第24話 沸騰状態を避ける、遠回りの道

文字数 3,848文字

 何もかもが散らかり放題で前に進めず、落ち着く居場所のないまま部屋を抜け出る。

 空想するには晴れやかで爽快な風の吹く、散策に水ヨーヨーが道ばた跳ねて、うちわが川端に置きざりにされている。

 昨日の祇園の飽食的な賑わいを、食べた後には困ったアイスの棒っ切れ、川底に投げよう気づいたのは描かれていた文字が「アタリ」、一人で二個は食べ過ぎだし、そういえば腹をこわすとトイレの扉のこちらと向こうでケンカが始まったな、目が霞んでこすってよく見ると視界が横に広く、何年も日晒らしにされた藁半紙の落書きのように茶色と紫と白がやさしく筆でなぞられたような景色だったから、見たことがあって、電線があるなあ、って僕はふわふわ浮つき鼻唄で、迷えばカラスが帰り道を教えてくれる。
 でももう家には誰もいない。どこかから炊き立てのご飯の美味しい匂いがする。

 程よく汗をかき、陽気はアスファルトに陽炎を必要な分だけ引き伸ばして切り取って奪っていく。タオルを持ってくるのを忘れた。追い越す自転車は気分よくゆっくり過ぎ、橋の欄干では見たことある顔が談笑している。
 商店街の豆腐屋の灯りだけ道を照らし、売れ残り月がいつまでも昇りきらないでいた。踏切の音がこころ急がせ、間に合わないって諦めるのにも、ずっと待つのにも今夜の予定を想像する。

 耳鳴りに怖れ今日一日の幕引きに向かうに街はやっぱり素も知らぬ、天井桟敷の勝手なバカ騒ぎそっくりで、アルルカン笑えば済むとは思っちゃいないが、君の口笛の真似をして、唐突なカラスの歓声に怯えながら街という街を、何となくやり過ごしているよ。
 昼食はラーメンを食べた。夕食は未定、たぶんラーメン、新聞のテレビ欄にもともと興味もなかった。

 そうだ。今日は誰かがうちにやってくる。脳裏をかすめたのは壊れた椅子だった。その奇怪な木片を片付けるのに手順がいるのか、判らないまま、風の中たばこを喉から飲んでいる。
 加色された信号機に横断歩道あみだ電線、泣いている子どもがいて、どこか、通過する自動車のライトが、泣き声が、薄暗さとその言い表し難さを更に立体化し脳裏に固着させた。ママ、どこ?泣き声すすり続き、その度ごとに艶や艶やした夜が何枚も何枚も覆いかぶさってきた。

 もう少しで家に着く。そのちょっと手前の交差点の信号待ちで見知らぬ男に声をかけられた。

 本当に全く見も知らない人間だったが、身なり声色から人に危害を加えるような人間でないことは直感的に察知できた。此方もどうしたらいいのか分からなくているのにちょうど煙草が切れたところで、相手もどうしたらいいか分からぬ様子で此方の顔をのぞき込んでいる。
「ファンなんです」

 僕が最後に小説を出版したのは四年前の秋だ。二年間かけて仕上げた作品、妻に先立たれた男が悲しもうにも悲しめなくて、人生をほったらかして有り金で目的もなくハワイに飛び、現地での一期一会に「思い出し行動」を余儀なくされ、偶然(強制的と言おうか)にもホノルルマラソンに出場し三日間かけて完走する、タイトルを「スモーキング・ランナーズ・ハイ」、展開が少し滑稽で、彼女が風習喜劇を強請ったので極力シリアスな描写を欠き、当時流行の箱型の作壇に対して風刺的なナラティブを持続させた締まりのない紀行劇である。

 主人公の履いているスニーカーはノーブランドの何の特徴もないスカイブルーだった。目の前にいる彼も同色のどこのメーカーか見当もつかないデザインのスニーカーを履いていて、彼のオリーブの表情からも何ひとつ読み取れなかった。こちらが手持無沙汰で信号機ばかり待っていると彼は和やかな口調で世間話の距離で話し始めた。
「先生は小説家、小説家でしょう?」
「ええ。そうです、現在は何とも言えない身の上ですが」
「僕はファンなんです。まさか先生にお会いするとは思わなかったです。ここは道端ですよね。僕はファンなんですが、そういうファンなんです」
「そういうファン?ありがたい話ですが僕はそこまで有名な作家ではなくて、サインペンなんて持ち歩いていませんよ。」
「もちろんですとも」

鼻を掻いた。なんともかんとも信号機の誤作動による交通事故にでも遭ったようで、
「僕はアメリカの大学で『ファン心理学』を専攻しておりました。ご迷惑をお掛けするようなことは決してございません。僕はファンと云っても『ファン』を知り尽くしたファンですから」

 信号が変わり、横断歩道が両側から芋を洗う、無性に煙草が吸いたくて、午前中の電話にしろこの男にしろ、彼女の鼻歌気まま散策の行方や、呼吸の着地点が何処なのか全く分からなくて、
「今日は新聞代を納めないといけなくて、そろそろ、たいへん失礼だけど、」
「それも何とかしましょう。その為の、そういった時の専門のファンがいます」

