風呂・シャワー・本宅

文字数 4,027文字

「親父も苦しくなってきたらしいね」
「何がですか」
「釜の蓋が弾け飛びそうだ、ってこと」

保科が襲われたことは当然ながら警察沙汰にはなっておらず、当事者以外には知る者もない。だからと言って何もなかったことにはできないのがこの世界だ。身内を襲撃されながら何の動きも見せない組織というものは、暴力社会に存在し得ない。必ず自分達の手で報復が為されることになる。たとえ襲われたのが組織内の嫌われ者であったとしても、それはあくまで内々の話だ。対外的には『身内をやられたらやり返す』そのために徒党を組んでいるとも言えるし、きっかけさえあればいつでも暴発するような好戦的な若衆にとっては、保科が襲われたことは『祭の始まり』を告げる狼煙を上げるための格好の火種と言える。早いとこ相手を見つけ出して、報復の口火を切りたい。そのためには情報が要るということだ。

「俺がダンマリ決め込んでるもんだから、親父がせっつかれてんだろうな。それでも1週間以上持ったんだから上々だよ」

グラグラと沸いた湯が、重たいはずの鍋蓋を押し上げそうになっている、ということらしい。
さっさと相手を見つけ出して、その方向へと蓋の飛ぶ道筋をつけてやればいいだけのことではないか。維がそう言うと保科はゆるゆると首を左右に揺らす。テーブルに置かれた黄色い箱を目で指して、一個ちょうだいと言うから、維はキャラメルの箱から一粒をつまみ出し、包み紙を解いて口元へと運ぶ。小さく首を傾げて啄むように受け取った唇から、保科は甘い匂いをさせながら、俺としてはなるべく穏便に収めたいんだと言った。

「報復の報復、そのまた報復。ラリーになると目も当てられない事になる。それだけは避けたい。そこで冷却期間を設けたつもりだったんだけど、却って湯が煮えたってってことか」

そう言ってのんびりと構えている保科のことが、維としては信じられないものを見る思いがする。こんな目に遭わされて黙っていられるなんて、ヤクザの端くれとして不甲斐なさのようなものを、この人は微塵も感じていないのだろうか。苛立ち紛れに摘んだ駒を、盤に打ちつけるような勢いで指す音が、あまり物が置かれていない、がらんとした保科の部屋の壁を甲高く突いた。

「……悔しくないんですか」

賭場で札を繰るどころか、茶碗も箸も持てず、痛みに起こされて薬を飲もうにもそれすら叶わない。一人では夜も日も明けない有様にされて、自分のような者の世話になるしかない。一瞬のうちに襲われてそんな(てい)にされたのだ。もしも自分が当事者だったら一刻も早く相手を探り出して倍返しに報復することを考えるだろう。それなのにこの人は、あまりにも呑気が過ぎる。
苛立ちが眉間に表れた維の顔を覗き込む保科の様子は相変わらずで、野良猫がそうするみたいに両腕を前に突き出しながら大きく伸びをする姿が、余計に全てをほんわりと間延びさせた。

「そりゃ悔しいさ。でもこういうのはどっかで手打ちに持ち込まないと。湯が沸く原因を作った俺としては、何とかして火を弱めたいところだ」

……ま、結局これが俺の器量だった、ってことだ。でもまあとにかく、ちょっとでもどうにかして立て直したいね。保科はどこまでもゆるゆるとしたペースのままで、いつの間にその緩い波のうねりに巻き込まれたのか、維の駒は精細を欠く動きしか出せないまま、そこから数手で投了することになった。



翌朝、維は公園で保科と対局した時のスーツを、今度はきちんと上着まで着て自宅を出た。
以前のバイト先で急な不幸があった時に、手伝いのために買った吊しのこの一着が、維が持っている唯一のフォーマルで、指示があったから着てはみたものの、しっくり馴染むわけがない。一本こっきり持っていたネクタイも、使わないうちにカビが生えて捨ててしまったから胸元がスカスカで、どうにも落ち着かない気分のまま保科の自宅へ着いてしまった。だがドアを開けると、あろうことか本人までもが昨夜ののんびりした空気とは打って変わって、何かに怯えたような不安げな顔をしてベッドに腰掛けている。部屋に入った維の姿をまじまじと、頭のてっぺんから爪先までたっぷり二往復眺めて、それから保科は思い詰めたような目をして、風呂入りたいから沸かしてくれと言い出した。

「無理です! 時間がないから戻ってからにしてください」
「それじゃ意味ないだろ。本宅に行くのにこんな脂臭い髪で行きたくない」
「忘れちゃったんですか? シャワー浴びるだけでも大騒ぎだったじゃないですか」

医師から入浴の許可をとりつけて、早速シャワーを浴びたのは一昨日のことだ。蛇口ひとつを自分で開けることもできず、両手をビニール袋でラップされた保科がシャワーを浴びる、ということは、つまりもれなく維もずぶ濡れになることだと思い知らされた。
これから保科の着替えを手伝うだけで制限時間は一杯なのに、何で今になって突然こんなことを言い出すのか。どうしてもっと早く言ってくれないんですと文句を言おうとして向き直った保科の目が、いやにしょんぼりと萎れているのが気になって、思わず維の勢いも削がれた。

