第11話 彼女の言う「地図」ってやつは

文字数 1,853文字

    喫茶店にて痴話喧嘩


 新婚旅行に持ち歩くはずだった、彼女の忘れ物、本当の思い出ってのは脳裏に情景が浮かぶんだよ、不貞腐れながら前髪を気にして、会場に向かう前の最後の一服も途中で水に浸された。

 「フィルム入れっぱなしだった」控室のドアノブに残念そうに、何を撮っていたかは知らないが「どうしよう」チラとこちらを見て、先日行った新宿三丁目の公園でも彼女が芝生の上にカメラを忘れて、同じことをくり返し呟いていた。
 取りに帰るわけにいかない?、式場の関係者に聞いても答えが出るわけでなしハネムーンへの経路を短縮させる、彼女の面倒くさがりにこのチャペルに決めた半分の理由があった。

 「向こうで買うかい?予算は厳しいけど」煙草を一か月我慢しようか相談したが、彼女は少し怒り気味に、フィルム、フィルムが大事なの、「なんで?」ト惚けようなく突いて出ると、ドレスやら化粧やら髪型やらパンプスやら僕のネクタイやら全部邪魔そういうジェスチャーで、僕には一切伝わってくるものがなかった。可愛いお嫁さん、フィルムは現像に出しておくよ、じっと睨んでくるので余計なことを言った、すかさず謝りを入れた。


 区役所からの帰り、彼女とコーヒーショップで「もしも」の話を、彼女のシュガースプーン思いつくまま煙の輪を延々と繰り広げていた。「ねえ」彼女が唐突に神妙な顔をして僕を覗き込んだ。プカプカ考え事をしていてバッグから「食べ歩きガイドマップ」を、怒った口調に変わったのが分かったので、君のことを「考えてた」、彼女がにんまり笑うので引っ込みがつかなくなった。「ほほう、あなた今タバコって身体に悪いものを吸いながらコーヒー飲んで電灯ながめて深い溜息のあと空いた左手でバッグからレストランガイドを取り出そうとしていなかった?違う?」、知らない、答える。「ここに来て三時間経って十分間の沈黙が三度それは何故?」、覚えてないよ、鼻をぽりぽり掻いた。
 ドンっ、ミルク差しから二滴、僕は顔を上げて、四方の客も驚いて振り向く、本人は気にするような、悪びれた様子もなく僕をキッとにらみつけ、深くしずかに息を吐いた後、不敵な笑みを浮かべた。周囲はもともと興味がなかったのも、テーブルを叩く音が日常的なボリュームであったのも、僕が不利を招いた張本人であるのが明確になった、いくつかの条件が喫茶店の時間に一息で張力を持たせ、また分解されゆっくり流れ始めるその部品いくつかの川が僕たちの沈黙を埋めていった。

 コホン「お話があります」、何だろうグラニュー糖をテーブルにこぼして、「あなたに渡していないフィルムが何巻きかあります」、ふむ真剣に聞かないと不味そうだ「理由は?」、小説に出てくるような間の持たせ方だが「あなた、何故、小説を書くの?」、それを考えたことは、少なくとも胸張って言えるような目標はなかった。宛て先にある原因も遠い過去に存在する夢なんてものも、前後に向かうところない議論に彼女の質問だけが、僕の鼓膜を優しく撫ぜて答えの方向に推進させる、現実的な現在それが「理由」だった。

 二日後には彼女と人生の晴れ舞台を迎える。お茶に飯に、小説を、彼女と、いま目の前にいる、これからも、明日も、明後日もその先もずっと、僕は掴みどころのない彼女の「内緒のフィルムとアルバム」に早いうちから始まったヘソクリのようなもの、僕には書斎があるので彼女だけの慎ましやかな隠し部屋があってもいい、結婚生活の中で、こちらからその真意を問うまいと散らかったテーブルの上にも興味を取られなかった。

 彼女はバッグからカメラを取り出し「このフィルム」十七枚撮影してあるの、途中なのだな、釈然となくもそれ以上ふみ込まないが「あなたの小説ってすこしわかりづらいとこ、あるでしょ?」少しならいいけど、「夢で見たような景色」一口飲んで「街がふわふわ浮いてるみたいな」そうかな?「そこに人が生き生きと彫像みたいに生活していて」分かりづらいところってどこだろう?「息継ぎというか呼吸」そこは大安売りしている「私もあなたの小説の登場人物になりたい」それは今、書いている真っ最中だ。

「私の撮った写真はその小説の風景なのいつかあなたに見せたい」それは見てみたい。
「結末って考えた?」いつも先に考える。考えるにあたっていくつか細胞が死ぬ。
「物語の舞台は?」任せようと思ったところ。
「私はそこにいる」そうだね。
「地図を残しておく」わかった。
地図がそもそも形をして何なのかを自分に尋ねてみる。しかし未だ分からない。



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