千円・五千円・一万円

文字数 3,933文字

それから約束の2時よりも少し早めに回収業者が到着して、すぐにもトラックに廃材を詰め込む作業が始まった。トラックの前まで三矢と景が運び出した廃材を、二人の作業員が荷台へと担ぎ上げ、荷崩れのないように積み上げてゆく。30分とかからずに作業は終わり、またすぐに1階と2階からも出るであろう廃品の収集を三矢が予約してから、2トントラックは事務所の前から走り去った。
廃材のバリケードで封鎖されていた1階の部屋が姿を現し、景はその部屋の全体像を初めて何の障害もなく見渡した。部屋はカーペット貼りの床で、合成皮革のソファとプリント合板の天板でできたローテーブルからなる応接セットが置かれている。2階に置かれているそれと比べても明らかにグレードの低い家具は、所々にタバコの焦げや細かな傷が目立ち、擦り切れた座面の縁がいかにも使い古された印象だ。その傍にポンと置かれた事務机の上には古い液晶モニターがふたつ並んでいるのが、どうやら入り口付近の防犯カメラの映像確認用らしかった。一番奥に大きい机がひとつと、その横の隅に、木製の小さな机がひとつ置かれている。
都合3つの机と応接セットを置いたその部屋の、残り半分は畳を並べて敷いた小上がりになっていて、まるで定食屋の座敷席のようだ。隅に座布団が積み上げられていたのを、最後の最後で三矢がトラックの前に運び出し、液晶モニターとまとめて一緒に荷台に積んでしまったから、そこだけが埃もなく色の濃い畳表がツヤツヤと光って見えた。

ざっと見た限りでは3階を片付けた時ほどの物はなく、ここまでくれば案外簡単に終わりそうな気がして、景はさっそく部屋の奥から手をつけようと足を踏み入れる。手に持ったゴミ袋の口を開いて大きく振り、どこら辺からからいきましょうかと三矢に声をかけるが返事がない。
三矢は戸口に寄りかかったまま部屋には足を踏み入れず、ただぼんやりと室内を眺めている。3階の時と同じ手筈でいくと昼食をとりながら言われたことを思い出して、まず軽く掃除機かけるとこからいきましょうかと言う景に、三矢はようやくといった体で視線を向け、それからぽそりと言った。

「……怠ぃな。ちょっと休憩しようぜ」

コーヒー淹れてくれと景に言い、三矢は2階へと上がってゆく。
また始まったか、と景は少し呆れたが、久しぶりの『怠ぃな』を聞いてどこか安心する。給湯室でヤカンに水を入れ、いつもの癖で3人分を入れていることに途中で気がついたけれど、景はそのまま維の分まで湯を沸かした。コーヒーを湛えたマグカップを三矢の所へ運ぶと、机の上にはもう将棋盤が用意されて、三矢の飛車角を除くすべての駒がすっかり並び終えている。

「ちょっと付き合えよ」
「またですか」
「一局だけ」

両手を合わせて拝むようにしながらそう言う三矢に、香車も落としてくれたら付き合いますと言って景は椅子に腰を下ろした。



景の繰り出す手をのらりくらりと躱すように、三矢はいつになく長考を交えながら指す。考えているのは次の手ではなく、1階のあの部屋にいた頃の自分と維、そのほかにもたくさんいた兄分や弟分たちのことだ。心ここにあらずといった感じで駒を弄びながら、景のささやかな攻略を躱すばかりで仕掛けてもこない三矢の様子を見て、つまり作業に戻りたくないだけなのだということは景の目から見ても明らかだった。

「それで、金曜日にまた行ったんですか」

コーヒーを啜りながら景にそう尋ねられ、三矢は一瞬返答に迷う。ほら、さっきの、公園で将棋誘われた話ですよと言われて、あ、あぁアレかと腑抜けた声が出たが、三矢自身がさっきからずっと、作業しながら思い返していたのはあの頃のことばかりだ。

「……行ったよ」



あの日公園を後にした三矢は、結局ノミ屋の瀬尾に連絡をつけて金を借りた。それでどうにか一時を凌ぎ、バイト先の給料日に返済のため瀬尾の事務所を訪れた時だった。そこにあの時の男がいたのだ。すぐにその人だと気づけなかったのは、デニムにTシャツというラフな格好ではなく、スリーピースで身繕いしていたからだ。整髪料で撫でつけられた髪型は公園で見かけた時よりも年齢を吊り上げて見せる。先に気づいた男の方が相好を崩し、三矢を見て微笑んだその顎に浮いた窪みを見てからようやく、あの男だと気がついた。

「何、瀬尾の弟分だったの?」

弟分じゃなくて客だよ。頼むから馬の分まで巻き取らないでくれ。瀬尾はそう言ってから三矢に、どこで会ったのかと小声で聞いた。駅裏の児童公園のベンチで、将棋の対局に誘われたと言うと、お前乗ったのかといつになく硬い表情を三矢に向けてくる。

