第38話 上空にて、然らば

文字数 3,309文字

 20:00成田発のボーイングはエンジントラブルで30分ほど離陸を見合わせた。要らないものは全て捨てた。部屋はN.Y.の友人の帰国用に保存食ごと譲り、郵便受けに関し大家さんにしこたま頭を下げた。「近所の小さな女の子」彼女に手紙を書くよ、ってなんとか名前を聞き出そうとしたが難しくて、失恋にも慣れたとか今更恥ずかしい歳なのでここにだけ記しておく。
 病院には何度も連絡して、医師が寂しがるものだから何年かに一度は連絡すると約束した。祖母の十七回忌には帰国しようかな、義理の両親は電話口で笑って「あの子に宜しく伝えて」咳が上擦って、「君が向こうで作家になるつもりなら、もう既に完成間近の作家だったと証言するよ。親不孝の息子だったとね」。

 (Mon)(Soon)に渡り鳥たちは空中で種子を食べ、誰よりも早い日曜日、ひたすら長い日曜日を終わらせようとする、退屈を凌げず、テレビ電波のチャンネルが一番多いのも彼女らで、寝息をスースー、にべもなく島へ、雲へ、イルカが跳ね、虹がいつまでも遠く、彼方と一メートルのやや西寄りの日付を自在に飛び移ろうことも可能だ。

 果てなく西へ、留まることなく西へ移動すれば、そこにはかならず永遠の日曜日がある。あきらめ残照の日付変更線と間際の一メートル。見上げるペンギンたちは宇宙あくがれ、ホッキョクグマは穴ぐら探し眠りもせずただただ腹が鳴る、一日に二度ほど太陽を拝み、人類の言う「毎日」って、生活の起源を境目なくうやむやにする。

 キャビン・アテンダントは航路の案内と救命器具の扱い方を説明したが後者しか耳に入らなかった。僕は窓を眺め、その先を眺めた。電車の先頭車両とは違いコクピットから地球の旋回に悦を感じるわけにも行かないしなあ、ビールを2本とナッツを頼んだ。離陸してシートベルトを外してからお持ちしますね、説明された。水はたらふく飲んだ。酒も飲めず、乗り慣れない飛行機で、酔いも酔われりゃ導眠剤でも良かった。あまり会話のない小説だったものだからここで少し会話をしようと思う。隣客へ、

「お仕事ですか?」
「仕事のようなものです」
「行き先をご存知ですか?」
「勿論。仕事のようなものですから」
離陸よりもビールが待ち遠しくて
「喉が渇きますね。やけに喉が渇きますね。」
「日本の水道水は世界有数の財産的損失文化ですよ」
「酔うに酒の水質は過分必要の財産でしょうか?」
「ハハ。足りぬ物で間にも合うでしょう」
「取るに足らない物を小説でしょうか?」
「足らない物を取るのが小説です」
この登場人物はいい加減名前を名乗らないので、
「喫煙席は必須でしょう、銘柄は?」
「ハイライトのなんたらで、ピースの缶は頭にキンキン響きますねえ。キャメルをぱかぱかマールボロを少々、アニスも吸いましたし、ジタン、ゴロワーズ、ギリシャやロシアの物も昔たのしみましたねえ、嗜好についで嗜好だもので」

 アナウンスが流れて、きちりとシートベルトを締め直した。空調ほどよく、何処の国に流れ着いてもこの気遣い、配慮なされば戦争も目的をひとつ失おう、して
「ぼかあ、搭乗口で迷子になってしまったんです。空港の人が此方へどうぞ、其処に一歩踏み出すだけの距離でだいぶ迷路の出口よりも入口に入るのに迷ってしまったんですねえ。」
「ハハ。よく聞く話ですね。特に最近は」
「お名前を伺ってもいいですか?」
「やめておきましょう。芸能人や有名人、作家のペンネームみたいな、取って付けた中身の見えない名前なのです」
左様ですか。少ない友達が更にひとり減ったような気がして腹も減った。グウと鳴るに奥歯噛み締め再度まど外を眺めると地平が左に傾いていた。

 巴里の街並みは僕が思い描くような洒脱なものだろうか、セーヌ川に小魚は泳いでいるだろうか、ファッショナブルなファーストフードや地球儀の回転侭に自転が其処へ連れて行ってくれるだろうか、よく睡眠を摂れるだろうか。リヨンのモーテルはどんな看板だろう、彼女はどこに、期待過剰のクジは引く前から少しだけ僕を残念がらせる。

