第7話 気分はまだ小説家だった

文字数 1,684文字

 天気の話が社交辞令となる国もあるらしい、今日の雨は二日後の話題に上らず、二日後の天気は雲の大まかな方向だけ暗示されている、気象衛星はローレンツと仲違い、どちらも愛せずにただTV画面を眺める僕は、やっぱり君のもとをこのまま離れるなんて、行く先にこの都市を別の都市に変えることなんて、其処までの茶飯事をこなせるわけがない。

 君が僕のそばに居てくれたように、慣習のもとパンも買い忘れる、ポケットには小銭チャラチャラ閑を喰い、雨降りに傘が一つ、キスが下手なのもバレて、他に隠しごとを探す前に財布を全部預けた。屋根が一つ、テーブルが一つ、布団が一つ、分け入ることの出来ない数字で君と過ごすのがとてもとても幸せだった。

 「まだあたたかいんですよ」
 編集くんはパンの袋を開けた。ピリッと紙袋が裂けた瞬間、なつかしい香りが部屋に漂った。彼女が好んだパンは胡桃入りの7穀パンで、焼き上げた香りで容易に判別できる。

 腹も減るがそれよりも気になるのは彼女について唐突な近況をドア口から浴びせかけられ、それを僕は信用できず、ソファで目の前のパンと、その後にカバンから出てくるだろう封筒、のめりこむように彼の表情に深く注意を傾ける。コーヒーカップの中の琥珀の波紋に規則が無いように僕は、来訪者の意図が読めず、仕事の労らいにも声を、ティーカップの取っ手、何て掛ければいいか判らないでいた。この部屋には確かに一人分の余裕があった。外出中なのは言わずもがな皆んな知っている。

 編集くんは忙しなくシャツの袖で眼鏡を拭きながらベランダの見慣れない椅子に気が行ったようで、「ノルウェー?フィンランド?北欧調の作りですね、あのスツール。どうしてペンキであんな色に染めたんですか?そうする前だったら値が張ったかもしれない・・・」、即座には云とも寸とも答えられず、呼吸の移動を肩で意識して「君がさっき、会ったっていう人物の仕業だよ」、眼鏡を掛けなおし「そういうことお好きそうですもんね」。

 三年経っても原稿は未だ、無論、出来ておらず、またそういう理由で今日、彼がここを訪ねたわけでもない。しかし数年来の催促をやりすごす、そしてそれを当然と至らしめる癖が頓狂な妙を起こした。
 茹だる夏にコーヒーばかり静かに冷めゆくなか、僕は気がつくと書斎に足が向いて、編集くんはバッグを傍らに置く。待つのに慣れた、またテーブルマナーに似た仕事の愛嬌に背中が汗かいて、足に任せるまま僕は黙って書斎に向かう。

 熱のない疎い視線が次第に背中の一点に集まりチリチリ痛くて、彼女のために書く予定だった長編小説、ストーリーは単純で題名が決まらず、彼女が感想を話し終えるまで僕が黙って立ち尽くす、気に入らなくて「ここは書き直そう」、物語の終盤に「私はどこに出てくるの?」僕と原稿の間に頭をねじ込んでくる、いつのことだったか彼女の不機嫌と髪が頬に懐かしくて、散歩について行きたいな、わがままも聞いてあげるよ、いくらでも初めから書き直す。

 カチャ、後ろでドアが閉まるとともにシャツに焼けついた細い穴から、スルスルと涙が、手の指の隙間から微温くなった後悔が溢れ零れてきた。

 窓ガラスにうっすら写る、先ほどの急雨に晒して濡れそぼった、冷えて強張った身体と、髪型を更にみすぼらしく、見たままを思った。「僕には羅針盤がその部分ごっそり抜けている」、がくっ、と膝が落ちて階下に八つ当たりの上、ひざの痛み承知の浮いたまま、もう一度この部屋を出れば一切何も帰って来ないことも、彼が突と、何か言いかけたことも、飲み込み、僕がこの街に住んで、この街で暮らしてきた数年間のうち、彼女の笑顔が投げかけた質問と答えの放物線なんて、古典物理の理論展開で簡単に紐ほ解けるものではない。

 今更ゆっくり暮らしてみればこの実験室の照度はロウソクが何万本、表現がジジくさい、確かに言われればそう、朗らかに君が笑うのにつられて、そう、僕も笑いながら、腹の奥ではその灯火の風揺れ動くのにとても、とても恐怖していたんだ。無論原稿はまっさら。言い訳の書く手が暇な日なぞ一日たりともなかった。




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