第16話 ステレオボックスの部屋で

文字数 1,881文字

 海に漂う流木、彼は何処の生まれで、刻んであるイニシャルや文言、約束ごとの昨日はとうに過ぎて、後はどの埠頭に辿り着くか、空ばかり高く青くて、青いのが当然のように青くて、時に眩しかったり目を凝らして何かを探したり、夕暮れたそがれ浜辺のはしゃぎ声は砂に潜って、さっきまでの胸騒ぎに理由ばかり求めて、子どもみたいに大人の目に写る無力な自分を嘆いている。


 その朝はカーテンから覗く太陽に顔を焼かれ起こされた。ラジオ番組を脳髄に溶かし込んで、昨晩タイマー設定をしておいたコーヒーメーカー、沸かす音から目が覚めて、部屋に充満した懐かしい匂いに少し彼女のシャツを思い出し、喉がカラカラで、酒瓶が積もり、衣替えから大掃除、階下のゴミ収集車にごっそり運ばれていく、頭痛がする、携帯電話のアラームを止めて確認ここは東経125度と十九分、ベッドを直し目ヤニを取る、北極と南極はまだずっと仄暗い、煙草を探し窓を開けると耳と目に痛い騒音が流れ込んできた。階下に人足の流れ、入道雲は海の方角へとゆっくり漂う。

 ベランダには椅子があり、腰掛けるに昨日の雨音の思い出し、ペンキの浮いた表面からパジャマを洗ってなくて、座るまでは僕の無意識が、その朝、帰ってきた朝に到達しえなかった。コーヒーメーカーがジュージューと保温板に焦げを匂わせ、沸かしたては美味しいよ、当然だよ、って聞き慣れた声で、ああ、わかってる、風にビールの空き缶が昨日、カランと答えるので、わかってる、世界は巡ってつながって、一人きりではないような気がした。

 広がる空のさらに向こう、どこまでも遠く、あの消えかかる飛行機にはもう永遠に、機内の時刻を告げるアナウンスやスチュワーデスの心遣い、出不精には君がいないせいで、創作意欲のはて詩的羅列がインク質量の多きに、ブドウ酒のオーダー、昨晩のフランス行きの仮説が、昼夜入れ替わり蒙昧とした生活から欲にして食事を味わえる現実味を帯び始めようとしていた。
 ベーコンエッグとトースト、ベランダで、部屋の何処かで、もしくはごく近く耳のすぐ裏側で、カタッと耳をくすぐるような音が鳴った。それは何の音か判らずも誰かのイタズラで、僕のことに関して僕に間違いがなければ、フフ、思い出すより笑うのが先で、そのイタズラが誰の物か少し前の過去として分かっていた。

 未練がましい訳ではないと自分に嘘をつき、いつか必要になる、前向きに、信じこんで保管しておいた旅行雑誌の、三年前に刊行されたものであるが、一冊、フランスの観光地に目を配らせた。パリ郊外のキネマカフェ、アート・ストリートで先物買い、蚤の市で笑顔で値切り、モンマルトルの寺院でお金の掛からないデートをする。アヴィニヨン、ノーヴ、一般旅行客に石が当たらないような片田舎の美術館に潜って、絵画彫刻に屈託なく批評をぶつけ、財布を取り出すだけ取り出し二人で、十年先の話、おなかがすいたね、歯を見せて君が笑う。

 彼女の言う「理由」が原罪意識に到達するのであれ、僕の憂鬱と彼女の不機嫌が日常に於いて同調すると、食欲に任せ茶菓子、仕事も何も可もほったらかして黙々と自宅で映画を観た記憶が蘇る。僕は物語の観測地点と結末を探し、彼女はテレビ画面を見つめたまま手探りで飲み物を拵え飲食を補充する。僕が映画の途中でトイレに立って、戻って来ると「主人公がロボットだったんだよ」こそこそ耳打ちして教えてくれた。小声に耳がこそばゆくて、そのことだけでなくも悲しいストーリーなのに思わずニヤけてしまったりすると、よく彼女に叱られていた。言い訳も一睨みで制止された。


 昨日の編集さんの言動でひとつ、どうしても気になった点があった。彼女に逢った、と、して長編小説の脱稿、事実紙面上の解雇、もし僕が彼であったならまずは出版社に電話して状況を説明し、泡から泡の、そう、「正体不明の事実がそのまま街を歩いている」、まさに今僕が推理をしているように、ゴシップでもなんでも報告をしただろう。そして僕が胃丈夫な男であったなら昨夜はワインとチーズでパーティーだったし、三年の長期休暇が慌ただしく済んで、次の仕事にせっせと励んでいる筈だった。

 冷蔵庫の冷気を漏らしてサラダ、火照った頭を整理しよう、トースト齧って雑誌を片付ける、すると突如電話が鳴る、1コール、2コール、、、、十コール、十一コール、お義母さんだ。電話の声は掠れがすれ、病院の公衆電話むこう側は廊下が風通しよく、スリッパぱたぱた、いつもの早口で何かお礼を言っているのは判ったが、ガチャリ、息継がせない「それ以外」がまったく解らなかった。




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