ってキスをする前にゆらめきサッと消え、いつまでも満たされぬその空腹に哀しむのをそっと手放した。
もう充分なのに必要以上に臆病風に吹かれ、事態が転んでいくのを作家が作家を面白がって書いている。幾重にも重なった綿雲の立体陰影をまさに自身の部屋に、窓から景色に心臓や血管ややがてやってくる喘息の発作を、君に期待して子どもみたいに看病を待っている。蛇足に風邪薬を適量飲んだ。風邪は引いていないが寂寥感は夜に向けて加速し充満し日常生活の一部となる。
それは彼女がいないせいで、いるような確信のもと、椅子の部品を一から組み立て完成させる、そうする意義を、切り取った白いドレスの一部に顔を埋める性癖を、僕の世界に垂直する「平行基準値i」に組み立てる。
忙しいスケジュールが充満するなか午後は暇とまがトっ散らかっていた。