第19話 契約、ヘリウム風船のひもは意図して手放され

文字数 1,498文字

 寸分の狂いもなく君へ辿り着く方程式解、そうは言うものの、腹の音寄り道に邪推念じて期待の淡ゆかば北京から出発する天気予報の明日も一週間後も待てず、箸割りかすかな思い立ての匂い先ずんば、幾拍か前の慕情の留めるに値せず、胸騒ぎにて秋日を胸掻きむしる。

 初夏と云えど緑葉香りすれ、僕の生まれた金木犀の香りの耳後ろかすれるほど、かすれていくススキ慕いの心地なさ、呼べば振り向いた君が僕の膝に枕スレ、撫でれば逆らった髪が不意に指に絡まり解けなくなった仲夏、思い出の手探りを辞めてしまった頃に、ほんとに色々諦めてしまっていたんだなあ、冷めざめ酔いに恨めしく、昼をまたいで伸びたカップラーメンをすする。

 以前彼女がよく尋ねてきた、ナルトの始まりと終わり、どちらが入り口で、云えば終わりは在るのか、割り箸を置いて腕組んだものだが、その質問の出発点と帰結点が見当もつかず、湯気にて鼻がくすぐられるのに堪えかねて、螺旋が有益を持つのがその過程しかない塩っぱさに有限状態のテーブル木目一画とたらしめた。

「君が言うにまるで僕らがまだ出会ってないみたいじゃないか」
「そうね、もしくはもう出会っていて、それが渡り鳥みたいに代わる代わる島を右往左往するみたいなものね」

 そこには漠々飄然とした後味の悪さが舌に残った。彼女が目の前にいるのに既にいないような気がした。抱きしめたり胸元のネックレスに触れればイニシャルや家事分担の在り処は分かるのに、それ以上の仔細な説明を詮索させない唇が、鼓膜に振動、執拗に意地悪だった。

 編集くんの言葉で『小説家デビュー作「・・・」』・・・小説家以外の何なんだ?、他の得意も不得意も全て奪ったくせに、そう言い切る前に食後のビールで口元から喉を冷やした。そう、彼が僕を「小説家」と呼んだのにその時はまったく気づかなかった。その時は確実に契約範囲内で「小説家」ではあったからかも知れない。飲みかけの缶ビール、いつぞやの〆切り間際の問答は静かに耳に懐かしいだけだった。

 毎回言い訳を考えた、サンセット通りに草を植えながら。なるべく厳密に地図の縮尺を推論すると、どの地点のどの時刻、昨日見た景色、子どもたちの声、沈むに、考え塞ぐのに、手を差し伸べてそのクイズのヒントや、出不精の昼間に顎を掻いて眠るのも、晩酌の食事も、住所、考えれば必ず隣に彼女がいた。天体観測の趣味は文字通りの設計図を以って僕達の居場所をあつらえ、置換し、立体像を思索させていたはず。

 「彼」はもしかしたら「彼女」がこの部屋にいた頃の話を、覚束ないのも僕の方で、そして「いつの間にか筆に不慣れになってしまった僕」が同時に想像力も奪われ、事件解決の糸口にほつれを、サマーセーター毛糸の一縷と、複雑に入り組んだ疑念を払拭しよう、そう、ものを考えるポーズ、迷路には出口がある、深くため息を右肩にこぼし、迷い込んだまま煙草一本火をともし、暗中にシグナルを照らした。

 僕は今日、もう一つ存在したはずの世界を、無い物強請りを言う宛て先、所作としての生活を、そのまま考えることを辞める。云えば作家を辞める。そして答えの出ない人類文化の巡環生産という押しくら饅頭から我が喜びと一抜けて、夜そっと病院に忍び込み、「最も現実的な彼女」にキスをして、花瓶に触れて、撫でて、抱きしめて、愛情を押し付けるだけ存分に指先に甘えて、指定された数字通りにフランスへ発とうと想フ。

 日本での生活も今日か明日で最後になるだろう。それら最後の日々は彼女の思うまま存分に懐かしい記憶を指でなぞって、あたたかな木漏れ日まだら、買い物がてら、散歩にでも出かけよう、たった今決めた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み