維・高遠・会長

文字数 4,649文字

「景、帰るぞ。車回してこい」

慌ててコタツから飛び出した景は、爛々と光るような眼をした維の気配に圧されて足がすくむ。

「早く行け。聞こえないのか」

横で固唾を飲んでいる景は維の促す声に身震いする。詰所の給湯室で組み伏せられた時とも、前川診療所で怒鳴りつけられた時とも違う、地の底から這い上がるような響きが景の鼓膜を揺さぶる。今まで一度も聞いたことがなかった維の声色に、景は突き飛ばされるように廊下に走り出た。

「急拵えの得物で申し訳ないですね。……ずっとお会いしたいと思ってたんですよ、タカさん。お忘れですか。松岡組葦折原維、あなたの盆仲だった保科憲之の弟分です。いよいよ松岡組の最期とあって、荏原会長が盆を敷いてくださった、これが最後の機会になるとは思いながら丸腰で来るなんて、俺もすっかりヤキが回ったもんだ」

そう言った維が、くっと男の頸にガラス瓶の切っ先を押し込む。とうに弾力を失って皺枯れた皮膚が伸び切ってその先端をどうにか受け止めた。

「あぁ、あぁ、思い出した。あの時はまだほんの三下だったが、すっかり見違えたねェ。……それで札師のお弟子さんが俺に何のご用かね」
「まずもってあの若衆は俺の弟分だ。横から攫うような真似はやめてもらいましょうか」
「なんの。お前さんこそ攫われて保科の弟子に収まったんじゃないのかね」
「ご自分から語るに落ちるとは。散々探りを入れられたって、タクから聞きましたよ」
「おぉ、保科に印付けられて野に放たれた、あの坊やか。丁度あの頃、お前さんの弟分とやらとさほど違わないくらいの歳だったかねえ」

……あの頃はとにかく若くて威勢ばかり良いのが、掃いて集めるほどいたっけね。みんな自分の行き先もわからずに道に迷って右往左往してたもんだ……思い出話に花が咲くようでどこかのんびりと口元は綻んでいるのに、男二人の眼はギラギラと見たことのない色を放って光る。

「タクも義理堅い男でね。随分経ってから挨拶に来てくれました。おかげで俺もいろいろ聞けて、自分なりに空白埋める手掛かりができました。でもね、やっぱりあなたにもきちんと聞いてみたかったんですよ」
「何を」
「決まってるじゃないですか。瀬尾さんをどうやって煽ったのか、ってことです」



「……勘違いすんなよ。煽るも何も、思い詰めたような眼ぇ光らせてたのは瀬尾の方だ。手駒と思ってた子分一匹引っこ抜かれて、おまけにもう一匹足抜けの手引きまでされちゃぁ、潰れた面子に泥塗られるようなもんだろうが」
「さすがは高遠さん、随分良くこちらの事情をご存知だ。でもあなたのご事情もおありでしたでしょう? もといた組で破門喰らって西條組への移籍話、いいポジションで滑り込むにはそれなりの手土産が欲しかったですよね。たとえばシマが西條組と隣接する松岡組の、内部抗争なんてどうです?」

高遠が利用したのは保科の「甘さ」と瀬尾の「嫉妬心」だ。
保科が逃したタクについての情報をチラつかせて瀬尾を煽り、銃を握らせれば簡単に内ゲバが起きる。テラ取り一家を潰すのに血が必要なわけじゃない。盆の敷けない状態にすればいいだけだ。警察の耳目が集まった松岡組は賭場の開帳ができなくなり、経済基盤の失われた組織は揺らぐ。そこで西條組が境界争いを仕掛けてくるとは、偶然にしてはあまりに出来過ぎている。瀬尾が保科を撃ち殺したという事実は一見すると単なる内部抗争だが、それが仕組まれたものだとすれば話は別だ。瀬尾の持つ不満の火薬に吸い殻を投げ込んだのは誰なのか。兄分二人の死を西條組への手土産にした男の、首に波打つ皺にガラスの切先を押し込むと、小さな呻きが漏れた。