 ビール5本目、映画を一本見終えたあとでトイレに行きたくなった。トイレには使用中の赤ランプが着いていて、添乗員に尋ねると故障中だそうだ。もちろん入れない。でもトイレは使えるそうだ。

 別のトイレは使えるし、キレイに掃除してある。その機内では行き止まりの構造はなく、歩くのに自由席は搭乗者なら交換可能、窓から機外は撮影自由でその先にも開放感が清々しい。滞りなく運ばれる物語はその赤ランプに依って暗雲立ち込め、誰も読んでいない小説を小説足らしめるのに手を念入りに洗い、ついでに嗽までした。閉塞感のなか額に張り付いた頭痛がここで目の奥に降りかかり、咳払いはおまじない、脱出ゲートの内側からドアをノックして心音をここ地図を確かめる。僕は両手でエーテルを掻き分けながら等分して前後不覚の合間に移動している。

 席に戻ると隣客のいたシートには映画で観るような山高帽とステッキ、機内常備のブラン毛布に封筒が一枚おいてある。またか、宛名は「やっぱり」、中身はそう中身、今の時点で入れ替え可能なら成る丈笑えるシノプシスが良い、さっきの、そんなフォーマルな服装をしていただろうか彼、まあ良い、覚えていない自分の分がひたすら悪い。数個の語句の後さりし彼は他の席へ、米国か英国か他の大陸か、顔も覚えていないので伺いようがない。

 この船は仏国行きの筈なので別の航路があり、何かの拍子の一期一会と企み、文通でもなし茶封筒を封切ると折り畳んだルーズリーフにサインペンで走り書きがしてあった。彼が非常に忙しいのは判った。考え見れば夏の盛りひきひき籠もる北半球人はいるにやはり名を聞くのを果たせなかった奥歯をふう噛み締め、持ち込んだ自身の走り書き帳と足し算をすることに至る。東経北緯にて辛うじて手渡しの済んだその「続き」には悪戯書きのまる文字で

 「お手紙を書きました。今晩の夕飯はお鍋のカレーを温めて食べてね。箸休めに麻婆豆腐とオニオンマスタードもあるよ。起きたらまず洗面所に行って顔を洗ってね。昨のう目やにがすごいって言ってたから。テレビばかり見てちゃダメだよ。日曜日はアニメを一緒に見たいけど、月曜日は私は仕事なんだから良い子で眠るんだよ。作家さん」

 この字を見て彼女の、こんな字だったかな、顎を掻くに少し伸ばした髭がちりちり、キャビン・アテンダントを目配せでコールした。
「空調設備の設定は空域に依って変わりますか?」
「ハワイ風に制御することも可能です。」
「トロピカルジュースは出ますか?」
「プランに依ります。」
「今は?」
「タクラマカン砂漠の南西を通過中です。」
「時刻は?」もうすぐ三本目の映画が始まります、ヒールは嫌味にも足音させずカーテンの向こうへ、始まった映画は出だしから大して面白くもなく、六月の末に旅出た僕は、十年前なら複合型映画館に籠もりっきりだったな、鼻の下が痒くポップコーンのバケツを抱えながら、タイトルも思い出せず、上昇気流に怯えながらもコーラでお腹がいっぱいになって眠りについた。

 起きたら巴里だろう、淡く儚い夢に糸いっぽんの現実逃避、偏西風に世界中の女心の確信的着陸を融かすと、アイマスクの隙間からヒールの優しい足音が忍び込んできた。さっきの手紙には続きがあった。まだまだ続く、40億年分の涙一滴の水分だった。

 日本が恋しく東京が恋しく彼女が恋しかった。僕には登場時人物が必要で、作家それらしくあろうとシートから右手をだらしなく垂らし、鑑賞者が、誰かが毛布を掛けなおしてくれるのをじっと待ち、待ち遠しく緩やかな着地へと傾いて移動を続けていた。

 僕には天体なんて必要なくなり、鉄の塊が空を飛ぶ恐怖も別の不可思議に対する不安とシンコペイションして地面に対して臨んでいた。結論に、僕に必要なのはもう一度過去と対峙することだ、そう思った。そしてその勇気を惜しみなく共有することに誰かの人生一般を引き受ける無益に対価負わず腹を減らす事にあった。たとえ今晩の献立がライスカレーだったとしてもテーブルに辛い食べ物が幾つも並んでいたとしても、である。



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