カーフ・ストレートチップ・内羽根

文字数 3,933文字

「靴を手に取るのにいきなり甲皮を掴むなんてサイテーだ」

そう言って三矢は陳列されている靴のつちふまずの辺りから指を差し入れて、選んだ一足を掬い上げるようにして手に取った。キャメルカラーのダブルバックルは悪くない仕上がりなのに、値札にはB級品を意味する赤いマークがつけられている。目の高さに掲げてしげしげと眺め、フロアにいた若い店員にどうしてこれがセカンドクラス扱いなのと尋ねると、店員はしばらく靴を眺めたあと、少々お待ちくださいと言ってその場を離れた。
やがてリペアをしていたらしいデニムの前掛けをした職人がカウンターの奥からやってきて、三矢の手にした反対側の靴を、同じようにして掬い取る。店の照明にかざし、あぁ、ここですと言って靴墨の染みた指先で撫でた甲革に、言われてもすぐには気づかないくらいの薄い傷がある。傷と言ってもそこだけ他と少し質感の違う筋が、光の加減でようやく見える程度の話だ。

「バラ傷、って言うんですけどね。牛が怪我した傷跡です。ケンカとか放牧地の野茨(のいばら)でやっちゃうんですよ。場所もそれほど目立たないところだし、使用には問題ないですけど傷は傷ですから」ディスカウントされた値札の理由に、まあ、ある意味天然皮革の証拠ってことかと三矢は納得する。手にした時と同じ手つきで靴を棚に戻し、それからその上に置かれていた黒いごくシンプルなレースアップを手に取る。ベーシックな黒カーフのストレートチップ。メダリオンもささやかで、このくらいなら冠婚葬祭でも問題ないだろと言う三矢の横で、景の目は何となく別の靴に吸い寄せられている。さっき三矢が手にしていた琥珀みたいな色をしたそれだ。

先端だけが濃褐色にテラテラと光るその靴は、維が履いているものに似ている。三矢の真似をして土踏まずから掬い上げるように手のひらに乗せて眺めていると、いつだったかソファの上で横になった維の、腕掛けに載せられた足を思い出した。猫が尾っぽをいたずらに振るように、つま先を左右にゆるりと揺らしながら『お前何で見習いなんかやりたがるの』と問いかけられたその答えを、いまだに景は見つけられずにいる。

「確かにお買い得だけど、それはやめとけ。お前、自分のスーツの色考えてないだろ」

そういえば確かにあの時の維はライトグレーのスーツだったと思う。自分の着ているミディアムグレーで合わせるには少し明るすぎだ。履いてみますかと店員に言われて試してみれば、思った通りで足元ばかりが目立ち、浮き上がるようで落ち着かない。おまけに景には少しばかり大きくて、靴の中で自分の足が滑っている。モンクストラップかぁ。そういうのは二足目以降に手を出すもんだよと言う三矢の意見に従い、結局黒のストレートチップに決める。四万二千八百円と言われてポケットから「薄謝」と書かれた茶封筒を出し、そこから引き抜いた札で支払いを済ませた。



事務所へ戻る前に景の自宅に寄り、着替えを済ませて途中の蕎麦屋で昼飯を済ませる。蕎麦を手繰りながら三矢は1階の片付けについての段取りを景に説明した。まずは4階と3階から出た廃棄物を2時に業者が収集に来てくれるから、その手伝いをして、そこから先は他の階でやったのと同じ手筈でいくぞ。景は話を聞きながら天丼を食べ、そのくせ隣の席に座ったサラリーマンが食べているカツ丼に目を奪われている。飽くなき食欲の権化を目の前にして三矢は呆れ、景と同じ歳頃の自分を思い出せばまあ仕方ないことだと納得し、晩飯は焼き肉でも食わせてやろうかと考える。それともステーキか何かの方がいいだろうか。生き血の滴るような肉の塊が黒い鉄板の上で煙をあげる絵面を思い浮かべ、どちらがこの腹ペコを籠絡するに相応しい餌になるだろうと考える。

「……ところでお前、血とか大丈夫?」
「はい?」
「ホラー映画とかでさ、ビシャって血飛沫が飛んだりするの。生理的にダメとかって奴たまにいるだろ?」
「好きってことはないですけど。でも見てて気分悪くなるとかっていうのはないです」

赤い湯桶を揺すってセットの蕎麦猪口に蕎麦湯を流し込みながら、うんまあ、そんなら大丈夫だろうと言う三矢に、怯えた目をした景が「何かヤクザっぽいことやらせようとしてませんか」と言うと、何だお前ヤクザやりたくてうちの事務所に来たんじゃねぇのかと言って笑う。確かに三矢の言うとおりで、ここで働きたいと維に頼み込んで断られ、それを三矢に食らいついてようやく首が繋がる思いでここにいる自分は、かつてあの事務所の4階で寝起きしていた人達と何ら変わりないはずだ。「ここにいた奴らはみんな気がつくといなくなってる」三矢がそう言っていた人たちは今どうしているのだろう。

