できる・できない・時間をかければできる

文字数 4,134文字

「ここです。このうっすら白く写ってるところが再生された組織ですね」

医師はボールペンの先でレントゲン画像を指し示す。確かに濃い白色の先に薄く白い影のようなものが映し出されて、そこが新たに創られた骨、ということらしい。それが左右の手に数箇所、この調子なら来週にはリハビリに移れそうですねと医師が言ってカレンダーを確認する。それにしても驚くべき回復力ですね。何か特別なことでもと尋ねられると、保科はチラリと横に控えた維の顔を見てから頬を吊り上げて「擦ったニンジンにカフェオレ混ぜて飲んでます。結構いけますよ」と嘯いた。



ニンジンはどうにか一箱を消費して、余った桃缶をお礼のついでに添えたブレンダーは、無事に山本の兄貴の元へ返却された。果たして医師の予告通りに翌週にはピンが抜かれ、これで痛みとはおさらばのはずが、間髪を入れず保科を苦しめたのは直後に始まったリハビリで、すっかり拘縮して動かなくなった掌を療法士は容赦なく責め立てた。強張った指を曲げ伸ばしするだけのことが猛烈な痛みを伴うらしいことは、横で見ている維にも一目瞭然で、保科は目尻に涙をためて俯いたまま耐えている。両手の大仰な包帯はなくなったもののそれが却って災いして、うっかり指先に何か当たれば声も出せないほどの激痛が走るらしく、即座に痛み止めから解放されたわけでもなかった。傷口の消毒が必要なくなった代わりに、療法士が教えてくれた家でもできるリハビリを手伝うことが維の日課になり、外面のいい保科は病院でのリハビリの際には黙って我慢するものの、自宅で維とする時には遠慮なく「痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇ畜生ふざけやがってあの合力今度会ったらぶっ殺してやるホントにこんなんで治ってるのかリハビリとか言ってせっかく繋がったとこまた折れたらどうしてくれるんだ冗談じゃねぇ勘弁してくれ」と狂ったように罵詈雑言を吐いてのたうち回った。

そこを宥めすかして毎日少しずつでもリハビリをやらせるのも維の仕事で、それもこれも終わった後の対局というエサに食いつきたいばかりが動機であり、事実維がそれ以上の喜びを得られるものはなかったし、保科も自分で言い出した手前、不承不承な顔をしながらも対局につきあった。結局維が何をどう足掻いたところで相変わらず一度も勝てないでいるのだが、次第に保科が長考するようになってきたことは、ある程度自分の腕が上がってきた証拠のような気がしてささやかな達成感を味わった。お前三矢とたまには指してるのかと訊ねられ、そういえばとこの間詰所で顔を合わせた時を思い返す。モヤ返しで遊んで熱くなった連中が始めたアトサ()につきあって一晩過ごしてしまったから、結局将棋を指している時間はなかった。

維の読み通りにあの翌日には全ての組員に、保科の一件は相手を特定して既に手打ちとなった旨が通達され、これ以上は詮議無用、破った者は厳罰との上意下達が徹底されたらしい。幹部連中からの連絡も減ってすっかり静かになった保科の携帯ではあるが、相変わらずボタンの操作には恐ろしく時間がかかる。そんなだから財布と携帯電話の管理を含め、身の回りの一切を世話するのはやっぱり維の仕事だった。
それでも保科が少しずつでも自分の手を使おうとするようになったのは、長い勤めを終えて古参の組員が出所する、その祝いという名目で二の酉頃に賭場を開帳するという江崎からの情報が入ったからだ。そこで胴師を努めることを復帰の第一戦にせよという親父の計らいとも命令ともつかない指示が降り、それがとりあえずの目標になった。

それまでの保科には「できないこと」と「できること」の二択だったのが、その間に「時間をかければどうにかできる」が追加され、次第にその数が増えてゆく。食事の際に箸はまだ上手く使えないものの、フォークは右手で持てるようになったし、着替えも格段に早くなった。保科もどうにかして「できない」を「時間をかければできる」にして「できる」へ移行したいと思っているらしく、些細なことに苦戦する様子を見かねて手を出そうとすると、自分でやると言って意固地になる。黙って何かを見守るということは案外難しくて往生するものだ。
すげぇ俺! やればできるじゃん! あとちょっと頑張ろう! 何をする時でも保科が自分で自分を鼓舞する声が聞こえているうちは安心していられた。それがそのうちトーンダウンして、最後には保科の方から維を呼んで、「もう無理。あとお願い」の声がかかる。そうなってから手を貸しても、大抵のことなら十分間に合うと気付いてからは、維も鷹揚に構えることができた。



郵便受けに溜まった封書の類いを、今日は自分でやるからと言ってハサミを持ち出し、保科が慎重な手つきで開封してゆく。ハサミというものは案外繊細な力加減を要求するもので、思ったようには動いてくれない保科の手にとっては苦行半分の修練と言える。慎重にハサミを使って3通ばかり開封したところで、疲れ切った表情で維に声をかけ、あと残りお願いと言われた維が端から開封して保科へと手渡す。損保会社からの契約更新のお知らせ、弁護士事務所移転のお知らせ、公共料金の請求書。次々と開封していく維の手がふと止まった。

