経緯・謝辞・後記

文字数 3,125文字

とある方から勧められて、本を一冊読み終えたのが確か4月ごろだったと思う。
誰あろう米国の大作家、スティーブン・キング氏による大著「書くことについて」である。半分は自叙伝、半分は自身の創作手法について著述したもので、大いに楽しませてもらった。

実は流矢は作文の教科書的なもの、名文を書くためのいわゆるハウツー本を読んだことがない。「どうりでテキトーな日本語書いてると思ったぁ」という方はご明察である。避けて通ってきたわけではないが、読みたいものに優先順位をつけると自然に後回しになっただけで、何の研鑽も積もうとしない自身の怠惰は自覚しているつもりだ。

裸眼で見る風景がまるっきり印象派絵画になってしまう程度の視力しか持ち合わせのない流矢は、読書をするのがとても遅い。加えて忍耐力が著しく低いので、読んでいて苦痛な文章は自然とフェードアウトしてしまう。さらに長期記憶の能力がこれまた著しく低いため、読んだ本の内容をすぐに忘れてしまうのである。しかし不思議なことに「これすっごい面白かったっ!」という読後のエモーションだけは記憶しているので、読了後半年も放置しておけばまた気分も新たに、同じ本をもう一回読めてしまうので経済的であることこの上ない。そんなことをしているうちに、「自分の書く文章をブラッシュアップするための努力」というものをどこかに置き去りにしたまま本日に至っている。そんな人間が初めて、しかも大作家の手による創作論のようなものを読んで、それなりに何か身についたような気がしてしまった、その勘違いから生まれたのが「ビター・スウィート・サンバ」である。

とりあえず大作家の薫陶を受けたからには、今までとは一味違うものが書けるのではないか。
謎の思い込みで、何も決めてないくせに小説投稿サイトの新規作成ボタンをポチってしまったのは短慮であったと言わざるを得ない。「薫陶」だとか言っちゃって、たまさか本一冊読んだくらいで業とも呼ぶべき自分の文章が華麗に変貌するなど、妄想を通り越した寝言だ。書き終えた今ならそう言える。しかし流矢は起きたまま寝言が言えるという、比類なき特殊技能の持ち主でもある。まさに大作家の魔力によって『これで自分にも何か備わったに違いない!』そう思い込み、結果自身の

を、人目を憚りもせず遺憾なく発揮したということだ。
あえて簡単に言うならば『バカがまんまと乗せられた』。その一言に尽きる。



名著は常に読む者が次にとるべき行動を変化させる。
ほんの僅か、水平に置くべきものを0.1度度傾ける程度の変化かもしれない。だがしかし、たとえ僅か0.1度であってもそこには極小の二等辺三角形が生まれている。文章で説明するのは難儀だが、この時地表から僅か数ミリしかない二等辺三角形のもう一辺の長さは、二等辺をひたすら伸ばして行くとその果てに、センチ、メートル、やがてキロの長さへと拡大してゆく。いつしか当初の身の丈を遥かに越える高さが生まれるはずだ。
倦まずに続ける者だけが、二等辺を伸ばして作った長い坂道を登り、やがて高い頂に至る。そうしていくつもの作品を天に掲げてきたのがアーティストと呼ばれる人たちだ。文士や絵師ばかりではない。兎角いろんな人が各分野でハウツーやノウハウを追い求めるが、『続ける』ということだけは全てに共通する大前提だろう。趣味に手をつけては適当なところで放り投げることを繰り返してきた流矢としては耳が痛い。だがとりあえず書き出してしまったものを放り出さずに、ひとつケリをつけられたことだけがもっけの幸いである。
えーいもういいや!とヤケにならずにいられたのは、ひとえに欠かさず読みに来てくださった方のお陰としか言いようがない。スマホの画面を一回ぴっと上に弾いてスクロールすれば、一話全部が読み切れる

