百合・柑橘・香水

文字数 4,170文字

すれ違った住民の、腕に抱えられた花束からだろうか。百合の甘い香りがエントランスホールに広がっている。マンションの入り口で少し待っているうちに、傘を差した運転手に付き添われた保科が戻ってきた。迎えに出た維の差し掛けた傘に収まると、保科が運転手と車に向けて深々と頭を下げる。車が動き出して見えなくなるまで、二人揃って無言のままの見送りだった。
こんくらいなら自分で出来んだぜと言いたげに、エントランスのパネルについたテンキーを、左手の親指でぎこちなく押してパスコードを入力する。それから郵便受けも器用に解錠してみせると中身をつかみ出した。そのままあやふやな手つきで上着のポケットに押し込んで、保科がふと俯いた首を上げて維を見た。

「熊田に何か言われた?」

戻ってきての第一声がそれだから、よほど自分の顔に何か書いてあったんだろうと思ったがもう遅い。この人を前にしてつまらない隠し立ては意味がないどころか疲れるばかりだ。

「よくやってる、って褒められました」
「俺もそう思うよ。助かってる」
「……但し書きがついてました」

エレベーターの階数ボタンを維が押して、戸閉めボタンを保科が押す。小さな密室が出来上がり、自分より僅かに背の低い保科の髪から柑橘系のシャンプーの匂いがして、エントランスから連れてきた百合の匂いと複雑に混じり合っている。

「どんな『但し』?」
「渡世については不勉強で、博徒の弟分としてどうなのか、って」
「しょうがないよなぁ。実際弟分じゃないし」
「保科さんは」

エレベーターホールを出ながらポケットのキーを探ってドアを開け、それから続けた。

「俺には教える気にならないですか」
「何を」
「熊田さんの言う『渡世について』の話です」



保科は維に返事をするでもなく、ポケットに入れられた郵便物の束を、チラシもDMも請求書もまとめてポンとテーブルに投げ出す。広告の類は皆ゴミ箱に入れ、残った封書や圧着ハガキを後でいいから頼むと維に声をかける。ハサミを使うこともできないので、こんなことまでもれなく維の仕事だ。そのついでみたいに反対のポケットから引っ張り出したのは分厚い奉書紙の包みで、角を摘んで引き上げると、中から帯封がついたままの札束が転がり出た。辰盛会の会長が寄越したもので、治療費の足しにとの事らしい。そのさらについでみたいにお沙汰が決まったよ、と言った。

「辰盛会の賭場には向こう3カ月間の出禁だって。俺は無期限でもよかったんだけど、あちらさんも客が減るのは痛いんだろう。それとこの包みで手打ちになった」

保科は親父が巧いところに落とし込んでくれたよと言って、満足そうに微笑んだ。

給湯のモニター画面の端に浮かんだ湯船のマークを見て、ああ風呂沸いてんだ、入りたいと言うが、厄介なことにまずは両手の養生から始めなければならない。ビニール袋を両手に被せて口をテープで密封する間、保科は維の質問には答えないまま、他に何か言ってなかったかと訊ねた。やっぱり保科さんの予測通りに、詰所が『仇討ち』で騒がしそうですと言うと、保科がくつくつと笑い出す。それが次第に膨れあがって、ケラケラと笑う声が室内に響いた。保科は仇討ちという前時代的な単語が可笑しくて仕方がないようで、貼ったばかりの両手のテープがずれるほど体を捩って笑い続け、しばらくそうしてからようやく収まると、鍵屋の辻でもあるまいし、あぁ俺ホントに兄弟分がいなくて良かったわと言った。

「な。単細胞の腹心がいたりしてみろ。今頃とっくにカチ込んで、兄貴の仇だとか言って大騒ぎしてる頃合いだ。そういうサルみたいなアホがいなくてほんっとに助かったよ」

それから脱いだワイシャツをカゴに投げ込んで、笑いすぎて潤んだ目で維を見るとお前も入る?と訊ねた。維は返事の代わりに上着だけを脱いで、シャツの袖を捲り上げる。気持ちが指先に出たのだろうか。袖ボタンが弾け飛んで床に落ちた。構わずにボトムの裾も折り上げて靴下を脱ぐ。意味もなく向こう脛に浮かんだ静脈の青い線を数えて、俯いていられるうちに自分の顔に書かれているだろう苛立ちが消えたらいいと思ったが間に合いそうもない。

「俺は……保科さんにこの上何か起きたら、間違いなく相手探し出して死ぬ目に遭わせますよ。あの時江崎さんと熊田の兄ぃが迎えに来なきゃ、今頃瀬尾さんに談判して、三矢と組んでそれこそアホみたいに暴れてたでしょうね。あなたにはサル並みの愚行にしか見えないでしょうが」

顔ばかりではない。声色にも滲んで出た維の、怒気とも諦めともつかない何かが、保科の背中を追って浴室から溢れ出る湯気の中へ溶け込んでゆく。白い暖気の中から「せっかくだけどそういうのはお気持ちだけで十分だ」という保科の声が響いた。



ボディーソープ買っときゃ良かったな。あれだったら片手でいけそうじゃない? そう言う保科の手からナイロンタオルを受け取って、維が石鹸をこすりつける。泡立ったそれを左手で受け取った保科が体を洗いながら、とにかくこれでこの件は終わりだよ、あとは手が治りさえすれば万事元通りだと言った。維は保科から奪うように手にしたタオルで、無言のまま黙々と背中を擦る。

