携帯・タクシー・ずぶ濡れの猫

文字数 4,010文字

降り出した雨が次第に強まって、それから弱まって、また気まぐれにバラバラと音をたてる。結局夕方になっても止まない雨に閉じ込められるように、維と三矢は将棋盤を挟んで向かい合っている。小降りになるまでちょっと待ってから晩飯でも食いに行くかと相談して、いつもの中華屋か、それとも定食屋かと悩んでみる。
昼過ぎに保科を探しに来た江崎が、さっきと同じように携帯を手にしたままで詰所の入り口から顔だけ突っ込むように中を覗き込み、居合わせている若衆たちの顔を確認している。どうやらまだ保科を捕まえられずにいるらしい。

電話も出ねえってのはなぁ。独り言みたいにそう言っては一度通話を切り、再びリダイヤルボタンを押すことを繰り返しながら、お前らそれそんなに面白いかと維と三矢に声をかけてきた。まあ昔はどこにでも将棋盤と駒くらい、暇つぶしのアテに置いてあったもんだけど。いまだにコンビニ行くとポケット将棋盤とか売ってるとこ見ると、それなりに人気あるんだろ? 
雑談する向こう側で、数名の若衆がぱらぱらと玄関へ出てゆく。それから一人が走って維を呼びに来た。

「保科さんが…」

そう言った後ろから、ピリピリと喧しい携帯の着信音が聞こえて、それがだんだん近づいて大きくなる。濡れた髪を撫で付けたような頭をして、泥で汚れた上着の胸ポケットから携帯の着信音を鳴らしっぱなしにした、スーツ姿の保科が入ってきた。顎につけられた擦り傷から血が滲み出て、それがじわじわと雫に変わるのを上着の袖で拭っている。携帯を弄りながら雑談していた江崎が発信を止めると、ようやく室内が静かになった。

「……おや、みなさんお揃いで」

そう言った保科の後ろから、「あの、お代を……」という細い声がして、見れば交通安全標語の書かれたバッヂを胸につけた男が立っている。タクシーの運転手らしかった。保科は維を呼び寄せると、両腕をだらりと下げたまま、濡れた頭を下げて前屈みになる。見えるか?と確認しながら、上着の内ポケットに入った札入れの角を見せた。

「これ出して支払いしてくれ」

維は言われるまま、しっとりと濡れた革の札入れを摘み出し、抜き出した札を運転手に渡す。保科が「釣りは取っといて」と言った声を聞くと、運転手は逃げるように詰所を出て行った。

「すみません、電話気が付いてたんですけど……出られませんでした」

そう言って江崎に頭を下げる保科の、左右の掌は赤黒く変色し、グローブでも嵌めたかのように膨れ上がっている。指は不自然に曲がり歪んで、携帯を取り出すことはもちろん、操作することも、財布から札を抜いて金を支払うことすらできないほどに痛めつけられていた。

わかったからちょっと休めとだけ言って携帯を再び弄りだした江崎が、電話で誰かと話している間中、保科は黙って維と三矢の目の前に広げられた将棋盤を見つめている。内科じゃダメだとか、手術が要るかもしれないだとか、入院設備が整ってるとこにしろという声から察するに、どうやら江崎は病院の手配をしているらしい。目の前の患者はまるで他人事のようにその声を聞き流し、とにかく座ってくださいと椅子をすすめる三矢の声までも聞き流した。机の横に立ったまま盤に並んだ駒を見つめ、それから小さく微笑んで三矢に語りかけた。

「……裕二、遠慮しなくていいぞ。最短あと6手で詰める。維、お前また相手見ないでぼんやり指してただろ」

保科の言う通りだ。
目の前で対局している三矢のことよりも、どこに行ったかわからない、迷子の猫のことを考えて指していたという図星を突かれ押し黙るしかなかった。部屋住みの先輩に何か体拭くもの出してくださいとお願いする自分の声が裏返る。かろうじて喉から搾り出した声は縊られた鶏の断末魔のような有様で、我ながら情けなくなるがこのくらいが維のできる精一杯だ。
江崎は電話を切り大声で運転手を呼ぶと、車用意しろ、すぐ出るぞと言って、タオルを被った保科を連れ詰所を出て行った。



翌日からの維はとにかく慌ただしかった。
朝は松岡組からの電話で起こされて、5分とたたずにやってきた江崎の車に有無を言わさず乗せられた。朝飯どころか顔を洗うのもそこそこに、黒光りするセダンの後部座席に乗ると、隣には江崎が座っている。寝ぼけたままのような維の顔を見て、アニキが心配で眠れなかったかと言って小さく笑った。

「あの、保科さんは」
「無事だよ。両手以外はな。夜中かかってバラけた骨をピンで留めてもらった」
「手だけで済んだなら良かったです」

江崎はじろりと維を睨みつけて、お前は胴師が指をやられるってことの意味が理解できないんだな、あれは殺されたも同然だよと吐き捨てるように言った。
賭場でひと勝負して、その帰りに三人組に襲われたらしい。手だけ狙って財布にも手をつけないとこを見ると、あいつが胴師だって知ってる奴だ。詳しいことは言おうとしないよ。親父に話すってダンマリ決め込んでやがる。

