維・喘息・診療所

文字数 3,869文字

雑居ビルの連なる繁華街の外れ、ということはもう松岡組の事務所は目と鼻の先なのだが、三矢はわざわざこの細い路地の前に車を停めてくれる。付き添うかと聞かれるが、どのみち自分の足で行くしかないのだし、ここは車を停めておくには狭い。首を横に振ってよろよろと路地へと入ってすぐの、雑居ビルの外階段を登るが最初の踊り場でもうすでに息切れし始めている。手摺に縋るようにして速度を落とし、どうにかゆっくりと3階まで登り切ると、磨りガラスの嵌ったドアを開ける。ぐずる赤ん坊を抱いた若い女と入れ違いに入った部屋はやたらと白く明るくて、薄暗い外廊下から入った眼がすぐには慣れずにチカチカする。壁紙といい床といい、全てが白かオフホワイトの空間に、紺色で角丸の四角が浮かんで見えて、どうやらそれが折り畳み椅子の座面らしい。腰を下ろしてしばらくすると、奥のアコーディオンカーテンが開いて、出てきた前川は駅前にいる草臥れたスーツ姿のサラリーマンとさして変わらないスタイルで、垢じみたワイシャツの袖を捲っている姿はまるで医者に見えない。黒いフレームの眼鏡の向こうから維の顔を見ておぅとだけ言うと、黙ってだらりと下がった維の手を取って指先にオキシメーターを挟んだ。

「95切ってるね。何してたの」
「……ちょっと、倉庫の片付けを」
「頑張りすぎじゃないの? そんなの下っ端の子分どもにやらせなよ」
「俺がその『下っ端』です」

ここでいいよ、どうせ誰もいないからと言って、前川が点滴スタンドを引っ張って維の座る椅子の前まで来ると、サクサクとゴム管で腕を縛り上げ、針と管で維を繋ぎ止めた。楽にしてていいよと言われて座っているうちに、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。

最初の発作は半年前だった。季節がわりの長雨が続く夜で、床に入っていつものように眠っていたのに、明け方に息苦しくて目が覚めた。深呼吸でもするように腹の底に力を入れて息をしなければ、肺に空気が入らず、そうして吸った息を吐き出すにも、同じように力まなければ吐ききれない。一体これは何だと訝ってはみるものの結局そのまま朝になっても治まらず、睡眠不足の怠い体を引きずって、事務所の近くにあるというだけの理由で係りつけになっている前川診療所へと重い足を運んだ。

四十がらみの前川が一人で回しているこの診療所は、看板ひとつ出さずにいる割にはちょろちょろと患者の来るところで、殊に松岡組の間では以前から何かとあてにされていた。昔と違って切った張ったの大騒ぎはなくとも、体調を崩したりヘマをやらかして怪我をする組員は、何はさておきここへ来ることになる。来ればいつでも前川がいて、何となれば夜中でも住居らしい2階のドアホンを鳴らせば対応してくれるから重宝なことこの上ない。それに受付やら看護師やらがいないので余計な配慮も要らないし、ここで生まれ育った前川にとって、その筋の患者に夜中に叩き起こされようと大して気にもしていないらしい。もとは1階に診療所を構えていた内科医の親が廃業して、その3階に小さく開業した後取り息子としては、職業や肩書に関係なく人間は熱を出したり怪我をしたりするという、それが当たり前の事実だと心得ているのだろう。内科はもちろんちょっとしたものなら外科にも対応して、便利屋みたいな先生だと言われても平気な顔をしているくせに、闇医者と言われると怒り狂う。一度余計な気を回した組員が捜査の口封じに金を握らせようとして、闇医者扱いされたことに怒った前川が、縫合しかけの傷口を放置するという診療拒否に訴え出た。幹部が出てきて頭を下げ、無礼を詫びる事態に発展して以来『便利屋はOKだが闇医者はNG』だという不文律が松岡組に広がった。そこに触れさえしなければ、話が分かって情に厚い、維にとっては名医だと言える。



順番逆だけど一応心音聞かせてよと言って、前川が維にワイシャツのボタンを外させた。突っ込まれた聴診器がひやりと胸に触れる。それから聴診器を耳から外すと、ちょっと深呼吸してみてと言われて維が大きく息を吸う。建て付けの悪い窓から吹き込む北風みたいな、ひゅうひゅうと喉の鳴る音がする。自分だけでなく前川にも聴診器なしで聞こえるらしいところを見れば、当然三矢にも聞こえていたのだろう。

「タバコ吸ってない?」
「ええ」

嘘だ。ついさっきだって三矢が止めなければ吸っていたし、昨日は昨日で突然事務所へやってきた駿河屋の店番から話を聞きながら一服した。『ここで働きたい』だって? どういうつもりであんな寝言を口にしたのか。勤めていた惣菜店が閉店したからって、他にやることはいくらもあるだろうに。