「三矢さんは……どうして松岡組に入ったんですか」

景の声を聞きながら蕎麦猪口を口に付けて「ちょっと濃いな」とつぶやくと、三矢はさらに蕎麦湯を注ぎ足す。澱んだような褐色を湛えたそれを啜って減らしては更に注ぎ足してから、ようやく神妙な顔つきでうなづいてみせる。質問からすっかり間が空いて、「答えるつもりはない」ということなのかと返事を半分諦めた頃に、ようやく三矢の口が開いた。

「……学生ん時博奕でスッてオケラになってさ」



高校を卒業した三矢が『簿記の専門学校へ入学する』と言ったのは、もちろん取ってつけた言い訳だった。やるべきことも見出せず、やりたいことも見つからない。何かを探しにここではないどこかへ行こうとする、そのための言い訳としての進学だ。
当然続くわけもなく、入学から半年もする頃にはバイトとパチンコに明け暮れて、一年も過ぎる頃には必然的に除籍になった。家からの連絡をのらりくらりと躱し、日雇いのアルバイトを繋いで稼いでは夜になると盛り場へ出向き、開催日になると競馬場へ出向いた。初めはバイト先の先輩に誘われて行った競馬場の、たまさか最初の1回がビギナーズラックというあれで、その刺激が三矢の身体と脳髄に、強烈に染みついた上での都会暮らしがいつの間にやら身に馴染んでいた。

忘れもしないあれは春先の開催日、ここ一番の大勝負で有り金全部をダートに溶かして途方に暮れていたところだった。誰かに借りようにもクラスメイトたちとはもはや縁遠く、バイト先にはいつも金策に忙しい先輩たちしかいない。行きつけの居酒屋で知り合った縁で、まれに馬券を注文するノミ屋の瀬尾という男が、困ったらいつでも声かけてくれよと言っていた、あれをアテにするしかなさそうだ。
俯き加減でふと通りかかった公園の、ベンチに群がる男たちに三矢は気がついた。吸い寄せられるように近づいてみると、歳の頃はどうにか30代くらいといった所の、デニムにTシャツ、赤いダウンベストというラフな格好の男と、40代半ば頃のスーツを着たサラリーマンがベンチの両端に座り、その間には将棋盤が置かれている。取り囲むギャラリーは暇を持て余したような還暦前後の男ばかりで、皆押し黙って盤を覗き込んでいる。多少は腕に覚えのある三矢が見るに、対局は終盤を迎えているらしく、息の詰まるような駒のやりとりが続いている。

「……参りました」

やおら頭を下げたのはスーツの方で、つけていた腕時計を外すと無言でTシャツの目の前に置いて、駅の方へと歩き去った。バラバラと小さな人だかりが崩れてゆくその中で、三矢とそのTシャツ姿の男だけがベンチの端とその隣に留まった。どうやらこの腕時計を賭けた対局だったらしい。時計を手に取った男が三矢の視線に気づいて声をかけてきた。

「お兄さんもやる? よかったらこれ、そのまま賭けてもいいよ」

男は青光りする文字盤のついた腕時計を眺めて、裏蓋を確認し、小さく口笛を吹く。
ショパールの150万クラスかな。質種にすれば100は堅いよ。対局1万、待った1回5千円で2回まで。2万出すなら3回まで待ったのおまけつきだよ。破格だと思うけどどうする? ベンチに座った高さから、上目遣いに三矢を見て微笑む顎に窪みができた。さっきのスーツの男は、あの小さな窪みに嵌って時計を失ったのだろう。

「やりたいんだけど、手持ちがないんで」
「そう? 残念」

男は駒を巾着袋に入れると、じゃらりと音をたててダウンベストのポケットに突っ込んだ。将棋盤を畳んで小脇に抱えると、雨さえ降んなきゃ金曜日はここでやるからまた来なよと言って、飲み屋や金券ショップの並ぶ薄暗い路地へと消えた。



「その時計、本物だったんですか」
「さあねぇ。でも、近くの質屋で同じのが220万で出てたのは見たよ」

景は両腕に抱えた木端の塊を取り落としそうになり、慌てて掴み直す。事務所の1階に積み上げられた、かつて4階で誰かが寝起きしていたベッドだった木枠はすっかり乾きささくれて、軽の着ているパーカーや三矢の軍手を刺していくつものほつれを作ってゆく。
気をつけろよ、足の上に落としたりして前川の世話になるのはご免だからなと三矢が言った。時計は午後1時半を過ぎた辺りで、2時に廃材を回収に来る業者が作業をしやすいように、1階の部屋から玄関ロビーまで三矢と景は二人がかりで次々と廃材を運び出して積み上げてゆく。入り口を塞がれていた部屋は次第に足を踏み入れるだけの広さを取り戻し、奥の壁にある換気のためにつけられた小さな窓を開くとわずかながら風の通り道ができた。

埃を混ぜた空気に頬を撫でられながら、維がここにいなくて良かったと景は思う。それから作業のスピードを意識して早めた。早くここを片付けて、維がいつ戻ってきても大丈夫なようにしておきたい。今日買った靴を履いたところを維に見てほしいと思っていることを、なぜか三矢にはもうバレている気がして、少し俯きながら作業に没頭した。

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