第21話 カルガモに当然のパラドックス

文字数 2,650文字

 君が今この部屋にいない。空がぽっかり青いのは白や黒の鳥が色を奪い合い、その残った食べかすが流動するからだ。海がしずんで青いのは魚が鱗を光らせ色を七つ以上ごちゃまぜにするから。
 君のいないこの部屋は時刻の変わらず、僕はなんにも手につかず、三歳の虚脱こそ茶飯事睡眠で文章のむすび、朝一番の寝惚け言い訳、思い出し笑いばかりが得意になってしまった。

 素数nと虚数i、畳語法、フィボナッチ数列の円縮、毎日のご飯、駄文のつれづれなさに喉が、美味しいはずの夕餉、通りづらくお茶漬け、小銭てのひらで数え近所を散歩するのに人目ばかり気にして喫煙、ぷかぷか歩くのに、空に衛星は月だけだと想うだろうか、カレンダーの嘘はこれからもぶら下がり続け、長い道のりをゆくソウルボート、それは漕ぎ手ばかりあぶれてしまう、迷い着く先々に航路の幾何図式的解明と人類的孤独を待たされる。

 人類はそうであるものとそうでないものを分けすぎる志向が過分なのだ、バビロンは崩壊し、「月へ行きたくはないか」、地面に興味はさらばえてしまった。月の裏側には先住民たちの墓標が夥しく、仮想の風に吹き荒さばれて、張りぼての完全不在証明の後押しにもう僕は引き下がれなくなった。

 「パリへ行こうその前に」パンの香りもコーヒーの胸焼けも、彼女は何処にいて何処から僕をティータイムごと待っているのか。時計は午前9時を回った、散歩の前に病院に電話をかける。03-5884-97xx。

 「もしもし」予想をしていたよりもいくぶん高い、空気の抜けキリキリしたようなラッパ声が聞こえてきた。しかも遠く振動ばかり細かくて、中継アンテナが多いのか少ないのか分からない声の割れ方だった。

 アニメ会社で作ったような声音で「おひさしぶりでございます」ふむ、コチラの返答の間に合わず沈黙と誤解され「失礼ですが今晩、NEWS・PAPERの代金の請求に伺ってもいいですか?」新聞に用事といえばあるわけでもなしないわけでもなし、
「いいですが、どちらの新聞屋さんで?」
「お世話様です『カルガモ新聞』です」
ほほう、カルガモ、カルガモが親ガモか子ガモか判らない。
「どちらガモですか?」
「それが気付いたらカモだったので何とも言えません。すみません」

 動物に拠りけり刷り込み作用のある、元来の生態目的がはっきりすればその請求先が間違っていることも説明出来るようになる筈、「あなたに雇い主はいますか?」「勿論、こちらは子ガモです」、ふむ、子会社は?「勿論あります」、こちらに支払いする其の義務というか権利というか、他所の誰かの夢に潜ったような気がしたので手短かに素通りして陸に上がろうとした「鴨南蛮はお好きですか?」
「怖いです。あなたバカですか。新聞代の請求に伺うのに命がけなんて、無いものを強請るなんて肌が総毛立ってしまいます」
今日は化け物に鼻を摘ままれてもしょうがないような気もするし「新聞代はいくらでしょう」魚勘定焼きサバ定食で「おいくらなら払えます?」、うん、腕を組んでしまった。

 混線に文句も言えないし、実は病院受付に電話を掛けた、仕切り直して掛け直すのにそれで解決するものでもない。そう半ば面倒くさがって
「どちらに請求をしていますか?」
「あなたです。繋がり次第の引っ越し請求です」、
聞いたことないな「六年前から住んでますが」
「三年前からのその分の請求です。金額も今のところはだいたいその通りになっています」、
知り得ない情報が一度に外側だけ入ってきた。本当にそのタブロイドは名前も知らない。
「請求先をお間違いでしょうか?」
水の跳ねる音が聞こえる、「けっこうです。勝手に伺います」怒った口調に、
「留守かも知れませんが」こちらも玄関惑いの達し剥きになり
「これは夢だ。そうでしょう、僕は病院に電話をしているのです、冗談なら気を利かせてください」
慌てた口調で「いえいえ、この声のせいでそう聞こえるのです。セールスをしている訳でもノルマがある訳でもありません」
じゃあ何?
「私は仕事として、依頼人の夢を叶えようとしているのです」、声の上ずり方から感情的になっているな「どうして?」、何かを飲み込む音「(依頼)されたからです」鼓膜に新しくて冗談にも聞こえないしもうこの状況が今朝の事なのかも疑わしい、「依頼人の名前は?鴨南蛮支店さん」少し間をおいて「ク、ク、クウ、失礼ですよ。失礼この上ない。親ガモだか子ガモだかなんて、その質問がもう失礼ですクウ」

 向こう側では受話器が投げ捨てられた。聞こえてくる環境音からそこが公園かその近所であることが類推される、夏休み前、平日この時刻子どもが公園で遊んでいるわけもなく、よもや親御さんがそれを一時の甘やかしで冗談を冗談足らしめている、その理由も暗中の侭、さて、何処の誰と繋がったのか、僕は病院へ、実は電話よりも徒歩で近いし早いし、よくわからないことが最近多くて、正常な呼吸がニコチンを以って為され、つかの間に空を飛び池に浸かるよりも、溜息が本来の風速を遠い国のゾウにばかり、鼻先に自慢するようなものだった。

 (さっきまでカルガモが住んでいた部屋)、そのくらい腑然としない空想が手近で、投げやりで、左手の腕時計を持ち上げるのさえめんどくさかった。

 自分さえソファにじっとしていさえすれば世の中は勝手に流れ、泡往き、生産され、再生産され、冬には赤道にあこがれ、その半年後、シャボン玉に閉じ込められた雲が何故かやってくる、午後を待ち、目薬の買い置きが見当たらず、モノクロームの融解したコーヒーカップの表面に口付けす、完全に冷め切った仮説の夥しい経過報告のあと、くちびると舌の触覚だけがそれを判別し、次第に苦く、鼻にミルクをつけて、飲み込むのに灰皿を左手で探した。

 恨み言は洩れなくひとり言であるべきだった。先の思い付きは失策、携帯電話を半乾きの台布巾で念入りに洗浄した。絵空事を描くのに必要な色鉛筆は幼年時に手に取った薄緑色のプレゼントだった。箱の中身もだいたい皆同じような色で、答えが出ないのに学校の先生や両親に叱られる心配のない類いの不理解だった。

 『カルガモ新聞』だかサバ煮の缶だか知らないが、三年どころか三十年経っても解けない難題は、逆にこの三年を明白に鮮明に思い出す必要性を提示した。「想像力の暴力的巨人化」ツァラトゥストラ彼かくかたりき、散歩の出鼻を嘴でくじかれる。

 項垂れて窓の外のコンクレート音楽を耳にたゆらせたまま、何するでもなく欠伸に頼って退屈していた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み