第18話 物事を組み立てるに最低限のこと

文字数 3,479文字

   建築学概論と月とコンパスのはなし


 地図が完成を極めた前世紀の話だ。ガリレオが捕まりコロンブスのアメリカ大陸発見がその四世紀前、さらにマルコ・ポーロ探険がその三世紀、そして星のつながりに名前が付けられたのが更に二十二世紀前のこととなる。

 僕はこだわりも趣味執着のない学生で、学食の具のないカレーライスに福神漬けをたっぷり乗せてかきこむ。成績は中の上くらいだったし、ピタゴラス教徒のように戒律を強いられてはいないが、生活費の計算に必要最低限の生活を間に合わせた。そして腹が減るときは減った。

 授業をこっそり抜け出し煙草ふかし、何か世間にざわめき立ったことはないか、大学月報に目を通しては毎月変わる数学のお題に小遣い稼ぎでもと、齧りかけのチョコをポケット、寝ぐせを手でぐるりと、更に掻き乱しては数式を解いた。

 月への運賃、アポロ計画も終了し、地図や青色の地球儀が街頭で値札を付けられている、キャンパス出てすぐの商店街には軒並み赤と白と黄色のデザインが目立ち、おづおづ色褪せていくうちに僕は大学を出た。すぐ東京へ、天文クラブのある大学院に移り独自研究課題に思いを馳せる。数学に新たな分野を探し、その国の若き反逆者、色んな国に色んなガロアが居たが、この国の数学文術には前人未到の領域があった。

 革命的な移動手段で飛び越えるのに、自分一人のフィールド四角四面には他に誰も立ち入らせず、強欲に腹がすけば黙々と数学を解き、自分にしか分からない奇抜な論述文を書いて、空に、星に、未来にして明日に、自分の居場所を探して歩いた。

 革新的なアポリアの投影方法、その第一人者として自分が名を載せることを過激派少年よろしくベロ出して、日がなサイエンス雑誌を喫茶店で広げた。ジャズやカントリー、砂糖をペロリ舐めて、眉間やテーブルを指で打ち、珈琲零すと慌てて袖を捲ったギャルソンがやって来てナプキンと溜息を置いて去る。態とらしい舌打ちや面倒くさがり、店長に告げ口し、自分が外に連れて行く、と言って僕の腕を引っ張った。

 外の植木の陰でふたり笑い声と煙草の煙を噛み殺して談笑をする。日本人は真面目が過ぎる、などと冗談を言っては腹を抱えた。ノストラダムスのお祭り騒ぎにもカレンダーを数えて目耳にも、予言だろうか世界だろうか、何方が滅びゆくのか、いつかこのことを懐かしく話そう、街の喧騒の陰でこっそり、お店のレコードを無断で何枚も拝借した。

 こいつとはプライベートでも他のコーヒーショップにて文学を語り合い、腹が痛くなるくらいおかわりを注文した。馬が合うのも彼が孤児ゆえの自由な気質にあったのかもしれない。

 群論述の話をすれば樋口奈津が幻の中に早逝し、耳に周回する世間話から人工衛星、ロバート・ジョンソンの四つ辻伝説と宇宙船、発展途上の民主主義から電子書簡が何度もシルクロードを往復し、珈琲の銘柄で揉めればビリヤードで決める。女の話をしても好みのタイプの髪型が若干違うだけだった。

 冗談は施設の「世渡りのカリキュラム」で教わった、ときどき悪い咳をして「もうすぐ死ぬ奴の言うことを聞いてくれ」と満面に笑うので、約束通り遺骨とテレビゲーム、煙草と新品のライターを海に撒いた。

 冬、21世紀の眠いうちに、薄着でズボンのポケットに手を突っ込んで飲み屋街をふらり出歩けば、名もない話にこの不二の友人の生い立ちを付け加えたりもした。アパートにすきま風、酒の空き瓶は揺られ転がり、まんべんなく残った水滴を蒸発させよう、グラスに唐風吹けば昨夜の出費を強がって、毎日毎日こりもせず朝が陽光を瞼に流し込んでくれた。毎日毎日浴びるように酒を呑んだ。頼まれもせず呑んで、年の暮れも年の明けも境目がわからないくらいだった。


