第2話 壊れた目覚まし時計その秒針
文字数 1,945文字
僕の喫煙は贅沢な暮らしだった。パチンコに行く余裕も散歩の陽気に羨み、安酒の儲けも親の線香代と花代に消えた。
細々く昇る煙に溜め息の混じり、煙草とライターと灰皿は?問うと、昨日洗ってベランダに干してある、答う。雨が降っていた。ぜんぶ?、ぜんぶ。
しきりに雨がそぼっていた。コンクリートの壁が、昨日の雨傘が、桶屋の看板も染みを残し、雨のうなじを雨が隠し、湿った野良猫をびしょびしょの鰹節で、街角に泣き虫が佇んでぴいぴい咽びいて泣く。雨上がり向こうに宛てて、彼女はテレビにご執心、けたけた笑う背中に、財布もすぐには見当たらず、シケモク齧ってまたも尋ねる。
気ままに思いつき決めた、眠る用のニコチンとそうではないニコチン、その区別も壁のシミに過ぎた年月を称えれば、三年分の片恋慕もなお愛した方だと自分を自分に自慢するようなものだった。
握り締める空き箱は空虚や淋しさも一緒に毎日を何気なしやり過ごさせた。手の平からすべり落ち、乾いた空洞を更に次元化させ、その箱の中に僕自身が充満し、一人では担えることのなかった一人暮らしって詩秋を、やわらかく抱き締めながら、更にケムリを味わい尽くそうとする。灰皿は買い替えることなく、またその機会を得ないように、眠っている間はベランダに、タオルと一緒に干している。
記念日に花を飾る。好きな花はなんだっけ?、ラナンキュラス、キューポラ、コーヒーの一口目に、何の花が好きで花弁の数とか根の匂いとか、象数にして統計を辿り、染料や香料の慮り、ポコポコ沸かせる、思い出せないばかりに毎年違った花、金木犀の薫りが好きだと、外国の農園から取り寄せたり、一日六杯のコーヒー、とりとめない毎日の話題を季節の移ろいに似せて、どの花を飾ったかは覚えていない。
三年間の宣誓通りの生活が、ひとりぼっちの楽園でないものねだりの毎日が、色褪せていく幸福のスプーン、つづく一杯のコーヒー、口元が勝手にニヤけてしまうと君の独り言は僕の中で大切な口癖になってしまっている。
「お砂糖さんは多めにね~、ミルクさんは色つけ程度~。」
一緒に暮らしていると似てくる、というか伝播する生活習慣のうちで、彼女の口真似が日課となり、珈琲を沸かし過ぎて胃が痛くて、体重も減って、他人の幸せ太りに妬みもなく、以前のようにすこしリキュールを混ぜて飲んでいるよ。ねえ君、手が震える、唇がすこし震えて、キスの感触や箸の持ち方、雨は通り過ぎたはずなのに顔だけビショビショの茶飯事が、苦くなった吸い殻を足元へ、無意識にボサボサ髪を唾で撫でつけ、それを繰り返し、ふと、ベランダの月下美人を眺めた。
僕さえ許せばお義父さんかお義母さんに預けることも出来たのに。テラコッタもハイカラで重量に動かしがたく、そんな荷物ばかり数に任せて、一人に余る広い部屋は片付けるのにも一苦労だよ。土にも水にも一つながりに困りはしないがね。
沸かしたてのコーヒーに好きだった和菓子、余暇の下手くそな過ごし方も毎度につけ文句の言われる筋合いはないし、言われるような幕場上段でもない。
彼女は生きている。
交通事故、いつか、チャペルと飛行場に挟まれた道路で、急な雷雨にはしゃいで走る君は、やわらかで真っ白なウェディングドレス、サイレント映画にはたまに理解しがたい、ちいさなパンプスを脱ぎ散らかし、突拍子もない一幕、一体なぜそんな紅い花を咲かせる。大雨にアスファルトを染めて、声を盗まれ、咄嗟には言葉が作れなくて、嗚咽や耳鳴りの繰り返しこの星の住人は、物語の始まりなのか終わりなのか、周りばっかり騒ぐものだから足が動かなくて、全く、視界が真っ赤になったまま呼吸を吐けないまま、革靴の紐も、唇が透明になり、僕は文章にしろ、結ぶことが人並みにも出来なくなった。
確かに、そう云われる、一部の批評家達の間では「もう時代が過ぎたか」錯誤性を問われ、以前は向こう見ずだった小手出版社もいつの間にか手切り賃と見舞い代を持って来る算段をつけた。
物語の継ぎ目で且つさして重要とは感じない何気ない分岐点は、結婚記念日で梅雨もだれの中、ふと、一呼吸の晴れ間が見え、そこから、新しい物語を虹の偏光に行くえ任せている。今日は長い付き合いの編集者がうちにやって来る、スタスタ、僕のお嫁さんは眠ったまま、知っているくせにそれもお構いなしに、彼は遠慮なくやって来る。
医師は言った「いつ目覚めるかは思し召しのもと」。僕のこの世界は僕の物ではなく誰か知らない他所の人の所有だと、つまりはそういうことだ。その権利を買い戻すために今日ふたたび筆を執った。