「……髪だけ洗いますから、風呂は戻ってからにしてください」

説得するつもりが懇願という表現の方が近くなった維の声に、保科は「うん。頼むよ」とだけ言って洗面台の前に立って、そこからはずっと大人しく維の言うなりに従った。

シャンプーを泡立てる時も洗い流す時も、ドライヤーで乾かしているうちも、一言も口をきかなくなってしまった保科の、機嫌を損ねたのだろうと思いながらも、それならそれで仕方がないと維は開き直る。どうせ3カ月の、期間限定の弟分なのだ。この気まぐれさなら突然契約解消だと言い始めるかもしれない。両手さえ自由なら今すぐだってそうするだろう。だが少なくともピンが抜けてリハビリが始まるまでは、この契約を保科から解消して逃げ出すことはできないし、維にだってそのつもりは微塵もない。ならばお互いあまりに気まずくなるような言動は避けるべきなのだ。両方が少しでも気分良くいられるようにしたほうがいい。

維はいつになく丁寧にワイシャツを着せ、髪を整える。そうしてネクタイを結ぶ段になって、ようやく保科が口を開いた。

「クローゼット開けて、ちょっとここに立って」

そう言って開いた扉の横に維を立たせ、扉の内側に掛けられているネクタイと、維のことをちらちらと見比べる。そこから紺無地の一本を選び、これお前にやるから使いなよと言った。一見無地に見えたがよく見ればグレーのピンドットが織り込まれている。角度によってほんのりと柄が浮かび上がったそれを維が襟元に結んだ姿を見て、似合ってるなと言って褒めた。詰所の奴らが見たらきっと驚くだろうなと保科が言った通り、組長の住む本宅まで車を回して送ってくれた熊田は、スーツ姿の維を見て「お前何だか急にそれらしくなってきたね」と言った。



車寄せのついた個人宅なんて生まれて初めて見た維は、本宅の石畳で足がもつれそうになった。本宅付きの部屋住みたちが玄関へ入れてくれて、慣れた様子で先を行く保科の後をついて歩き、そのまま応接室へと通される。約束の時間より5分早く着いたけれど、保科は少し遅れたなと言った。静まり返った応接室の廊下に出てきた側近らしい人に呼ばれて部屋に入る。ここで待っていればいいのかと思った維がドア口で立ち止まると、お前も来るんだよと言われて思わずえっ、と声が出る。「だから、取って食いやしないって」強張った顔の維にそう言ってから、中に向かって大きい声で保科ですと声をかけた。

「悪かったなあ。見舞いも電話ばっかりで」

そう言ったのは真ん中に置かれた机の向こうに腰掛けた、維の父親と同年輩くらいの男で、声は昨夜電話で話した時と同じだ。初めて見る組長はどちらかと言えば小柄な方で、街中でよく見かけるような、取り立てるべき印象のなさでそこに座っていた。正直なところ「拍子抜けした」というのが一番最初に出た感想だ。それでも維はとりあえず保科がしたのと同じようにして腰を深く折って頭を下げた。

「そんな手じゃあ、不便ばっかりだろ」

そう声をかけられた保科が、何から何までこいつに任せっきりですと急に話を維に振ってくるから、慌ててもう一度頭を下げて「不足ながら」とだけ言った。若いのによくそういう言葉が出るもんだなあと言った後で、こいつのワガママにつきあうの大変だろと言って笑った組長の声が広い応接室に響いた。大きな机と、革張りのソファーセットの間に立って聞く声を、ふっくらと厚みをもった絨毯が吸い取ってゆく。病み上がりで辛いだろうから座ったらいいと勧められたのを、保科はここで大丈夫ですと断ってから、この度はご迷惑おかけしましたと改めて深々と頭を下げた。

「誰にも説明しなかったのは、他が耳にすれば悪戯に騒ぎが大きくなるばかりだと思ったからです。親父なら大事にせずに収めてくれると思っていました」
「……まぁ、理がどこにあるかもわからんでは手の出しようもないってだけだ」

組長の座った机のすぐ横に一人、それからドアの近くに立っている一人にそれぞれ視線を投げてから、人払いをお願いしたいと保科が言うと、大仰だなと言って組長が立ち上がる。二人に部屋から出るように指示して、それから維の方を見た。自分も出ようとすると保科が「お前はいていいよ」と言って引き留めようとする。組長が黙ってこっちを見ている視線に維は耐えられない。

「でも」
「いいから。頼むよ、維」

こいつは同席させます。お許し願えますか。保科がそう言うと、好きなようにしろと言って組長はソファーに腰掛け、二人に向かって手招きした。座れ、と言うことだ。今度は保科も素直に応じたから、二人並んで腰を下ろす。詰所にあるような凹んで固い座面のそれとは明らかに違う感触が維の腰を支えた。

それから保科が話し始めたのは、維が思っていたよりもずっと昔の話だった。

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