下足番・出現・消失

文字数 4,826文字

景があの時維にどやしつけられて、廊下を急ぎ玄関に出ると、上がり框の隅に誰かが腰を下ろしていた。
廊下に響く足音を聞き付けて立ち上がり、景の方を見る顔は維と同じくらいの年齢に見える。男はどうやら下足番らしかった。

「松岡組さん、お二人様だね」

男は景の顔を見ただけでそう言うと、立ち上がって玄関脇に小さく設えられた棚の前に向かう。「今夜の首尾はどうだった。いい目を拾えたかい」と愛想を言いながら棚を目で探り、しばらくすると維と景の靴を出して沓脱ぎに並べ、いい造作だと言って景の靴を褒めた。熟練の下足番は札を使いもせず全ての客を覚え、帰りには顔を見ただけで間違うことなく靴を出してくれるという維の話を景は信じられずにいたが、どうやら本当のことらしい。
博奕の出来を尋ねられたらしいことはわかったが、肝心の盆茣蓙には一歩も近づけなかった景には答えようもない。それよりも維が掴みかかったあの男をどうするつもりなのか気にかかる。ふと下足番が廊下の奥を覗き込んで景に尋ねた。

「維は? まだ引き揚げないのか」
「あの、とりあえず俺だけです。正面まで車回してこいって、兄貴が」

維の名前を知っているということは、知り合いなのだろう。急いで靴を履いた景が外へ出ようとすると、下足番の男はふらりと引き戸の前に立ち行手を塞いだ。

「よせよせ。もうすぐここは人と車で一杯になる。車回しても身動き取れなくなるだけだ。それより今すぐこれ持って座敷に戻れ。維と一緒に裏口から出て駐車場に行った方が良さそうだ」

男はそう言って維の靴を手に取ると、景の胸元に押しつけて持たせた。景は妙なことを言う人だと訝る。こんな夜中にどうして渋滞するのだろう。それも真夜中の温泉街で、車の出入りがある時間帯でもない。戸惑う景を見た下足番は苛立ちを堪えるように声を潜めた。

「手入れだよ。今夜の盆が警察に漏れたらしい」

表情が強張った景を安心させようとしたのか、下足番の男は穏やかな声で、あぁ、ここは変わってないなとつぶやいて室内を見回した。それから薄暗く冷えた廊下の奥を指差して、こっちへ行くと本館に繋がる渡り廊下がある。そこから枝分かれした細い廊下の先に茶室があるから、そこへ向かえと言った。

「もうすぐみんな玄関に殺到するから、今のうちに行きな。躙口から庭へ出るんだ」
「あの、ニジリグチって何ですか」
「小さく作られた茶室の出入り口のことだよ。庭に出たら壁伝いに行くと勝手口に出られる。ボイラー室の脇に、源泉から湯を引いてくるパイプがあるから、それを辿って行けば観光案内所の裏手に出られる。維を連れてそこまで行けばどうにかなるだろう」

そう言ってから、ふと扉の向こうの気配に耳を向けた下足番が声を荒くする。

「車両が着きそうだ。急げ。土足でいい。行って中にいる奴らにも知らせろ」
「でも」
「いいから行け。行って『サツが来てるぞ』って大声出せばそれでいい」

そう言って男は扉の前から動こうとせず、顎で座敷の方を指して、そっちに向かえと指示をした。そこから先は維も見た通りの大混乱だ。



「名前、聞きませんでしたけど、維さんのこと知ってました。あの人、ちゃんと逃げられたのかな」
「………どんな………感じの奴…だった」
「年は維さんと同じくらいだと思いますよ」

運転しながら、景は玄関で会った男の容貌を思い出そうとする。
長めの髪を整髪料でまとめて撫でつけた頭に、ほとんど黒に見えるくらいの、色の濃いスーツを着た男は、景と同じくらいの身長だった。ということは維よりは少し背が低いのだろう。スーツに合わせるには珍しく色の濃いダークレッドのシャツを着て、そこに上着と同じくらいの濃さの黒っぽいネクタイ。街中で見かけたらそれなりに目立ちそうな格好でも、薄暗い玄関に馴染むように見えたのは、その男の場馴れした雰囲気に、景が呑まれていただけなのかもしれない。細面の尖って見えるような顎をしゃくって、景に座敷へ戻るように促した顔はどこか童顔で、そのくせ老獪さも感じさせる不思議な雰囲気の人だった。

