雲丹・中トロ・干瓢巻き

文字数 3,308文字

景は三矢の言いつけ通り、翌日は午後になってやってきた維と将棋を指して過ごした。

飛車角はもちろん落とした上で手心を加えてもらい、数回に一度は勝たせてもらえたから、どうにか腐らずに付き合えた。結局のところ将棋盤ごと維の手のひらの上で転がされているだけなのだが、それが何故だか景にとっては翻弄されるどころか、むしろ心地良くすら感じる。それに対局に飽きればいつまた維が「そろそろやるか」と言って事務所の片付けに手を出すかわからない。それをさせるなと三矢に命じられている以上、景は手駒を右往左往させて、維の気を引き続けることしかできない。

維も三矢から苦言を呈された翌日とあっては、さすがに大人しくするしかない様子で、かといって景に何か指導めいたことをするわけでもない。御託を並べるよりとにかく実戦あるのみだということなのか、とにかく次々と対局を重ねてゆく。時折長考している景の、椅子の後ろに回って盤を眺め「俺ならここを動かす。三矢だったらきっとこうするだろう」と言って駒の動きを指で描く。お前はどこに指すかと問われて景が答えると、その理由を説明させた。維はそれを聞いても何をアドバイスするでもなく、そうか、お前はそう読むかと言ってその通りにさせる。結果はどうあれ何を考えてそこに指したかを維に説明できるように意識する分だけ、僅かなりとも上達したような気がした頃には西陽が差し込むような時間になっている。

景にコーヒーを淹れさせながら、維は給湯室を覗き込んでぐるりと見渡してみる。換気扇の他には小さな窓があるだけの部屋に置かれた家電と家具の類。このくらいの広さなら半日もあれば問題なく方が付きそうだ。3階は4階と同じくがらんどうになり、今維たち3人が使っている2階、ここは三矢の定位置の机と、維の定位置である応接セットの長椅子が二つとローテーブル、たまに景が座る、長椅子とセットのシングルソファー。テレビ台代わりで中身はほとんど空のキャビネット。枯れかけた観葉植物の鉢、それから神棚。2階はいつも使っているからそれほど埃が溜まっているわけでもない。案外きれい好きの三矢がいつもカンタに整理整頓を言いつけていたから、この階もそれほど手がかかることもないだろう。

問題は4階、3階から下ろしてきた廃材の置き場にされている1階の詰所で、まずはそれらを廃棄するところから始めなければ、足を踏み入れることも難しい。

『1階は俺がやるから、お前は手ぇ付けるなよ』

三矢にそう言い含められたのは初めてのことじゃない。解散の話が出るよりも前から何度もそう言われて、その度に三矢ひとりにやらせるわけにはいかないだろうと思ってすぐには承知せずにいた。だが昨日言われた時にはさすがに了承するしかなかった。自分があの部屋に入るということは、もれなく前川の世話になるということだ。なあ維、お前2、3日使って挨拶回りでもしてこいよ。その間に俺と景で1階は片付けておくから。三矢はそう言ってそれが苦労でもなんでもないような素振りを見せる。
あの部屋に入れば全てが懐かしくて、いつまでもそこに居たいような気分になるのだろう。あの部屋で同じ時を過ごした人たちを思い出し、あの頃の自分たちを思い出して、苦さの向こうにあるほの甘さを感じてしまえば、全てを70リットルのポリ袋へと躊躇なく投げ込むことはできない。自分も、三矢もきっと同じだ。それなのに心臓の裏側を焼かれるような気分を悟られないように、お互い何も感じないような顔を繕って化かし合うのだ。せめてどちらかがいない方が気楽なはずで、そして部屋へ入れない身体である以上、席を外すのは自分の方だろう。

『もし何か出てきたら、捨てる前にお前にも見せる。だからさ、頼むから3日ばかり留守にしてくれよ』三矢がそう言ったのだから、きっと本当に3日で方が付くだろう。それから2階を片付ければおしまいだ。三矢は国許へ帰って家業を支え、届けは提出され、親父と姐さんは永く続けた渡世から身を引いて、松岡組は消える。