「瀬尾さんの不満に火を点けたのはタカさん、あんただね」

異様な気配に気づいた座敷の連中が数名、コタツの近くに集まって来る。何事だ、盆で騒ぎよるんはご法度ぞと止めに入ろうとする者を、維は動くなの一喝で押し留め、ガラスの刃で高遠の頸の薄皮一枚を掻き切った。赤黒い血がたらり溢れてくるのを見せつけるようにして、騒げば次はもっと深いぞと言って周囲を黙らせる。

「兄さん方、ちょっと黙っててもらいましょうか。俺も博徒の端くれとして盆茣蓙汚すような真似はしたくない。だが兄分二人に仇為した者をここで見逃すも松岡組の名折れ。俺はこの男に聞きたいことがあるだけだ」

高遠の手下らしい男が間合いを詰めようとするが、それを制したのもまた高遠だった。「来るな。お前ら静かにしとれ」怯む男たちに囲まれて、高遠が掠れたような声を出した。

「俺は何にも言ってない。瀬尾はあのタクって奴に随分ご執心だったみたいだから、消息をおしえてやっただけだ。お前さんの探し物は保科って胴師が見つけ出して、密かに逃したってな。お前さんも元は瀬尾の手下だったらしいじゃないか。一度ならずと二度までも自分の可愛い手駒持ち去られて、可哀想になぁ。奴さん、ボロい短刀(ヤッパ)ひとつ持って怒り狂ってたっけね。あんまり哀れだから、もっといいもの恵んでやったよ」
「……安全装置のイカれた拳銃が、そんなにいいものですかね」
「お前さんお手製の得物よりはよっぽどマシだろうよ。こんなもんで何ができるってんだ」

笑いを含んだ声に逆上した維の腕が、背後から絡みついた高遠の頸を締め上げた。二人の諍いの種が自分だということに薄々気付いていた維も、高遠の口から直接聞かされては、もとから痛い腹を蹴り上げられた気分になる。

「俺が撃ったわけじゃねえってことくらい、お前だって分かってるだろ? 俺は瀬尾に売れ残りを安く譲ってやっただけのことだ。いくらポンコツだって勝手に発砲するほどイカれちゃいねぇわな。……それにしたってボロいヤッパで寸分刻みに痛ぶられるより、よっぽど優しかったんじゃないかね」

頸に突きつけられたガラスの刃なんぞ脅しのうちにも入らない様子で、高遠は薄笑いを浮かべながら維を焚き付ける。乾き切った維の心臓に灯った小さな火が、一息に燃え広がった。

「……俺にも売ってくれよ、タカさん。そうしたら一発で済む。あんたもその方が楽だろう」

維が腕に力を込めると、高遠の首からじわり、と血が溢れた。
高遠は抵抗しようとするが、背後から抑え込んで捩じ伏せる維の腕力が勝る。記憶の中の高遠はその筋力を誇示するような姿をしていたが、それも今や昔の話だ。手下が割って入ろうとしたその時、嗄れた叫声が二人を取り囲む人垣を割り、車椅子に乗せられた老人が進み出てきた。



(ヨシ)ィ! 義彦オォ!」

老爺はすっかり白く疎になった髪を後ろへ撫でつけて、皺に埋もれた眼を剥いて大声で高遠の名を叫んでいる。もっと前へいけと激昂して押し手に命じても、会長、危険ですと言って応じないのに業を煮やした老人が車椅子から立ち上がり、一歩踏み出してそのまま前のめりに転げ伏せた。慌てた男たちが車椅子に駆け寄るのを払い除け、腕を使って這うようにして維と高遠の眼前にじり出る。立ちあがろうにも立ち上がれない老爺の脚を見れば、両足の脛から先が切断されていた。
堅真会会長の動脈硬化症が、ここまで進行していたとは、そして大沢の話していた手術とは、病変の果てに壊死した脚を切断するためだったとは。噂に聞かされ続けた荏原会長に初めて会う維は、幾多のヤクザ者たちからその名を知られ、畏怖をほしいままにした極道を襲った現実の過酷さにに震え上がった。

「客人、客人、どうか許されよ。不肖の息子が重ねた悪行、長い懲役(つとめ)は果たしたと言え、たった一発の弾があまりに多くのものを奪い去った事実はもはや消えぬ。此奴も一家名乗っての渡世、ここで恨み残せばまた報復の輪が巡る。どうか、どうかその得物収めてはくださらんか。老いたりとはいえ貸元として、盆茣蓙は最後まで白いままにすることが務め。何よりこの愚息の親としてお頼み申す。どうか、どうか許されよ」