「何ていうか、ちょっと派手な感じの人です。ダークスーツにカラーシャツ合わせたりしてて。思い当たる人いませんか?」

維は背を丸めて肩を上下させながら景の問いかけを聞いている。
考えているのか思い出しているのか、返事の代わりにぜいぜいと鳴る喘鳴だけが車内に満ちてゆく。

「維さん、薬ちゃんと吸えてます? もう一回使ってください」

景はダッシュボードに放り出されているステロイド剤を手に取り、維に渡そうとしたその手がふと止まった。軽い。薬剤の入った小さなボンベは、目視では残量が確認できない。慌てて耳元で上下に振ると残液があればするはずの、しゃらしゃらという小さな音もなく、ただ指先が空を切る。伸びてきた維の手が景の手にあったそれをもぎ取ってもう一度使うと、頼りない噴出音をたてたそれを後部座席へと投げ捨てた。……薬が切れたということは、もう時間稼ぎができない、ということだ。



車は灯りの消えたドラッグストアの横を通り抜けてゆく。夜中の3時にもし開店していたところで、処方箋もなしに手に入れることはできない薬だ。前屈みになって肩を上下させている維の体力が消耗し切ってしまう前に、夜間診療のできる病院へ行かなければ。嫌な汗が景の手のひらに浮いてくる。市街地を目指してアクセルを踏み込み、車は暗闇に白く浮かび上がる標識を次々に追い越してゆく。

「………みは?」
「えっ?」

不意に維が問いかけてくる。

「………下足番、………………どんな………髪」
「えっと、長めで。ワックスで固めたみたいな」
「…シャツ………  色は」
「何ていうか、赤っぽいんだけど、もっと暗くて。ワインレッド、っていうか。それより維さん、前川先生が出してくれた飲み薬、まだ残ってますよね。とりあえずそれ飲んでおきましょうよ。ステロイド剤ほどの即効性はないですけど、何もないよりマシですから」
「……ごに………くぼ………」
「えっ?」
「………顎に………エクボ………なかったか?」

まだ下足番のことを思い出そうとしてるのかと、景はほんの少し呆れて、それからあの薄暗い玄関でのことをもう一度思い出そうとした。そもそも盆は隠れて開帳しているのだから玄関に照明はなく、実際維と景が迎え入れられた時も、下足番は手にした懐中電灯を頼りにしていた。だがさっき景が会った男はそれも持たず、座敷の奥から漏れてくるわずかな灯りだけで靴を探し出して目の前に揃えてくれたのだ。そう考えると不思議な気もするが、とにかく薄暗く何が見えたかと言われてもあやふやで、明るい場所で見たらシャツの色さえ違っているかもしれない。しかも顎のエクボだなんて見えたとしても覚えていられないだろう。

「エクボはわかりません。 ………でも何か、甘い匂いがしました。男性が使う整髪料とかにしては珍しい感じのです」

ふと景はあの時、玄関に甘い匂いが漂っていたことを思い出した。誰かがどこかで焼菓子でも作っているのかと思うような、駿河屋でクリームコロッケを仕込む時にも似た、ミルクを煮詰めたような甘さを、ほんの僅かに感じたのだ。

「香水、っていうのとも違うかな……。花とか果物、っていうんじゃなくて。何て言うか懐かしい感じの匂いです。キャラメルみたいな」

キャラメル、という単語を聞いた途端、維が激しく咳込んだ。いくら吸い込んでも少ししか入ってこない空気を空咳に変えて、維の横隔膜が激しく震える。それを横で聞いている景は背筋を強ばらせた。この状態が続けば体力を奪われることを経験則として知っているからだ。
それなのによく見ると維は背を丸めて、肩をいからせながら呵呵大笑している。酸欠で赤みの失せた唇の端を吊り上げて、目尻に涙まで浮かべ、咳を織り交ぜながら身を揺らす。堪えきれないように噴き出す笑い声の合間に維が切れ切れの叫びを上げた。

