第10話 カメラと記憶

文字数 1,344文字

   カメラの話

 彼女は写真を撮るのが好きで、僕も好きで、学生の頃からニコンのカメラを一台ずつ所有していた。僕が撮るのは35ミリレンズのスナップで、彼女は43‐86レンズで景観写真を好んで撮った。

 水族館に行けば魚の写真と水槽の写真、そこに戯れる人々とシーフードランチのメニュー。僕は被写界深度や露光、空想や算術ばかりが高く伸びて、彼女は自分の目で見たものをピントだけそのまま撮った。僕がカレーの具が少ないのに愚痴たれているとパスタの具を乗せて盛り付けてくれたし、魚の写真を撮るのに子供が遮って邪魔なのを、彼女は上手にすんなりのけてくれた。
 僕ばかり苦手なことが多くて、そう思って彼女のわがままをあまり聞いてやれなかったな、後悔は先に立たず、帰りに夜の公園のベンチで乾杯している時、滅多に使わないその、僕にしか分からないような教え方で、スローシャッターの使い方を教えてあげた。彼女は缶チューハイを開けてあの、最初に出会った晩のことを思い出しながら笑顔で話し続けた。

 他にも色々教えたいことがあって、でも、以前僕がプレゼントした指輪を嵌めているのをいつまでも続くものと悠長に構え、調子に乗っていつまでもそのスローシャッターをいつまでも切らずにいた。景観写真にはかならず隅っこにカメラを構えている僕が、間の抜けて、彼女の好きな建築と発見した頓狂な雲や電線の付け足しのように僕が、隅にひそり写り込んでいた。

 一週間分の巻きフィルムをまとめて現像に出し、傍のコーヒーショップで読書時間を駄賃で儲け、ネガとプリントを持ち帰る。いつも僕の役目だったので、家路で柔らかいプリント眺めて首を傾げながら、着くなりいくつか用意していた疑問符を解こうと試みたが、彼女はただ、ただ堪えながら笑うばかりだった。「邪魔よ、いつも邪魔。」言い方が邪険ではないので、言われて不思議に少し嬉しかったりもしたが、さらに追求すると恐らく気を悪くするだろうな、煙草を肺の奥までくうくう吸い込んで、喉の外からケッと咳をしてみせた。同じ原因から違う理由でやはり叱られることに変わりはなかった。




 眼鏡を掛けないでいるのは臆病だからだ。カメラを仕舞ったまま撮らないのも、アルバムを棚の奥へ、洞窟の奥へと向かい身をひそめる、まるで光に肌を灼かれてしまわないように。

 頭の中でフラッシュバックする三年前の大安以来、ぼくは手がふるえて爪を噛んで、カラスの時刻を打つ声に、糸に縛り付けられた心臓をキリキリ痛めながら、ああ今日も疲れやしたねぇ、そうでやんすねえ、と言うと、僕は幾ぶん前からひとり言を洩らしていたのだな、ニコチンが切れて腹がすくと今、お囃子と笛太鼓、街路樹の緑葉が生い茂り風を受けて揺れる人だかり、アスファルトのまだら模様を踏んで、階下を歓声とお神輿が交互に追い越していく。

 祇園、掛け声、下町情緒、引っ越してきたばかりの頃は彼女も法被を羽織って、僕もよく散策がてらカメラでスナップを撮影した。今、手元に、両の掌の中にある彼女仕様の一眼レフ、巻き上げレバーを回すと指に引っ掛かり、三年前から装填しっぱなしのフィルムが小さな黒箱の中で、傷んでいるだろう気付いてしまう。三年間置き去りのままだった。


 これが彼女の言う「地図」たぶんそう。


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