「何怒ってるの」
「怒ってません」

彫物で飾られはしても、筋肉の造る凹凸とはまるで無縁の、この華奢な体躯が三人もの力で組み伏せられたというのだ。蹂躙されたのがまるで自分自身のことのように思えて息が詰まる。試用期間中の弟分が何を言えた立場でもないことは百も承知だが、維にそれを受け入れるだけの器量はない。

「大事なものを奪われて、それを奪い返すのはアホがすることですか」
「ほら、やっぱり怒ってる」
「保科さんが煙たがられる理由が今だったら理解できますよ。博徒として組織の中心部にいるはずなのに、俺らの価値観を片っ端から拒絶してる。俺は身内がやられたらやり返しに行きます」
「そうやって脊髄反射で行動して墓穴掘るのが趣味なら止めないよ。好きにすりゃいい。俺はそういう弟分は必要ないって言ってるだけだ」
「瀬尾さんが体張ることになってたかもしれないんですよ?」
「頼んだ覚えはない。あいつらは騒ぎが欲しくてうずうずしてんだよ。退屈しのぎのきっかけになりさえすれば、理由なんて何でもいいんだ」

抗争ってのはこういうくだらない火種が燃え広がってデカくなる山火事みたいなもんだ。松岡組と辰盛会の間に何かあってみろ。一旦抗争になればお互い盆を立ててる暇なんてない。そうでなくとも警察の目は厳しい、盆に明るい者は減る一方で、博打場を開帳すること自体が難しい。盆が立たないってことは経済活動が止まるってことだ。ヤクザにとっては血の流れが止まって壊死するのと同じだよ。『抗争は博徒の敵だ』って辰盛会の会長が言ってたが、俺は全面的に賛同するね。そういう意味で俺たちは平和主義に徹する他に道なんてない。だからボヤのうちに何としてでも消し止めるんだよ。



不意に立ち上がった保科の体を、泡が滑るように伝って流れて落ちた。大魚の背に乗った魚籃観音が泡の向こうから維を見下ろしている。

「お前が俺の弟分やるかどうかは知らねえが、何も考えずに『そういうもんだ』って理由だけで安易に暴れるようなアホは誰の下でも務まらねぇ事だけは保証してやる」

保科はそう捨て台詞を吐くと泡を洗い流しもせず湯船に浸かり、両手だけは浴槽から突き出したまま、つむじまですっかり潜ってみせた。洗い場に溢れ出した湯が維の踝を濡らす。
明らかにヘソを曲げた保科は浴室を出ても下着にバスタオルを被っただけの姿で、無理矢理に左手と右腕の脇を駆使して携帯を操作しようとする。自分がやりますと言った維を犬でも追い払うみたいに腕を振って払い除け、どうにかして何処かへ電話すると奉書包みの札束から、数枚を引っこ抜いて維に押し付けた。

「これやるよ。今日はもういいから吹富町でも行って遊んできな。俺もそうだけどお前だっていい加減ストレス溜まってるだろ。やることやってスッキリすんのがお互い身のためだ」

吹富町はこの界隈で一番大きい風俗街だ。電話の相手が誰だったのか、何となくの予想はつく。

「……食事は。どうするつもりですか」
「欲しくない」
「ニンジンはいいとして薬は飲まなきゃダメです」

維は部屋住みが作ってくれた食事を皿に盛り、電子レンジに突っ込んだ。夕食後のカルシウム製剤と抗生剤、痛み止めのアルミ包装を破り、小皿に載せてトレイの上に置く。食器の底がガチャガチャと音を立て、持ち手にガムテープを巻きつけたフォークも一緒になって騒ぎ立てた。消毒だけしていきますと言って両手の包帯を巻き取ると、この頃はもうすっかり見慣れてしまったピンの突き出た皮膚の周辺を、消毒液に浸したコットンボールで撫でた。人間というのは何事にも慣れる生き物だ。それでも眉間が歪むのはこの作業のせいではない。

「電子レンジはあたためボタン押すだけにしときますからちゃんと食べて、薬飲んでください」

顔も見ないでそう言うと、さすがにバツの悪い声で保科がぽそりと言った、その一言でなおさら維の頬が強張った。

(バシタ)がいるんならそれで旨いもんでも食わせてやんなよ」
「……この間逃げられました」

付き合い始めて◯か月の記念日。それが保科の入院したその日だった。反故にした約束の後から連絡が取れずにいて、保科の世話にかまけるうちに、つい数日前やっと繋がった電話でもう二度と会わないから連絡しないでねと念を押された。どうして女っていうのは記念日が大好きなのだろう。ふと好きだったのは俺じゃなくて記念日に着飾って浮かれる時間だったのかと思ったら、恋しさよりも虚しさが勝った。

インターホンが鳴って、対応した保科がエントランスの解錠ボタンを押す。「ほらほら、もう来ちゃったから」と言った保科に急かされて部屋を後にすると、エレベーターホールで大きめの鞄を肩から下げた女性とすれ違う。人当たりの良いピンクベージュのワンピースに身を包んで、茶色がかったセミロングをバレッタで綺麗にまとめ上げている。生命保険の外交員のようで、予備校の英語講師のようで、カルチャーセンターの編み物教室に通う生徒のようで、そのどれとも縁のなさそうな強い香水の匂いがエレベーターに四角く満ちて、維をマンションの外へと運び出した。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み