「手持ちがなかったんで。だから瀬尾さんに借りたんじゃないですか」
「オケラで良かったな。保科に嵌められたかと思ったよ」

瀬尾が「保科」と呼んだそれが、あの男の名前らしい。三矢と入れ違いに保科が事務所を出て行く後ろ姿を見送りながら、誰かを憚るような小声で、騙されんなよ。あれは仕事師(ゴトシ)だと瀬尾が言った。
勝てそうな気がしたかと尋ねられたから、三矢は記憶の中の対局を探り思い返してみる。男が打った手の中に、悪手だと思えるものがいくつか思い当たったし、自分だったら別の手を使うと思う場面もあった。そう思えばまるっきり歯が立たない、ということはなさそうな気がするし、何より勝てば大きい勝負だった。もしあの時幾らかの持ち合わせがあれば、あるいはあの腕時計は今頃自分の腕にあったかもしれない。

「やってみなきゃわからないじゃないですか」

そう言った三矢を、瀬尾は笑って見返した。

「みんなそう思って仕事師(ゴトシ)に毟られるんだよ」
「何ですか、ゴトシって」
「イカサマ師、ってこと」
「将棋でイカサマって、あり得ないじゃないですか」
「そう思うならやってみたらいい」

瀬尾の言葉に焚き付けられたわけじゃない。本当にただのギャラリーとして行くだけだと自分に念を押しながら、次の金曜日に公園へと行ってみると、4〜5人のギャラリーに囲まれたベンチに保科と、自分と同年輩くらいの若い男が向かい合っていた。この間見た時と同じ赤いダウンベストを着て、盤に集中している保科は三矢が来たことに気づいていない様子だ。その向かいの男はネクタイこそしていないものの、ボタンダウンの白シャツにタックのついたボトムで、まるでどこかのオフィスからふらりと抜け出てきたような形をしている。時折ゆっくりとするのは保科の方で、テンポ良く指してくる相手をわざと苛立たせるかのように時間をかけながらも、次第に不利な状況に追い込まれてゆく。見ているうちに保科が負けを認めて投了し、将棋盤の下に見えるように敷かれていた五万円を抜いて男に手渡した。受け取った方はシルバーフレームの眼鏡越しにちらりと三矢を見るとベンチを離れてゆく。その視線の動きで初めて三矢に気づいたらしい保科が声をかけてきた。

「お、来たね。 やるかい? ショパールはないけど1万で、勝てば倍。待ったは1回5千円の2回までだ」

自分はただのギャラリーとして来たはずじゃないのか。そう思って三矢が躊躇っているうちに、見ていた数人の中から保科より少し年嵩くらいの男が名乗りをあげた。財布から抜いた一万円札を将棋盤の上に置いて、それを受け取った保科が自分の財布から一万円札を出すと、2枚を揃えて将棋盤の下に敷き、札の端だけを盤の下から覗かせるように置いた。

「よかったら先手、どうぞ」

保科がそう言って譲るところから始まった対局は、小さな見せ場をいくつか作りながらも保科が勝利して、男が席を退いた後にはまた別の、今度は保科よりも一回り以上は歳上らしい男が座る。さっき盤に敷いた2万円に、さらに男が支払った一万円札が追加された。その男が負けてベンチを去った次には、誰も相手になる者が出ない。保科は渋々といった手つきで財布を取り出すと、一万円札を2枚、将棋盤の下に追加した。都合5万円が盤の向こうからこちらを覗いている体にしてから、保科がギャラリーを煽った。

「さぁ誰か受けないか。いつもの半分、5千円でいい。勝てば10倍だ」

保科がベンチから自分を見あげて微笑んだような気がした。三矢がポケットに入れた自分の財布を指で触ったのとほぼ同時にギャラリーから誰かが名乗り出て、手にした5千円札を保科の目の前に突き出す。男は長考を繰り返し粘った挙句に1回待ったを使ったから、結局のところ1万円を保科に渡し、小一時間を使って投了することになった。

男は待ったのための5千円を5枚の千円札で支払い、それもまとめて都合十一枚の札を敷いて並べているから、将棋盤には微妙な傾斜がついた。負けた最初の一局も含めて4連戦の保科はさすがに少し疲れたと見えて、ちょっと休憩させてと言ったところで、ずっと見物していた白髪頭の老爺が「ケーサツが来たよ」と言った。保科は慌てる素振りも見せずに盤の下に敷かれた札を抜いてポケットに入れる。定期的なパトロールらしい二人組の警官が軽く流して行ってしまうと、「今日はもうやめだ」と言って駒をしまい、盤を二つに折って脇に抱える。結局ずっと見ていただけの三矢に、保科が声をかけてきた。

「瀬尾に義理立てしてんの?」
「別にそんなんじゃないです。それに、弟分じゃありません」
「あぁ、そうだったね。 ……しばらくここではやらないから、よかったら事務所においで」

ベンチから見えるコンビニの入り口に、「ソフトクリーム」と書かれた赤いのぼりがはためいている。ミミストップのソフトクリーム、あれ旨いんだよね。そう言った赤いダウンベストがコンビニの自動ドアへと吸い込まれていくのを、三矢はなぜか見えなくなるまで見送ってから、自分もどこかで飯にしようと思った。

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