 実はこの頃、僕と彼女は一度会っていた。そしてその年の夏、もう一度、彼女と出会った。


 大学院の授業に出ると受講生が少ないせいか、講師に依っては必ずチャイムが鳴るまで、大方当然だとお思いだろうが、僕の学生生活では至極珍しいことであった。酷く不自由で、黒板消しが憎く、トイレに逃げ込み、まるで範を模せない囚人にでもなったような気分だった。
 しても抑圧の冬から春の開放的な充足した気分で酒も美味くなるし、学生風情が汗にせずこの程度の酔い加減で悦に入るのに研究室の空調は快適なものだった。缶ビールはあまり好きな方ではなかったが、微温い安ワインをスキットル、バッグに持ち歩くよりは手ぶら身軽な夜を満喫できた。
 
 或る朝、通学に草食って求人広告板を見て、驚いて立ち止まった。「月へ行きたくはないか?」というキャッチコピー、その頃日に日に新しく、月と問われれば地理情報システムや特殊相対性理論、燃料問題とアクチノイド、理科年表は半分しか記憶しないようにしておこう、月も磁石には違いない、磁石の真ん中を紐で吊り上げて、さあどちらへ、民主主義と社会主義のせめぎあい、北や南や忙しく、手を離せば虚空へ消える、その人類前途のスローガンは左もありぞなし桃源郷の入り口の立て看板に思えた。アームストロングはドアをノックして、それが自分の耳に差し障りなく聞こえたのである。巨大な生命維持装置は文化繁栄の煽りを喰らい、よその星、よその飯、よその呼吸器官を間借りするのに、僕はヒューストンに憧れ、借り物の天体望遠鏡も、学食のスプーンも何もかも自分の物ではないことを、はかない夢を自白理明とぬるい白湯を呑んだ。

 帰り道、何の求人だったのか気になり、看板確認せんとしたが、同じ広告の前で連絡先をメモ書きしている女の子がいたので遠目にやり過ごして遠回りして家に着いた。「月へ」「行きたくはないか」部屋の天井にぶら下がった電球が照らすのは衣類の散らかった床、学生時代の僕と云えば休日はカーテンも閉めず眠りながらに日焼けをし、午睡の以上をこなし、夕焼けのなか毛布に顎をくすぐられ、寝ぐせを直すのに歯磨きをしながら絞ったタオルを頭に巻いた。

 靴を履いて部屋にカギをかける頃、月が満ちて、万葉集から取らずも現代の交通に肺を痛め騒音に呻き、さめざめと昨夜を振り返っては酌み交わしたさかづきの傾きに、とおく月面、光の入射角度と照度に依って映される綿密な歌ごころ、こんにち恋のやまひに死に転ぶのは中学生くらいのもんだが、アドバルーンが浮いていると思わず縋り付きたくなる自分も変わらず、それを水面に写った月詠みに移し替えたようなものだった。

 そしてノスタルジアの先々で距離や時間や速度をバランスよく摂取した。月は見えるものでは一番大きな星だった。そして1500年後の今でもそうだった。

 その頃、受講した講義では他の学科の学生のみならず他大学の生徒も数人紛れ込んで聴講していた。特別講師は授業が終わると出席も取らずに教室を出るが、その日は違って一学生のレポートを読み上げた。終業のチャイムが鳴り終わるか、消しゴムをポイっ、僕が筆箱を鞄に放り込んだ時だった。


 このレポートには、誰、誰が書いたのか名前がないが、アウトフォーカスの、いずれの外地栽培に必要な項目が十段回に書かれている、

 一つは(crop)酸化化合物及び二酸化炭素の効率的な継続培養、
二、(balance)仮に建設的な人木効率、人口に瞠目する社会人類学の利発展的な行動。
三、(sentimental)非科学的人文土壌の継続生産、
四つ目に(news)情報としての都市の質量計測、
五、(route)交通及び貿易路の遷外的な確保、
六、(ground)エネルギーに依る各単性mの相互引力、
七つ、(strontium)時刻的生活に関する大時計と小時計の関数調律、
八、(circle)恒星を央点に敷く環状経路、
九つ、(shadow)認識としての互換対象として数滅を辿り誤認に従っての模倣開始地点の約束、
十、(potential blank)経過充分な空疎としての余白

どうだろう?月への移住者は誰だろう?
                                            」

 先生は白髪頭を、学生はドアノブを捻った。レポート提出者は狐狸の穴ぐらから出てこない。已然と姿を見せない。学食では食品サンプルに値札が添えてあって、腹のすき具合と財布のからっ風が、足して割ってもどうやら同じ計算の繰り返しになる。

 喫煙所でオレンジジュースを三十分かけて飲んだ。小銭はポケットに、昼間しらみ空に十六夜が必要な部分だけ、先ほどのレポートぽっかり浮かべて、僕から誰かを、運命的な同胞を隠しこんでいた。




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