の作品が多い中で、一度に4000文字、である。「もはや暴力」の誹りを受けても致し方あるまい。薄ら20年前に読んだ資料によれば「現代人が集中力を途切らせず、一度に読み切ることができる平均文章量は最大800文字」だそうだ。今は更に減って500字くらいになっているかもしれない。
現代人はとにかく時間がない。ニュースサイトが記事の冒頭に3行で要約された内容を箇条書きにする、2ちゃんねるで言うところの「今北産業」を基本レイアウトに組み込んでしまう程だ。文字を読んで内容を理解するという労力をできる限り減らしつつ情報を摂取したい、ということだろう。そんな時代だというのにこの長文に付き合って、読んでくださる方の忍耐と寛容には頭が下がるばかりだ。



うっかりポチって始まった以上何かを紡ぎ出すべく、『博才って遺伝するのか』という下世話なキーワードだけを念頭において、何も決めずに書き始めた。結果、貸元である博奕打ちの親分を祖父に、因果巡って漁師になり損ねた甘党の札師を父に持つ景が生まれた。血の濃さだけで考えたら、カイジもびっくりのめくるめく博打話に終始するかと思いきや、偶然にもYouTubeMusicで配信されていた曲を聴いたおかげで「寸止めBL」としての体裁が整った。誰あろう昭和の大スター、沢田研二の『君をのせて』という曲である。
数多あるジュリーのヒット曲に埋もれがちだが、タイガース解散後のソロデビュー曲で、岩谷時子という人の作詞による宮川泰の曲だ。昭和歌謡界を牽引した巨匠による流れるようなメロディーラインに、男二人の道行きを思わせる詞が謳われた、大変BL的な「萌え」に満ちた楽曲である。作詞した岩谷時子は越路吹雪のマネジャーとして活躍した人物で、越路と二人三脚で魑魅魍魎溢れる芸能界を渡ってきた、その労わりあうような情愛と、マネジャーとしての職務を超えた絆が歌詞の行間から滲む名曲である。維と三矢の関係性にはこの曲のイメージが大いに投影された。

最初のうちはタイトルさえ決まらず、本作は便宜上仮タイトルを『マル暴清算事業団』としていた。かつて国鉄が分社化されJRに様変わりした時に、抱えた負債の整理や職に溢れた従業員の再就職支援などを行っていた団体である『国鉄清算事業団』になぞらえたものだ。しかしあんまりにあんまりなタイトルで、このままリリースする気になれなかったので、甘党の保科を象徴しつつ、作中に登場する某長寿ラジオ番組のテーマソングを拝借した。そのご利益だろうか、自作の中では最も長い物語になった。
松岡組というそれなりの歴史を持つ任侠一家が、時流に抗いきれず解散し世間に溶けてゆく終末を描いた物語ながら、そこはかとなく漂う三矢のテキトーさと、カッコつけきれずにどこかスットコドッコイな維、その維恋しさだけを動力源につっ走る景という三者のあり様が、暗くなりがちな「終わりの情景」をぼんやりと照らしてくれた。また最優秀助演男優賞は「便利屋はOKだが闇医者はNG」の前川医師に捧げたい。

そして本作品のMVPはS・キング著『書くことについて』を勧めてくださった方に捧げることにする。太古の海原に落ちた一筋の稲妻からタンパク質が生まれ、やがて生命体となり世界が形作られたらしいが、その雷を落としてくれた人だ。維も三矢も異論はあるまい。
人生の終着点でもある墓地で景と維が邂逅する、終わりの中にも新たな始まりを含めたラストシーンにしたつもりだが、「えっ? それで終わり?」と言われても仕方ないぶった斬りと言えばその通りである。この後の二人がどう身を処すか、何となく妄想しながらコタツに潜り、ミカンとともに今年を終われる幸福を感謝して筆を置く、もとい、ログアウトすることにしたい。皆様、どうぞ良いお年を。


2022年 年の瀬 流矢アタル
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