第6話 来客が入り口の分からない話をする

文字数 2,564文字

 玄関から何も音がしない。物音だけ盗人に盗まれたようにドアノブだけが佇んでいる。窓外のスズメばかりが口忙しく、約束の時間も過ぎたのに、編集やら何やらは腕時計の見せかけに、未だ足音近づかせず、ドアにはドアノブがぶら下がっている。

 珈琲を沸かし過ぎたな、二人分と冷めたもう一人分のモカを持て余し、シュガーポッドの蓋を開け、閉めるとパタパタ通路を走る靴音が聞こえ、すかさず玄関のベルが鳴る。
 ぼわーんと雲と一緒に穏やかにうろこ状に広がり、眼下の人疎らもこれから来る活気に次第に慣れてきているようだった。一陣の波に貝殻がわめく、季節の境界と言えば違いなく、水無月にどちらからともなく、玄関のドアを開ける。今日は前の通りで祇園があったな、面と向かうに気まずさより賑わう雨上がりの興味が勝ちまさった。

「先生、何で教えてくれなかったんですか?。今し方、下で奥さんに会いましたよ。先生が新しい長編を書き上げたって、お祝いにワインを買ってくるそう、私も誘われましたがお邪魔かと、お断りさせて頂きました。」

 耳が痒い。一言一こと長いし続けざまに無闇鉄砲に喋る。祇園の新宿には阿呆踊りの上手な輩、束の間の鈴鳴りの涼しさに頭がやられたか、この編集青年の仕事ぶりは日頃あまり褒められたものでもないが、こちらの事情を知って冗談を言う邪見もない。遅刻の言い訳だろうか、
「退院はいつだったんですか?」

 昨夜のウイスキー、流し台にグラス、底には溶けた氷の一滴と、こびり剥がれた仄かな香り、手のひらで空っぽのボトルを味わう夢のつづき、朝起きて、唐突にカルーセルとマネージュの交通事故に遭遇し、通行止めに、横断歩道に、信号機に、ビルディングに、空に、太陽に、スリッパに、手土産に、風がとりとめなく吹き散らして、もう、外がやたら騒がしくて、何て言ったらいいかわからないよ。

 赤くなる目を見られたくなくて、咳をひとつ作ってソファと沸かしたての珈琲に誘導した。彼は湿気で革がピカピカした鞄から紙袋を徐ろに取り出す。さっき下で奥さんにもらったんです、照れを隠して鼻を撫でる。
 よく通っていた駅前のパン屋のロゴが入っていて、確かに彼女はその店のパンを好んで食べていた。パンを焼いている人物もこねている人物も知り合いで、レジ打ちの可愛い子ちゃんに気持ちの浮つき脛を蹴られる時もあった。

 開店からしばらく通っていたが今はその店がどんな紙袋でパンを包んでいるのか、知らないし、店名が頭に浮かんでくることも全くなかった。しかしいま疑うのはもっと前に垣間みた話、彼女に会った、とか、長編小説を書き上げたやら、臆病がさらに臆病で病院に電話で確認も、どんな格好で、財布は、行先は、この案件をもっと根深く真偽を、鼻先を爪で引っ掻いて、踏み込む勇気がなく話題を逸らそうとした。

「いつか君に話した、文理、文論、理々、句術の扱い方は頭に入っているね?」
「ええ。先生のことわる『局地天体的なユートピア』の建築方法ですね」
僕よりも周りの人間の方がよほど文資があるのではないか、群論述なんて馬鹿げた冠を被っていた自分を少し身のただし、今そのへんを散歩している彼女に見合う服装にならなくてはならない。
 次の一句は大切で、窓外のアドバルーン、けむりの重量を風に任せて、はて、彼は先ほど、誰に会ってパンを貰ったのか、それは必ず会ったのだろうし、彼が浮かれ気分なのも僕の勝手知らぬ隠し事を喜んでのことだろう、
「雨はどうだった?」
「地下鉄の駅から出てすぐに、すっかり上がりましたよ。タイミングが良かったです」

 彼が彼女に会ったのは雨が上がった後。僕がビールを呑み終えて、置き去りの空き缶、長い沈黙と煙草一本、晴れ間が差してきて、ベランダの月下美人に話しかけている白昼夢の最中のことだった。




   パンのはなし


 二人暮らしを始めた頃に彼女はホームベーカリーを買ってきて、不慣れなものだから三回パンを焦がしてそのまま壊して棄てた。ちょうど駅前にチェーン店の新しいパン屋が出来たので自ずとそちらに毎朝の散歩を、途ちゅう犬の散歩や酔っぱらいの千鳥足、とうふ屋が湯気を立てて、シャツにアイロン掛けなきゃね、話をしているうちにハイカラに彩られた看板が見えた。
 無論芳しい香りや、出入りの激しいエントランス、もう少し歩けばそこまで、といういつもの所で彼女はしゃがみ込み、いつもバス停前にいる首輪に鈴を付けた猫にポケットの中からビスケットを差し出した。
そしてその猫はお菓子を口に咥えて去ってしまうが、かならず礼を言うように一度立ち止まりこちらを見る。「おはようだねー。今日もおしゃれな模様だねえー」彼女は部屋着のヨレヨレのTシャツを口にかぶせ、ぶー、くちびるを鳴らす。その猫は驚いて逃げてしまうくせに、次の朝もその次の朝もその場所に佇んでいた。

 腹の音におまけの散歩、この後、彼女が風邪を引いて家で寝ていて、日課にひとり、忘れないように、と缶箱から茶菓子を渡され、財布を預かり、いつもより軽装で部屋を出た。歩道の右側が淋しくて口笛でやり過ごしながら歩いていたんだそしたら、わあ、って、どうしたの、あの猫の周りに可愛い仔猫達が、いつもの、恩返しに仔猫達を見せに来てくれた。うん、声掛けたんだ。お母さん猫さんだったんだね、パンの匂いが鼻を掠めたが、その時は腹の音どころでなく、あまりにも愛らしい仔猫達にポケットの中で割れたビスケットの欠片を貢ぐのに夢中だった。ふふ、おや、って、例の親猫が僕の手首に自分の後頭部をくぐらせ、マーキングだよ、どうやら猫の身体には匂いの強く出る箇所があるらしく、そうなの、それがその場所だろうと踏んでつまもうとしたが、ちょっとするとそのまますり抜けて仔猫達を連れていつもの小径の鉄柵を抜けて去っていった、そう、またね、って。

 ふふふ、それで、なんだか嬉しくなって鼻唄がオクターブ高くなった。後ろ手組んで空見上げ、気がつくと家の前、彼女にさっきの話をしたら元気が出るかな、急いで階段を登りドアを開け枕元に近づき、年甲斐もなくはしゃいで一息に話をしたら、彼女は笑って、大笑いして尋ねた「うん。パンは?」。

 昨日買った歯磨き粉はイチゴ味だったが何の言い訳にもならなかった。腹の音も上手下手で二人とも上手な方だった。




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