「治療とリハビリ、完璧にこなしても元通りに指が動くかどうかは五分五分だとさ」

車が着いた先は病院で、この辺りでは名前の通った救急指定病院だった。運転手は駐車場に車をつけると、お前今日から忙しくなるぞと言った。江崎の運転手をしている男は熊田と名乗って、移動が必要だとか、足りないものがあったら連絡するように。当分の間は何もなくても毎日一度は連絡して状況と予定を報告しろと言った。

「いいか、文字通りお前は片腕だ。保科の腕の代わりになるんだよ」
「保科さん、家族は」
「いたって連絡つかねぇよ。こういう時のための弟分だろ?」

やっぱり熊田から見ても、維は保科の弟分だということなんだろう。自分や瀬尾が何をどうだと理屈を捏ねても、もはや今さらすぎる既成事実なのだ。

一人で車から降ろされて病棟受付で保科憲之の名前を出すと、教えられたフロアは特別室ばかりが並んだ階で、床に敷き詰められた絨毯も壁の内装も、他の階とは明らかに様子が違っている。部屋番号を辿って静まり返った廊下を歩いていると、奥まった部屋から言い争うような会話がもれ聞こえてきた。中に保科の声が混じっている。
維が部屋に入ると、医師と看護師と患者が三すくみになっていたのが崩れた。保科は維の顔を見ると今すぐ帰るから服を出してくれと言って、包帯で白く固められた手でクローゼットの方向を指す。無茶ですよ、許可できませんと医師らしい男性が言うのを、保科はのぼせたような赤ら顔で睨み返している。

「とにかく落ち着いて。帰宅は熱が下がってからです」
「解熱剤持ってきますからね」

そう言って部屋を出て行った医師と看護師の背中を見届けると、なんとなく奥へと入りそびれている維に向けて保科が手招きをする。ぎこちない動きが、まるで猫が顔を洗う仕草に見えた。



「……すっかり形勢逆転だな」

数ヶ月前に骨折した維がギプスを嵌めていたことを言っているらしい。維は片腕で済んだし、指先は自由に動かせた。保科は両手を固められ、左手の親指の先端だけがどうにか動かせる唯一の指だった。左は三カ月、右は半年だってさとつまらなそうにそう言うと、起こしていた半身を倒してシーツに身を預けた。

「熊田さん、って人が」
「何か言ってたか」
「1日1回状況を報告するように言われました。それから、必要なものがあったら連絡しろって」
「へぇ。新しいスーツ欲しいんだけど、買ってもらえんのかな」
「それより先に、着替え要りますよね」

クローゼットを開くと泥が染み付いたスリーピースがハンガーに掛けて吊るされている。泥に紛れて血のような赤いものが所々に散って、見ているだけで痛々しかった。ハンガーから外して、これはクリーニングに出しますよと維が言うと、保科は黙ってうなづいて返事の代わりにする。
着替えの服、持って来ます。他にも必要なものとか、用事があったら言ってくださいと維が言うと、保科は押し黙って維のことを見つめ返した。熱で潤んだ目が維を見ているようで、維の後ろの壁の、そのもっと向こうにある何かを凝視しているようにも見えた。

「……お前には悪いことしたと思ってる」
「悪いって、何がですか」
「結局巻き込んだだろ」
「俺は別に構いません。事務所にいるのだって、仲間と連んで退屈しのぎするようなもんですから。それに……熊田さんに『保科の腕になれ』って言われました」

看護師が入ってきて、保科の腕と点滴のパックをチューブで繋ぐ。終わった頃にまた来ますと言って出てゆくまでずっと黙っていた保科が、薬の滴が落ちるのを目で追って、それから維に声をかけた。

……見てみな。俺はこの有様だから、当分誰かの手を借りなきゃ暮らせない。お前が弟分だって言うならそれはお前の務めってことになる。でも違うと言われても他に頼れる奴もいない。どっちにせよお前に助けてもらうしかなさそうだ。だけど周りからどう見られていようが、お前だってよく知りもしない男を兄貴分だと認めるわけにいかないだろ。

「だからお互い『試用期間』ってのにしないか」
「バイトとかで3カ月とかっていう、あれですか」
「そう。どのみちそのくらいはかかるらしいから」
「兄弟分になるかどうかの試用期間、ってことですか」

わかりましたと言った維に、保科がうなづいて契約は成立した。

そうと決まればやることは見えてくるな。そう言って袖机の引き出しを開けるように言った。中に入ったキーケースを維に持たせると、熊田に電話して迎えに来てもらって、俺のヤサまで送ってもらったらいい。そのスーツ、クリーニング屋は近所にある白雲舎ってとこでいつも頼んでるから、と言いかけてふと黙る。

「……もういいや、験の悪い。袖通す気にならないから捨てちまおう」

もっといいの作って、アニキっぷり上げないと弟分に見限られるからな、と言った。
維は保科の顎に貼られたガーゼの下で、こんな有様にされても律儀に凹んでいるであろう、瘡蓋に覆われたえくぼを想像した。


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