「やっぱ拙いですかね、タバコ」
「そうね。メンソールが気持ちよくて吸っちゃう患者さんもいるけど、結局タバコだし」
「タバコが原因ですか」
「必ずしもそうだとは言えないけど。何かのアレルギーかもしれないし、季節的なものが原因の場合もあるから」
「これ、治らないんですか」

点滴の落ちる間隔を目で追いながら尋ねた維を見て、前川は少しだけ調整して落ちる速度を緩めた。小児喘息なら成長すると寛解することってよくあるんだけどね。そこまでしか言わないということは「成人してからの発症はその限りではない」ってことだろう。初めて受診した時に、喘息という病気について一通りの説明を受けた。維はその時に「年間何人かは犠牲者が出る死病だ」と聞かされた時のぼんやりとした死の予感を思い出す。

「こういうのはね、うまいこと付き合っていくもんだよ。そりゃあ下手を踏んだら死ぬっていうのは人間生きてりゃ誰でもそうだから。忘れない程度に覚えておけば、そんなに気にしなくてもいい」

呼吸が楽になってくると途端に眠気が襲ってくる。うとうとし始めた維に、前川は処置室の寝台を提供してくれる。横になれるならちょっと休んだらいい、点滴終わる頃起こしてやるよと言ってカーテンを引いた。外でビールケースを搬入するカシャカシャと甲高い音がしている。確かこの通りにある居酒屋の店長が、厨房にもう一人欲しいと言っていたっけ。あの駿河屋をあてがってやろうかと考えて、維は眠りの沼に落ちながら名前を思い出そうとする。

何だったっけ。『組』が抜けたところにやってきた『ん』と『え』が抜けた奴。



投薬とわずかな仮眠をとって多少は回復できた維が、のろのろと事務所へ戻ると明かりがついている。ドアを開けると三矢ともう一人がソファに座って談笑していた。なんだ、呼べば迎えに行ったのにという三矢に返事もせず、顔を見た途端に思い出した名前で惣菜屋に呼び掛けてみれば、緊張したような妙な顔で立ち上がって維に頭を下げた。何を話し込んでいたのだろうか、三矢の表情は緩い。

「ニホノキくん、だっけ。丁度連絡しようと思ってたとこだ」
「はい。あの」
「すぐ近くの居酒屋で、厨房に募集があるんだけど」
「あの、この人がここで使ってくれるって話なんです」

睨みつけると立ち上がった三矢が、まあまあと維を宥めながら給湯室の方へと引き込む。小さな声で「掃除と留守番、運転もするってよ」と耳打ちした。掃除と事務所の留守番、親父の移動で使う車の運転、まれに全員が集まる際の席の準備、それらの稼業ともつかない雑事は主にカンタが担っている。

「それはカンタに任せてるだろう。二人も必要ない。給料なんて出せないぞ」
「いーんだよ、本人が見習いしたいってんだから。小遣い銭程度渡してやりゃあ充分だ」
「今さら労基署がらみの揉め事なんて起こされてみろ。面倒はご免だぞ」
「3カ月間くらい、って自分で言ってるんだぜ? 港の事務所とここを片付けて、関係各位に挨拶して回ればちょうどそのくらいだ。解散整理が終わるまでの3カ月、上等じゃねぇか」
「……カンタは何て言ってるんだ」

ほんの僅かに眉を顰めたような目をした三矢が、給湯室の卓の上に置かれたメモを、指でつまんで維の眼前に突きつける。『実家には戻れません。ごめんなさい』と書かれた文字は思いのほか達筆なペン字講座の手本のようで、内容にそぐわない流麗さが却って維と三矢を傷つけた。

「……だとさ」
「連絡は?」
「さっきからしてるけど、つかない」

書き置きと、音信不通。そこへ至る道筋も三矢から聞いて粗方知っている。
総合的に判断するとつまりカンタは「フケた」ということだ。

「な。渡りに船、ってこの事だろ?」



維が給湯室を出てソファの置かれた部屋へ戻ると、惣菜屋、いや、元惣菜屋はまだ立ったままで維と三矢の戻りを待っていた。

「見習い期間3カ月、給料は出ないが薄謝くらいなら出る。主な仕事は掃除、この事務所の片付け、留守番と運転だ。その他適宜お使いごとが発生する。やるか?」

未だかつて耳にしたことのないほど威勢のいい「はい」を聞いて、維は苦く、三矢は満足そうに笑みを浮かべる。じゃあニホノキくん、早速だけど明日からねと言う維に、元惣菜屋が「景、でいいです。にほのき、言いづらいんで」と言った。そうだった、まだ自分の名前を教えてもいなかった。ポケットを探って取り出した名刺には思いのほか品のいい楷書体で葦折原維とあって、元惣菜屋は受け取ったそれをしげしげと眺める。原と維の間にある一全角分の空白のおかげで、どこまでが苗字かようやく理解できたようだ。

「あしおりはら、さんですか」
「あしおばら、だよ」
「『り』が抜けちゃったんですね」
「お前だって『ん』と『え』が抜けてるだろ」

『タモツさん』でいいだろ。アシオバラさんじゃ面倒だし。そう言ったのはなぜか三矢の方だった。


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