あぁ、あぁ、兄貴。 来てくれたんですか。
景、お前、兄貴に、会ったのか。



振り絞る維の雄叫びと喘鳴を詰め込んだまま、車はどうにか市街地近くまで戻り、反対車線にはすっかり灯りの消えたドライブインの看板がそびえている。あそこで夕食を食べたのが、景にはもう何日も前のことのように感じられた。もう少し行けば自分の通っていた小学校、その近くにコンビニがあったはずだ。

「水買ってきますから、薬飲んでください」
「今、………どの辺」
「小学校の近くです」
「お前の………家は………」
「すぐ近くですよ。でも病院はもう少し先だから、まず薬飲まないと」

景は薄ぼんやりと闇に光るコンビニの看板に吸い寄せられて、荷台に大きくコンビニのロゴマークがプリントされた納品車の隣に車を停めた。運転席を降りて小走りに店舗へと向かう景の後ろ姿を、維はダッシュボードに寄りかかるように身を起こして見送ると、ゆっくりとドアを開けて外に出る。どんな薬にも副作用があることは分かっていたつもりだが、少し動いただけで心臓は破裂しそうな勢いで拍を打つ。使い過ぎるなと景が念を押していた理由はこれだろう。ボディに寄りかかり肚の底を凹ませて、絞り切るように思い切り息を吐き、吐き切ったところで腹筋を緩めると流れ込んでくる夜の冷気が、ひゅうぅと気道を鳴らして維の肺に流れ込む。鼓動はさらに勢いを増して身体の内側から胸を乱打するが、それでも維は最後に残ったもう一仕事を忘れてはいない。……景を、元の世界へ戻してやらなければ。
ポケットに手を突っ込めば、さっきまで盆で使っていたズクが二つ三つ指先に当たった。一万円札10枚で組まれたズクは、歪むことなく角を揃えて折り畳まれ、いささかの緩みもない。トランクを開けて取り出した景のボストンバッグのポケットに、せめてもの薄謝のつもりで捩じ込んで、そっと地面にバッグを置く。
それから運転席へと戻り、エンジンをかけた。

少し動いただけですぐに息切れするが、アクセルペダルを踏み込むくらいのことならできる。助手席にいるよりハンドルを握っていた方が、勝手に前のめりになる体を、いくらかでも起こしていられるだろう。いつになく慎重にペダルを踏み込んで静かに車を動かし、まだ車も少ない車道に出ると、維は北西に向けて道を選ぶ。まだ夜明けには少し早い闇の中へ、黒いセダンが溶けてゆく。



漁港の朝はもう始まっているからか、海が近づくにつれて車が増えてきた。漁船で揺らぐ集魚灯に呼ばれるように東の空は白み、目に見えているこの海の沖、維は遠い上空で低気圧が唸りをあげているのだろうと思う。
彼方からの海鳴りに呼ばれて、自分の肺が潮騒を鳴らして応えているようで、維は呼び寄せられるようにアクセルを踏み込み先を急ぐ。
もう自分には三矢や景のように戻るべき場所はなく、タクのように身を案じてなりふり構わず探しに来る親もいない。高遠に対する怨嗟は、半狂乱の荏原会長の様子を目の当たりにした、あの瞬間から言いようのない敗北感にすり替わった。組も親父も兄弟分たちも消え失せた今、維を護るものはなく、維が護るべきものもない。あの時高遠には構わずに景と二人で玄関へ向かうべきだったのかもしれない。そうすれば自分も景の言う下足番に会えたのかもしれなかった。

課せられたものをひとつ、またひとつ納め、行く先のある者たちを見送ってきた維がようやく得たはずの時間は、ほんの僅かしか残らなかった。いや、これだけは残ったと思うべきだ。背後には崖が迫り、遥か下で波を砕く岩は、落下する維の殻を叩き割るだろう。そこからどろりと溢れ出した自分は、本当に行きたい場所へと流れてゆく。ようやくそれが許された気がして、維は震えて揺らぐ指先でカーナビのパネルに行き先の地名を入力する。

『賽ヶ浦』

保科の腕に刻まれていたその海の、せめて潮騒を手に入れたい。そのために勝負に出ろというのなら、今更何を惜しむものがあるだろう。維は自分に残されたもの全てを賭けた。

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