僕にとって小説の書き出しより重要なことは「彼女が眠ったまま僕を愛している」、根拠のない浮遊する都市に郵便宛て先を探し出すことだった。
細々く昇る煙に溜め息の混じり、煙草とライターと灰皿は?問うと、昨日洗ってベランダに干してある、答う。雨が降っていた。ぜんぶ?、ぜんぶ。
しきりに雨がそぼっていた。コンクリートの壁が、昨日の雨傘が、桶屋の看板も染みを残し、雨のうなじを雨が隠し、湿った野良猫をびしょびしょの鰹節で、街角に泣き虫が佇んでぴいぴい咽びいて泣く。雨上がり向こうに宛てて、彼女はテレビにご執心、けたけた笑う背中に、財布もすぐには見当たらず、シケモク齧ってまたも尋ねる。
気ままに思いつき決めた、眠る用のニコチンとそうではないニコチン、その区別も壁のシミに過ぎた年月を称えれば、三年分の片恋慕もなお愛した方だと自分を自分に自慢するようなものだった。
握り締める空き箱は空虚や淋しさも一緒に毎日を何気なしやり過ごさせた。手の平からすべり落ち、乾いた空洞を更に次元化させ、その箱の中に僕自身が充満し、一人では担えることのなかった一人暮らしって詩秋を、やわらかく抱き締めながら、更にケムリを味わい尽くそうとする。灰皿は買い替えることなく、またその機会を得ないように、眠っている間はベランダに、タオルと一緒に干している。
記念日に花を飾る。好きな花はなんだっけ?、ラナンキュラス、キューポラ、コーヒーの一口目に、何の花が好きで花弁の数とか根の匂いとか、象数にして統計を辿り、染料や香料の慮り、ポコポコ沸かせる、思い出せないばかりに毎年違った花、金木犀の薫りが好きだと、外国の農園から取り寄せたり、一日六杯のコーヒー、とりとめない毎日の話題を季節の移ろいに似せて、どの花を飾ったかは覚えていない。
三年間の宣誓通りの生活が、ひとりぼっちの楽園でないものねだりの毎日が、色褪せていく幸福のスプーン、つづく一杯のコーヒー、口元が勝手にニヤけてしまうと君の独り言は僕の中で大切な口癖になってしまっている。
「お砂糖さんは多めにね~、ミルクさんは色つけ程度~。」
一緒に暮らしていると似てくる、というか伝播する生活習慣のうちで、彼女の口真似が日課となり、珈琲を沸かし過ぎて胃が痛くて、体重も減って、他人の幸せ太りに妬みもなく、以前のようにすこしリキュールを混ぜて飲んでいるよ。ねえ君、手が震える、唇がすこし震えて、キスの感触や箸の持ち方、雨は通り過ぎたはずなのに顔だけビショビショの茶飯事が、苦くなった吸い殻を足元へ、無意識にボサボサ髪を唾で撫でつけ、それを繰り返し、ふと、ベランダの月下美人を眺めた。
僕さえ許せばお義父さんかお義母さんに預けることも出来たのに。テラコッタもハイカラで重量に動かしがたく、そんな荷物ばかり数に任せて、一人に余る広い部屋は片付けるのにも一苦労だよ。土にも水にも一つながりに困りはしないがね。
沸かしたてのコーヒーに好きだった和菓子、余暇の下手くそな過ごし方も毎度につけ文句の言われる筋合いはないし、言われるような幕場上段でもない。
彼女は生きている。
交通事故、いつか、チャペルと飛行場に挟まれた道路で、急な雷雨にはしゃいで走る君は、やわらかで真っ白なウェディングドレス、サイレント映画にはたまに理解しがたい、ちいさなパンプスを脱ぎ散らかし、突拍子もない一幕、一体なぜそんな紅い花を咲かせる。大雨にアスファルトを染めて、声を盗まれ、咄嗟には言葉が作れなくて、嗚咽や耳鳴りの繰り返しこの星の住人は、物語の始まりなのか終わりなのか、周りばっかり騒ぐものだから足が動かなくて、全く、視界が真っ赤になったまま呼吸を吐けないまま、革靴の紐も、唇が透明になり、僕は文章にしろ、結ぶことが人並みにも出来なくなった。
確かに、そう云われる、一部の批評家達の間では「もう時代が過ぎたか」錯誤性を問われ、以前は向こう見ずだった小手出版社もいつの間にか手切り賃と見舞い代を持って来る算段をつけた。
物語の継ぎ目で且つさして重要とは感じない何気ない分岐点は、結婚記念日で梅雨もだれの中、ふと、一呼吸の晴れ間が見え、そこから、新しい物語を虹の偏光に行くえ任せている。今日は長い付き合いの編集者がうちにやって来る、スタスタ、僕のお嫁さんは眠ったまま、知っているくせにそれもお構いなしに、彼は遠慮なくやって来る。
医師は言った「いつ目覚めるかは思し召しのもと」。僕のこの世界は僕の物ではなく誰か知らない他所の人の所有だと、つまりはそういうことだ。その権利を買い戻すために今日ふたたび筆を執った。
僕にとって小説の書き出しより重要なことは「彼女が眠ったまま僕を愛している」、根拠のない浮遊する都市に郵便宛て先を探し出すことだった。