そのクラフト紙の地味な封筒には、ボールペンで「保科憲之様」と書かれている。どう見ても親書で、咄嗟に自分が封を切ることはもちろん、裏返して差出人を確認するのも憚られる気がして、維はその持ち重りのする封筒をそのまま保科に渡した。受け取った保科も差出人を確認するでもなく黙ってしばらくその封書の、表に書かれた自分の名前を眺めると、そのまま維の方に差し向けた。

「これも開けて」
「いいんですか」
「頼むよ。もう手が痛くて無理だ」

保科が自分を鼓舞する声の消えた部屋はとても静かで、数枚の紙を繰るさらさらとした音だけが室内に響いている。維は封を開け中身を出して、保科が読みやすいように、それでいて自分は見ないように用心しながら開いた。そおっと差し出す手元の紙に、うっすらと緑色の線が描かれた紙が見えた。受け取った保科はしばらくの間、広げられた手元の紙の中に顔を埋めるようにして、それから紙束の乾いた海に頭から突っ込んで深く潜り、やがて水面まで息継ぎをしに来たみたいに頸を持ち上げて天井を睨むと、本当に大きく息を吐いた。
それからふと立ち上がり、傍に置いてあったボールペンと、その信書の中の一枚を抜いて維の目の前に置いた。ここにさ、俺の名前書いてくれる? そう言って保科は指先で、開封した時にチラリと見えた深緑色の線の記入枠がいくつか並んだ行政用紙の上に円を描く。結婚したことのない維には当然使ったことがない届出用紙だった。

「俺がですか?!」
「いつもやってるじゃない」
「そうですけど」
「だめ? 俺お前の書く字、結構気に入ってるんだけど」
「そういう問題じゃないです」
「なぁ、頼むよ。……まともな字ぃ書けるようになるまで待たせるのも悪いだろ」

病院の退院手続き書類から始まって、保科の代わりに署名することは、維にとってもう何度もやって手慣れた作業とも言える。だからといって離婚届まで自分が署名することになるとは思ってもみなかった。



「……ダメですそんな簡単に。ちゃんと話し合いするとか」
「簡単じゃない。何度も話した」
「会ってきちんとするべきです」
「遠いんだよ。会いに行くのがどんだけ面倒かお前知らないだろ」
「事情も知らせてないんでしょう。怪我してて、ペンも握れないって」
「こんな有様だって知られたら『だから嫌なのよ』って言われるだけだ」

……カミさん、この辺の出身なんだけどさ。一緒に来いって言ったのに、嫌で出てきた故郷に戻りたくないとしか言わないんだ。理解できないわけじゃないよ。国に戻るのが嬉しい奴ばかりじゃないことくらい。右を向いても左を見ても、そんな奴ばっかりの渡世だからな。それでも、一人きりで帰るのとは意味が違うはずだろ? あんたこそ足洗ってこっちで暮らしてくれって言われても、俺だってそう簡単に呑めない。
チビがさ、春になったら幼稚園にあがるってんだ。こっちにだって選べるくらいあるのにな。もう予約済ませたんだと。相手の気が変わるのを俺も待ったし、あいつにも散々待たせた。もうこれ以上時間を使えないよ。

「だから、な? 頼むよ。人の縁なんて脆いから、紙切れ一枚でなんとかきつく結ぼうとするけど……もつれたのが首に絡んで窒息する前に、いい加減ほどいてやらないとさ」

もう話し合う段階はとっくに過ぎているのだということは、保科の口調から十分読み取れた。書類の中に切手の貼られた返信用の封筒が同封されていて、宛先までもが記入済みになっている。あとは保科の署名さえあれば万事つつがなく進んでゆく、ということなのだろう。自分の親もこうやって紙切れ一枚でほどけていなくなったのか。維が小学生になるかならないうちに、父は家を出て行った。母は近くにあった米軍の基地内作業員の仕事を得て、姉と自分を育てた。金網の向こうで緑に生い茂る芝生を管理するための除草剤にかぶれて、赤く膨れた手で家事をこなし、寝酒に酔ってはその爛れた手で「あの男に似てきた」と言って維を打った。翌朝になれば酔っていた時のことなどすっかり忘れて、その同じ手で食事を作り、まだ眠っている維を起こしにきた。母は父のことを「あの男」としか呼ばなかった。この人も遠くどこかにある家でそう呼ばれるのだろうか。維は黙って署名欄に保科の名前を書き入れると、俯いたままで用紙を手渡す。口を開けば余計なことを言いそうで、小さく下唇の端を噛む。

「悪かった。こんなことまでつきあわせて」

今一番傷ついているであろう人から頭を下げられて、維は頸を上げることができない。どうにか少しだけ顎を持ち上げて見れば、時間をかけてもできるようにならなかったことの証を、保科は辿々しい手つきで三つ折りにして封筒に入れていた。口のところについたテープを剥がして閉じると、曲がり切らない指のはみ出た拳骨でボールペンを握り、どうにか時間をかけて蓋のところに少し歪んだ「〆」の印を入れた。




※アトサキ……花札賭博の一種。バッタ巻きとも呼ばれる。
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