第47話 お金の掛からない話し相手

文字数 2,078文字

 C.A.が毛布を持ってきてくれた。確かに冷房が効きすぎている、時刻はもう判らない。周りは皆眠っていて退屈しのぎに彼女に話しかける。

 航路の話と燃料補給地、機内食への賛辞と僕が旅に出る理由、「貴女だけスカーフの色が違うんですね」然も当然と言わんばかりに「ええ」微笑んで、頭痛止めに錠剤を頂こうか「わかりました」頭痛に合わせ耳鳴りが酷いので、「『原因』不明の疲れのようなどうしようもない吐き気が止まらないんですが、少し、ちょっとだけお話ししませんか?」周囲を見渡して「ええ。分かりました。処方しましょう」毛布が顎に気持ちよくて鼻をスルスルすする。

 何時間、彼女と会話をしてどのくらいの移動距離だったのか、パイロットは顔を見せないし紅茶やおやつも出てこない。特に構いやしなかったが彼女は飽きもせず僕の話に耳を貸してくれた。

 病院で一人眠っている伴侶のこと、その彼女が異国で僕を待っていること、結婚式の雨、ベランダで転がっている椅子の形をしたメッセージ、彼女がどこか散歩をしていて僕は部屋から出られなかった暫くの間、一人きりの朝食、近所の女の子の初恋、義理の両親が夫婦喧嘩をしなくなり、彼女が行く先に僕が追い付いて行く、僕は思い出し笑いが得意な作家で、たった今、君は航空会社の給金以上の仕事をこなしていること。

「僕の話には脈絡や取り止めがなくて君にはさぞ退屈でしょう」
「パイロットが三人いてそれぞれ別の食事をしてそれぞれ別の食後の感想を言うのに興味があったりしていたものですから。聞いたことはないのですけれど」
「そのうちの一人は君に恋を慕っていたりはするのかい?」
「一度目のデートで辟易しました。一緒に食事をした気になれなくて」
「興味ぐらいは持ってもいいが、深入りは怪我でもしたのかい?」
「いえ。職業柄、板に付いたデートでした。着陸も無論、離陸もしませんでしたけど」
僕は笑って泡の抜けた少し、残りのビールで喉を酔わせた。彼女がスカーフを直しふと、首のほくろに気が付いた。
「チャーミングですね。さぞモテるでしょう。」
「いえ。最近できたんです。鏡を見たら何だろう、って気付いて」
「気になるね。美容外科医に知り合いはいないし何かしらの遺伝的なものかもしれない」
「それは深入りです」
「僕の(計画)の話に戻ろう。少なくとも僕が関与しているだろう誰かの企みの話だけど」
「この(飛行機)は順調にフライトしています」
「どこまで話したろう」
「ただいま地中海上空を通過中です」

 上下の噛み合わせが悪くて少し遠慮気味に、彼女に気を遣って、急ぎすぎた話をテンポ・ルバート(拍子調整)する。

 僕の奥さんは料理があまり上手くなくて、あくびが得意で、気が付くと独り言、朝フライパン叩いて起こすなんてテレビでしか見たことなかったし、笑うと、僕が風邪を引いて起き上がれなくたって、友人に貸したお金が返ってこなかったり、フフって、せっかく書いた原稿が通り雨にズブ濡れたり、落雷で電車に缶詰にされ、小説がこけて酷評された時も、ご飯のおかずが沢庵だけだったり、彼女が笑うと、猫背は猫背のままだけど、ふらふら歩いたって元々の靴のサイズ違いだったり、自棄の深酒もぜんぶ胃が悪いせいにして、彼女が笑うから、僕は幾重にも折り重なった深遠なオーロラのような人生を、一点の目的地に向かって進んでこれたんだ。君はもう十分だろうこの話。

 窓が抜天蒼山から白濁した雲海に潜った。アナウンスに気を取られることなく、アルコール回り重力に吸い取られるように眠くなった。羊の群れに紛れるように、煙草を吸いたいが目覚めてからでいい、牧羊犬は牧場主に従い、起こされるのは久しぶりだ、日時計は地軸に忠実で、毛布がいつの間にかなくなっている、航路に服従するしかない航空券の融通と、バカンスは向こうから音とともにやって来た、牧柵の手前立ち止まって、まぶた金色の野原にカンカン音が鳴る、とそれは空港での飛行機の整備音だった。

 乗客は皆カバンを抱えスムーズに道を開けてくれる、長旅が二倍だったぶん旅費がかさんだなんてこともなかったが、待ち人待たれ人の人波に振り返り電光掲示板下を闊歩する、迎えのない僕はほんのちょっと損をして貧乏になったような気もした。

 ゆるやかな陽気に偏西風たゆたい、青空がまぶたを優しく突いて、喫煙所ではピントの合わない写真の、同じようなその内の一人になれた気がして、身軽で、煙吐いて、吸い込んで、臆病だったタバコも幾年か振りに肺に深く美味しく染み入った。

 ロビーをトランク引いてうろうろしていると見た顔に行き当たった。不躾けに「ごきげんは?マドモワゼル」出口を案内してもらい結局いま来た道を戻る羽目になった。
「あなたの予定はもう手帳にメモしてあるのでしょう?」
「してあるよ。ただ一枚だけ破けて、どこかへ行って見つからないページがあるんだ。」
「よく探してみてはどう?」
「いいや。覚えている。覚えてるんだ。聞くかい?」
「結構よ。さあ、ここがバスロータリー、タクシー乗り場よ。どうぞ」
「ありがとう、親切な人」
「フフ、良い旅を」




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み