名乗りを違えているということは、単純な血縁とは言い難いはずだが、それでも床に額を擦り付ける会長は、もはや倅の身を案じるばかりのただの老人に成り果てている。必死になって息子を庇おうとする会長の気に押される維と、取り囲む男たちの向こうからバタバタと足音が駆け込んできた。景だ。腕に維の靴を抱えて、土足のままで廊下を走ってくる。何じゃおのれはという低い怒号を1オクターブ飛び越えたような景の金切り声が、その場にいた全員の横っ面を張った。

警察(サツ)が来てるぞ!」

途端に張子たちがざわつき、慌てて帰り支度を始め玄関へと急ぎだした。まさか。そんなことがあるわけがない。盆にはいつも敷張りと呼ばれる見張り役がいて、警察の気配があれば真っ先に知らせが来るはずだ。飛び込んできて妙なことを喚く余所者に怒号が飛ぶ。「どこの三下がふざけた事をふれ回りよるか」さっきまで盆茣蓙の前に座っていた合力の怒声が湧いたその時、またもう一人が駆け込んで来た。維と景を駐車場まで迎えに来た男だ。

「手入れだ! 近いぞ!」

それを聞いた途端、座敷がほんの一瞬静まり、それから騒然となった。
合力は客を逃すために誘導を始めるが、それより先に張子たちが玄関口へと殺到する。会長を先にと怒号が飛び、盆茣蓙の周囲では証拠隠滅を図るためテラ銭と証拠になりそうなものを掻き集めている。散り散りになった人垣の中で、維に押さえつけられたままの高遠がくつくつと笑った。

「どうするよ松岡の。このままじゃカタギになり損ねるな」

維は頸に押し当てていたガラスの刃を高遠の眉に移す。

「弟子として師に倣うまで」

そう言って左の眉山から眉尻に向けて刃を滑らせると、噴き出る様に溢れた血が、高遠の左半顔を流れ視界を塞いだ。死を(ひさ)いだ者に印を与え、維はそれを野に放つ。薄く削ぎ落とされた皮膚が張り付いた瓶と、高遠の頸を床に打ち付けるように突き放して景の元へと走った。



「維さん! こっちです!」

どういうわけか景は人がごった返している玄関と逆方向の廊下に維を誘導する。細い廊下の先にあった茶室に駆け込むと、躙口(にじりぐち)の引き戸を蹴破り庭へと滑り出た。すっかり荒れた庭の藪をかき分けて、かつては厨房の勝手口だったらしい狭い裏口を抜け、旅館の敷地を出る。
どうしてなのか、走っても走っても景の脚力に追いつかない維の足はもつれて、地面にうずくまりそうになる。走り寄ってきた景に肩を担ぎあげられて、それでようやく維は自分の肺がぜいぜいと轟音をたてていることに気がつく。吸っては鳴り吐いては鳴る喘鳴が、耳元で自分を鼓舞する景の声まで掻き消しそうだ。

「もう少し! 車まであとちょっとです!」

路地を辿って観光案内所まで戻り、ようやく車内に戻って廃屋の方を見ると、赤色灯に照らされた宿の白壁が明滅している。宿を取り囲んだ数台の警察関係車両と、逃げようとする張子たちがごった返して道を塞ぎ、そこへ周辺の宿から出てきた人が蠢いて、上を下への大騒ぎになっていた。
景は騒ぎを尻目にゆっくりと駐車場から車を出し、そのまま温泉街を離れ市街地に向かう幹線へと車を走らせる。維は助手席でステロイド剤の噴出される頼りない音を吸い込んで、ゆっくり10まで数え終わった。

「……景、……お前 …………どうして」

維の呼吸は喘鳴がどこか潮騒のようで、声はこまぎれになって波の間に漂っている。それでも景には維が言いたいことはすぐに理解できる。

「玄関に行ったら下足番の人が『もうすぐ警察が来るから駐車場には行くな』って。それで、茶室から外に出られるって教えてくれたんです。維さんの知り合いみたいでしたよ」

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