博徒・テラ取り・向こうブチ

文字数 3,869文字

江崎が維のことを迎えに来たあの朝、乗せられた車の中で「自分ではどうしようもないもの」に巻き込まれたと思っていた。外堀を埋められるように周囲から『保科の手下』と見做されて、その果てに闇討された保科の手足となって身の回りに付き従った。そうなってからは前にも増して『保科の弟分』という評価が、当然のように維の身分を外側から突き固めてくる。その殻の中でドロリとしながらも固まりもせず、自分自身どうありたいのかもわからないつもりでいた。……タクの眉につけられた火傷を見るまでは。

この人に印をつけられて野に放たれるタクの姿を目の前にして、維の中に灯った火は嫉妬そのものだ。試用期間の3カ月を過ぎても何の意思も示してはもらえない自分よりは、タクの方が幾らかきちんと存在を認識されている。だがもし自分が同じようにされたら、与えられた落伍者の印と示された道を、タクのように黙って受け容れるだろうか。

「本採用を求めるには働きが悪いことは認めます。今日だって煙草の火ひとつ満足に出せなかった。それでもあなたの提案に応じて、3カ月間俺なりに務めを果たしてきたつもりです。答えを欲しがるのは過ぎたことですか」
「3カ月もよく務めてくれたと思ってる。おかげでどうにか回復できたし、指も動くようになってきた。維がいなかったらここまで戻らなかったかもしれないし、忠義に報いるべきなのはわかってるんだけどさ、……実は俺も迷ってる」

保科が手元に並んだ黄色い箱を手に取ってやおら切り混ぜ始める。維がそうしたように、時折どれか一つを手に取って左右に振ってはコトコトと鳴らして、ここにキャラメルが入ってることを知らせては、再びそれを残りの二箱に混ぜ込む仕草まで、すっかり維の動きを真似してみせる。な、まあまあ動いてるだろと言って微笑んだ。

「思ったよりも状況を俯瞰できる冷静さがあって、仲間内でモヤができるほどの手先の器用さもある。お前、向いてると思うよ。だけど俺がもしアドバイスできる立場なら、俺よりも瀬尾に付け、って言うだろうな」



博奕打ちには「テラ取り」と「向こうブチ」の2種類がいる。テラ取りは賭場を開いて稼ぐ側。向こうブチはそこで勝負を挑んで稼ぎ出す側だ。俺は親父の開く盆についてる胴師だから、テラ取りってことになる。そのテラ取りが賭場を開帳することが年々難しくなってるんだ。いつか風呂場でも言っただろ? 警察の手入れは厳しいし、何より人材が不足してる。まともに胴師を務められる人間は年寄りばっかりで後が続かない。このままいけばそう遠くない将来、盆は立たなくなるだろう。いずれ消えるしかないものに、お前みたいないい若いもん一匹巻き込むにはそれなりの覚悟が要るってことだ。
瀬尾がやってることは博徒としては邪道だと思ってる奴も多いけどな。でも公営に乗っかる向こうブチってことは、この先も安定して続けられるってことだろ。そういう意味で瀬尾の選択は正しいよ。競馬自体は違法でも何でもない。だが俺たちみたいなテラ取りってのは根っから違法の存在で、法の眼を掻い潜って続けていくのも「けもの道」だ。開帳図利罪で引っ張られるのもテラ取りの宿命みたいなもんだからな。そうやって3年5年と懲役(つとめ)に時間を費やすかもしれないのを誰かに勧められるほど、俺も器量があるわけじゃないよ。

保科は手慰みのようにキャラメルの箱を弄りながらそう話し、維の目を見ることもしない。手は自在に箱を切り、その速さは一定のリズムを刻んでいる。スタスタという軽い音を聴きながら、維は保科に食い下がった。

「それでも保科さんは続けてるってことでしょう」
「……俺は他にできることなんて何もないからね」

そう言った保科がふと着ていたワイシャツの袖を捲り上げた。袖五分の波額がうねる二の腕に、波間に浮かぶような木札が描かれて、そこには『賽ヶ浦』と入っている。海で暮らし操船を生業とする男たちは、昔は皆自分の集落の名を二の腕や肩に入れていたという、言わば漁師の印みたいなものだ。板子一枚下は地獄、万が一海に投げ出されて亡骸になって流れ着いても、どこの漁師か身元がわかるように昔は皆そうしていたと、維は年嵩の組員から聞いたことがあった。

「うちは代々漁師で、俺も親父の船に乗って漁をしてたこともあったよ。でも兄貴たちと違って俺は体が弱かった。季節風が近づくとそれだけで頭痛が止まらなくなるんだ。沖合で時化にやられて親父と兄貴たちを乗せた船が難破したその日も、俺だけは漁に出られずに割れるように痛む頭を抱えて寝込んでた。結局船ごと誰も戻らずに、俺の家はそっからお袋と妹抱えて火の車だ。食っていくために手っ取り早く稼ぐには、こっちの世界に来るしかなくなって、今じゃ網引くよりも札繰ってる時間の方がとっくに長くなった。元々海に出るにはそぐわない俺が、今さら漁師には戻れない。でもお前は違うだろ。まだ他に選ぶ道はいくらでもあるんだからさ」