「なあ、あと半月もかからないでお前の仕事終わりそうだけど。この先どうすんだ」

お前こそどうするつもりだよ、維。 三矢だったらそう答えるんだろう。

「他にもっと何かないですか」
「今のところここが片付いたら、その先の仕事はないな」
「でも維さんたちはここを引き払って、どこかへ移転するんでしょう? そこでも掃除だって運転だって必要なんじゃないですか」

詰所が片付いて組が消えてしまえば、後に残るのは生活というものであって、渡世と呼ぶべきものではない。「お手伝いさん」を雇えるような身分になるわけでもない。つい数日前、以前に借金の形として手に入れたクラブの経営権を、元の経営者に拝み倒されて手放した。元々それほど愛着も執着もない店を売るのは造作もないことだったが、卵を産むニワトリを失ったことだけは確かだ。今の維が持つシノギらしいものは、わずかばかりの株式投資と博打の上がりだけで、俺もついに兄貴と同じ純粋博徒の端くれかと、己の時代錯誤ぶりに苦笑いの口角が歪む。
食い下がる景にどこまでをどう説明するべきかを悩む維のポケットで、ふと端末が鳴った。維は三矢からのメールを確認して、フィルター紙を折ってドリッパーにセットしようとしている景の手を制止する。

「コーヒーより緑茶の方が良さそうだ」

それから10分もしないうちに事務所に寿司折をぶら下げた三矢が戻ってきて、いつものように机とセットになった袖付き椅子にどっかと腰をおろした。



祝い事でもあったんですかと景が尋ねると、おぉ、取ったのよしかも三連単だぜ? めでたいだろうがとご機嫌だ。レースの興奮冷めやらぬ様子で差し出された寿司折は、木箱に掛け紙、紙紐のクラシックスタイル。出てきたばらんがプラスチックフィルムではなく本物の笹で、包丁も鮮やかに海老型に切り抜かれている。スーパーに並んでいて閉店間際に安売りになるようなものとは違うことは景にも一目でわかった。

維は三矢を給湯室に呼び寄せて、茶封筒に数枚の札を入れたものを三矢に手渡した。ボールペンで薄謝と書いた茶封筒に、三矢もおぉそうだなと言って気前よく自分の札入れから抜いた紙幣を入れて口を折る。それから『この世にこんな旨いものがあったのか』という顔で雲丹の軍艦巻きを頬張っている景に封筒を渡した。

「お疲れさん。ほれ、薄謝だよ」

ヤワタ屋で買ったスーツの分は引かないでおいてやる。俺の博才に感謝しろと言った三矢から、封筒を受け取った景が何度も礼を言いながら二人に頭を下げ、それから不安げな顔をして維に確認する。

「あの……。 まだあと半月は仕事あるんですよね?」
「そうだな。とりあえずまだ片付けなきゃならん仕事がある」
「明日から維は数日留守にするから、その間に俺とお前で残りの部屋を片付ける。覚悟しとけよ」

口はもぐもぐと動かしながら、すっかり手の動きが止まった景の様子を見ると、三矢はその顔色に不安を見て取り、どうにかしてその陰を拭い去ろうとする。最初は景が若すぎることに納得しかねていた三矢も、維の決めた事に文句をつける訳にもいかず、それに確かに維の言う通り、景を巻き込んだのは自分だ。三日で退屈していなくなるだろうと思っていた景がこうしてカンタの抜けた穴を埋めて、気がつけば今やそれなりに頭数になっている。

「頑張れよ。お前の働きと俺らのシノギによっては、次の薄謝は決して薄くないぞ」

焚きつけてやろうと三矢が調子のいいことを口走るが、景の気分は浮上しない様子だ。

「なあ景、それ持って靴買いに行ってこい。三矢、明日にでも付き合ってやれ」

見かねた維がそう言って景の機嫌を伺う。茶封筒を両手で押しいただきながら、どこか不安げな景の目を見るのが嫌で、目を逸らした先にあった景の寿司折から、維は干瓢巻きをつまみ取り、空いた所に自分の折から抜いた雲丹の軍艦巻きを乗せてやった。

「交換しようぜ。俺ここの干瓢好きなんだよ」

ほんの僅かに景の頬に喜色が戻った気がして、とりあえず維は安堵する。
「見よ。偉大なり寿司のチカラ」三矢がそう微笑んで、中トロをひと口で腹に収めた。

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