第9話 ノイズの海から巻貝を拾らう

文字数 1,570文字

 ふむふむ、油断すると自分の欠伸に吸い込まれる、電話だ。イヅレ君想フ我死ナム、情二糸シテ啼ク烏、笑フ門二テ啼キ待チ賜フ、我想フ君忙シイ日々、日輪ニシテ烏ハネ往キ交ヒ、ツクヨミニ宛テモ在ル哉。

 電話を鳴らしておくと隣室の編集さんに申し訳ないな、要らぬ浅薄を置いて自ずと日常的に受話器を取った。今日は町内のお祭りで、騒がしくてそれにしても落ち着かず、何かの予感のような心忙しなさに追い立てられた。

 日ごろ誰とも何の約束もしてやしないが、彼女のスーツケースが部屋の片隅、僕のはもう片付けたが元々そんなに荷物持ちではなかった。ベランダの椅子もう乾いて陽炎が2センチ、晴天にして電話口の声は、三年前にお世話になった貸し衣装屋のスタッフだった。

 「ああいうことがあったから」、申し訳なさそうな口振りに合点がいかなくて、近所の商店街の叩き売り、縁日の垂れ幕が一ヶ月前から予告するのに飽き飽きしていたが今日、はて、受話器に更に耳を押し付ける「お支払いはもう結構と思っていたんですよ」。ふむ、何となくわかった、うちのが支払いに行ったんですね?。

 相手は領収書を知らない名前と言ったが、それで僕に電話してきたのは、当時、身長の低い彼女のためヴェールだけ先に誂えたのに使った領収書と同じ名前だったから、だそうだ。確かに空っぽで色味のない覚えのある名前だ。学生の頃からの字名であり、今でも俳号として使っている。でもその名をフルネームで知っているのは二人しかいなかったし、支払いに行けるのは今は一人、僕は今日は家でビールを飲んでいた。


 ふむふむ。新聞のコラム欄を読んでいると横から顔を突っ込んできて「ふむふむ」。無論、字面も内容も乱視の災い、社説欄に眼鏡を貸してやっても焦点が合わなくて「ふむふむ」。

 僕はここにいる。君はどこ?


 寝息静かで暇と間に堪えられなく、君は何処にいる?、ポテトのスープを作った、誰かが替えてくれている病室の花に見間違う現実は、口移しの問いに答えられようもなく君は呼吸で忙しいし、夢見るように夢の中で、三年も待ったんだから同じくもう三年は待てる、その後の六年と十二年、お義父さんが僕に申し訳なさそうにする姿が見えて、お義母さんの咳が遠くまで、廊下を歩く足音が聞こえるので、いつも気づくと花瓶の水がすこし減っていて、君がすやすや呼吸している、シャツの袖から滴るこの季節のこの雨を、自動販売機に語り掛けて遣り過ごしてばかり、好きな甘菓子も嫌いな野菜も君の分まで一手に口に運んで、いつの間にかすべて喉を通り過ぎている。

 寝言を言うこともあるらしい。ただ何を言っているのか分からない、看護師の親身な告げ口に興味持ち、ナースステーションのひそひそ話の合間から拾うように、君の寝息に耳を澄まして過ごした夜もあった。

 空調が声をひそめ、チューリップの太い茎がスースーいうのに、夜の静寂から「ドジだねえ」って、紛れもなく彼女の言葉だったから、心が底に着地して、朝は目やにがすごくて、病院の敷地内に喫煙室を探す、医師の診察によると回復へ向かう三半規管は壊れてはいないらしい。

 その頓狂な言い表し方が読めず、それは前も言った、一体いつからどういう意味で順調なのか、その何処の誰だかの無責任な思し召し何たらかんたらってやつは。

 貸し衣装屋はこの時期に忙しさついでに電話を掛けてきて、僕が何も言えなくなる、間を狙って、非礼詫びて電話を切った、聴こえる筈のない向こうの雨音が残り裾を引きずり、急にジリジリ照り返しを強要する、六月、最高の結婚式日和だし、仲人たちも着飾って出歩きたくもなるだろう、隣室から咳払いが聞こえ、ベランダの向こうから夕焼け伸びてくる、徐々に低い色温度がビルディング反射に折り重なり、いずれ高々と青の悲鳴は瞼のすこし上を斜めかすめ盗っていくだろう。




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