 何処かしらに誰かしらの何かしらのファンがいる。僕はAさんの卵焼きのファンだった。食べる、美味しいと言う、ブツクサ言いながら洗い物をする、そういう役割のファンだ。
「『ファン心理学』とは最近のお話でしょうか?つまり新聞をあまり読まないもので。」
「先生、お忙しいところ申し訳ありませんが、込み入った話はまた機会があれば、こちらも忙殺されて今やっと一息吐けたところで、これからまた仕事なんです」
「ご職業は?いえ、良いスニーカーですね。」

 幾つか歩道の青信号をやり過ごしてしまっていたが、正体不明のこの男に暇をつぶす興味を失い、僕のファンではないことも渋々了解しながらも癖になった独り言のような相談を試みた。
「払う覚えのない新聞代を払うのに貴方でしたらどう遣り過ごすのでしょう?」
「右に行って左に行きますね」

 ふむ、飲み込む前に腑に落ちたのは相手は僕に、前髪を摘まんで、これっぽっちも興味がないってことだ。腹は減るのに何も食べたくなくて、まったく興味が無い訳ではないが、どちらでもいい、たぶん結論は変わらないので急ぐ必要もないキチンと順路の整備された仄かな好奇心のようなものだ。

 夏のアイスクリームは溶けてもまた明日それに似たものを買って食べればいい。こちらの事情もあるがこの男にも何かしらの思惑があって、僕の予定と彼のスケジュールが互いに渋滞するのを損益とも慮り、
「お忙しいところ申し訳ありませんでした。」
「いえいえ」
「最近この辺りで他の僕のファンにお逢いしませんでしたか?」
「この仕事なら致し方ないでしょう。もちろん逢っていますよ」
「女性でしたか?」
「ええ。空港へ向かう途中、だそうでした」
「すみませんが此方は名刺なんて物を持っていないんです。」
「それは僕もです。『ファンの交通整理』なんて肩書きは、沸騰しているファンに対して交通を整理しきれていないことを露呈してしまうようなものですから」
「お名前をお聞きしてもいいですか?」
「気にしないでください。こちらはただの『ファン』なんですから」

 男はこちらに一礼して颯爽とアスファルトを蹴り出して去ってしまった。影だけがするりするりと夕暮れ薄明りの人疎らを撫でながら擦り抜けていくように、僕は煙草を噛みたくて仕方なくて、彼の逢ったその僕のファンだという女性が、もしかしたら僕と二度目の結婚式を挙げたがっているかもしれない、三年も経てば沸騰状態とまではいかないかもしれないけれど。

 自動販売機のコーラは喉から目をすこしだけヒリヒリさせる、汗を掻くのに遠くのビル窓が灯るのを、どこかに潜んでいる快楽的な欲求衝動を探しながら、何事もなく過ぎた三年間を距離にして、彼女の笑顔を追いかけて昼夜に睡眠を共有したことを省みた。

 眠っているはずのその誰かは日の沈んだスクランブル交差点の真ん中で、僕と同じように視点が定まらないまま、毎日の毎朝が繰り返されるのを怯えて蹲っているのかもしれない。彼女への恋慕が熱狂的にというに、季節にかかわらず、僕の体温は雨に抵抗する微熱のまま変わることはなかった。

 途中の自販機でハイライトを手に入れた。アパートのエントランスでは僕の郵便受けから封筒が飛び出している。

 僕はあまり物事を順序よく正確に言い表せる方ではないのだが、それは入り切らなかった、というよりも、一旦入った物が飛び出している、理論実験の失敗を証明しようと試みる幾何巡回記述に似通っていた。階段を上りながら彼女がベロを出して目を瞑る、以前よく見た光景に僕は一瞬立ち止まり、数回まばたきをすると瞼の上の彼女はすでに飛び去っていた。

 今朝の電話の主はもう来たのだろうか。そして呼び鈴を数回押し、約束も守れない、と帰ったのだろうか。そもそも可笑しな話で誰が誰なのか話の筋が掴めない。電灯に戯れる小さな命たちが羽音を重なり合わせて、ポケットの中から鍵束、以前のキスを数えるのに奥歯のアイスの残り香、階段がぐにゃりと曲がり滑っていく。

 僕はポストに受け取ったその紙包みの得体の知れなさから、明治維新の肖像の「たましい吸い取り機」のように、政治的神秘と興行的ホラーの間をきりきり舞いの理性で足元に歯噛みついて何とかやっと自分の部屋に辿り着いた。

 壊れそうな音のするエアコン、こわれた椅子がいつの間にか眠り覚めない君と同じ、地繋がりに僕の心的外傷と見分けがつかず、バラバラになった大切な物へ具もされていく。

 封筒をつかむと、その中身は何かの鋭く平板なプラスチック製のぺろんとした板のようだった。宛名もなく切手も消印もない。小さな赤い字で差出人の欄にアルファベット、「POOL」、、、




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