「……諦められません。俺はタクみたいに物わかりが良くありませんから」
「諦めるも何も。お前盆に上がったこともないだろ」
「俺が仕えたいのはあなたであって盆ではない」
「俺に仕えるってことは盆中に身を投じるのと同義だよ」
「それならそうするまでです」
「だから、それを勧められないって言ってるんだ」
「保科さん、狡いです。そんなの昨日今日知ったことじゃない。俺に試用期間やらないかって持ちかけた時から、あなたには分かっていたことでしょう? 今さら御託並べるなんて筋が通らない。それとも最初から用が済んだら放り出すつもりだったんですか」

維に引く気配はない。譲るべきものなど何もないからだ。背後に迫るのは崖で、この人が自分を置き去りにして目の前を通り過ぎるだけの場所を、半歩でも譲れば自分はこの崖から落ちる。転げ落ち殻にひびが入ったその途端に溢れ出して、それでも自分はこの人のいるところへと流れてきてしまうのだろう。ならば道を譲ることに何の意味もない。
保科が微笑むたびに顎に小さく浮かぶエクボの、そのくぼみにいつの間に嵌っていたのか。江崎の車で送り届けられた病室で、試用期間つきの弟分になった時からか。それともそのもっと前、事務所の奥に置かれた机から猫がそうするように手招きされて一局付き合った時からか、維にはもう思い出せない。
どうしても保科が去るというなら自分を突き落として行けばいいのだ。いっそのことそうしてくれたらいい。タクのように中途半端な印をもらうくらいなら、周囲の誰かが作った殻をこの人自身が叩き割ってくれたら。そうすれば自分は他の誰が指示したものでもない、自分の意志を遂げるためだけに動けるのだ。

「この3カ月、何の結果も出なかったとしたら虚しいくらいには入れ込んだつもりです。勿論、傷が良くなったことは間違いなく成果だと思えますけど、それはあなたに帰属するものだ。この先に繋がらないなら、俺には何も残らないのと同じことです」



維の言い分を黙って聞き届け、保科は小さく溜息をつくと席を立ち、傍のキャビネットから見覚えのある白い包みを取り出す。

「勝負、行くか」

維の目の前には紙包みと、黄色いキャラメルの箱3つが並んだ。

「お前が勝ったら望み通り、弟分としてテラ取りが務まるようにしてやる。はずれたらここまでだ。俺は今後一切お前に関わらない。勝負が嫌なら降りろ。ここまでの慰労金にくれてやるから、これ持って帰れ」

そう言った保科が指先で軽く叩く紙包みは、辰盛会の会長が治療費として寄越した見舞金だ。あの日あの束から数枚を引き抜いて渡された、その残りだからそれなりの額面だということは間違いない。だが慰労金とは名ばかりの手切れ金をすんなり受け取れる訳がない。
白い包みをテーブルの一番端に押し退けて、維が黄色い箱を凝視する。やるのかと言った保科に黙って頷いて見せると、応じた保科はもう一度小さく溜息をついてみせた。

それから3つの箱を開き、中の一粒を維の目で確認させる。

保科が手際良く切り混ぜる3つの箱を視線で追って、手がぴたりと止まったところで維は一瞬戸惑った。ずっと目で追いかけたはずの箱の、その隣の箱から微かに音がしたのだ。自分の眼を信じるなら中央の、耳を信じるなら左の箱にキャラメルが入っている。勝手に浅くなる呼吸をどうにかして御するように維は胸を開き顎を引く。
保科に促されて、維は自分の眼を信じることにした。真ん中の箱を指で示し、保科の眼を見る。
それでいいのかと聞かれて小さく頷く。

「勝負」

保科の指先が真ん中の箱を開く。滑り出てきたキャラメルを見て維はやっと呼吸を取り戻した。



僅かに眉を歪めながら微笑んだ保科が、お前の勝ちだ。そういうことだからよろしく頼むと言って維の目の前に掌を差し出した。ピンも包帯もなくなった保科の手を、維はできるだけ柔らかく握って返す。

「……あぁ、この二つのうちのどっちか迷ったんです」

閉じられたまま並んでいる箱に手を伸ばして、維は音が聞こえた箱を開いた。胴の許しもなく張子がそれに手を出す不躾を、なぜか保科は窘めもせず黙って維のやりたい様にさせる。開いた箱の中を見て、維は残された3つ目の箱も開き、それから再び息を呑んだ。
いつ、どのタイミングだったのだろう。どの瞬間に細工されたのか、維にはまるで見抜けなかった。確かに最初は空だったはずの箱には、どれにも一粒ずつのキャラメルが収まっていた。

「……俺は『狡いゴト師』だからな。用心しろよ、弟分」

小さく笑う顎にうかんだ窪みに、そうして維が流れ込んだ。

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