コーラ・ココア・ヨーグルト

文字数 3,675文字

(バシタ)がよぉ、これがいいんだって言い張るんだよな。弟がスキーで転んで骨折した時に、医者がびっくりするほど回復したんだとさ」

そう言って兄貴分の一人が維に持たせたのはダンボールに入ったニンジンで、これをブレンダーでジュースにして一日一杯飲ませろ、一緒にリンゴもおろせば飲みやすくなるからと言った。単純に考えたら小魚だとかチーズだとか、カルシウムを摂取しろって話になるんだろうが、そういうのはどうせもう医者から処方される製剤で投与済みだと見越しての話らしい。ブレンダーって何ですかと維が訊ねると、あとでバシタに届けさせるからと言った通り、このまま出勤するらしい濃いメイクの女性が、真っ赤なネイルをツヤツヤさせた指をして、重たそうにミキサーの箱を抱え事務所に顔を出した。つまりブレンダーとはミキサーのことだったのかとようやく気がついた維に、「あのね、作ったらすぐに飲むのよ。ぐずぐずしてちゃ効き目がなくなるからね。冷やしたいなら一緒に氷を入れたらいいわ。ハチミツでも何でも入れて、好きな味にしていいからとにかく一日一杯よ」と言ってから、「とりあえず半月。半月頑張ればだいぶ楽になるはずだからね」と言って維を励ましてくれた。



薬の力を借りているだけだと自覚しながら、保科は翌日には平熱に戻り、退院の許可を取りつけた。病院のレンタルパジャマから着替えるだけでも往生して、ファスナーならどうにかなるものの、ボタンの類いは外すのもつけるのも維の仕事になった。それを見越して被りものの服を部屋から探して持っては来たが、それでも着替えには時間がかかる。対局の時にはまず見せることのない、苛々とした表情で癇癪を起こしそうになる保科を宥めることも維の重要な任務だと言えた。
着るものばかりでなく指先を使う行動は全て維が代行することになる。財布と携帯は維が預かり、支払いと電話のボタン操作は全て代わりに行ったし、退院の際に必要書類にサインするのも代筆した。食事は幹部の指示で部屋住みたちが用意したものを、維が受け取って保科の家まで運んだ。呆れるほどの偏食ぶりで知られていた保科だが、さすがの事態に少々の苦手なものは目を瞑り、黙って部屋住みたちの作る食事を受け入れた。それでも『グリーンピースと椎茸は絶対食べない』と宣言した通り、左手の親指だけで辛うじて掴んでいるフォーク、しかも持ちやすいように維が持ち手にガムテープを巻き付けて、太さを調節したそれでのろのろと食事をしながら、それらの気配を感じればどんなに細かくみじん切りにされていようとも、時間をかけて器用に取り除いてみせた。

最初の一週間、とにかく保科はよく眠った。
退院した日の夜、維は枕元に水と病院から処方された痛み止めを用意して帰宅し、翌朝8時に朝食を持って戻ると、保科がベッドの縁に腰掛けて項垂れている。明け方に傷が痛み出して薬を飲もうにも、アルミの包装を自分の指ではうまく破ることができず、ベッドの脇に落としてしまい、それを拾い上げることすら上手くいかず、結局維が来るまで脂汗を流していることしかできずにいたらしい。とるものもとりあえず薬を用意して飲ませると、倒れるように寝落ちして「消毒が必要ですから通院してください」と言われて予約した午後一番の診察にも遅刻する寸前まで眠りこけた。そのくせ病院にはスーツを着て行くとゴネて、ワイシャツのボタンを留めるのもネクタイを締めるのも、靴下を履かせることまで全部維にやらせた。

保科は親子連れの小児科診療みたいに、診察室にまで維を連れて入った。何しろドアノブひとつ満足に掴むこともできないのだから仕方がない。患部拝見しますと医師に言われて、包帯の下から金属製のピンが何本も皮膚から突き出した紫色に変色した手が出てくると、平然としている保科の隣で見ている維の方が、胃が裏返るような気分になって咄嗟に目を逸らす。すると隣に立った看護師から「やり方をよく見て、明日からは毎日ご自宅で同じように消毒してくださいね」と言われて絶望的な気分になった。それは維の毎日の仕事になる、ということだからだ。
家に戻ればそれだけで草臥れ果てた保科は、着替えの最中からうとうとし始めて、維が夕食の準備をしていても全く気付かないどころか、もうすぐ食事ですからと声をかけて、起こしても起こしても目を離した一瞬の隙に寝落ちした。

夕食の前に件のニンジンを「山本の兄ぃからの差し入れですからどうか受けてください」と何故か維が頭を下げて宥めすかし、これで劇的に回復するからって言ってましたと説得して、保科も渋々ながら毎日維が作るニンジンジュースを飲んだ。あんまりにあんまりな顔でストローを咥える保科の表情を見かねて、味付けを工夫してみようと維はいろんなものをニンジンと一緒にブレンダーに入れた。鉄板だったのはオレンジジュース、予想外に好評だったのはヨーグルトとハチミツで、さすがにこれはないだろと言われたのはコーラ、お前俺がそんなに憎いのかと涙目で訴えられたのはココアだった。



術後一週間のうちは、保科と維が治療に専念できるよう、組織内ではなんとなく注意が払われている様子だった。一週間が過ぎ次第に起きていられる時間が増えてくると、襲撃された際の詳細を説明しろという幹部からの電話が掛かってくる。相手を特定するに大切なのは初動だ。時間が経てば経っただけ手がかりは掴みづらくなることを、組員たちは経験則として知っている。保科は近いうちに親父に話しますの一言でそれらを一蹴し、やがて起きていられるうちの数時間は維との対局に充てた。それはいつも早い夕食を終えた後、両手の術創を消毒する作業の後に、維に対する慰労として保科が設定したものだ。

毎日の処置として術創を消毒薬で拭いてガーゼを貼り換え、包帯を巻く一連の作業は維にとってどの役目よりも苦しいもので、意識せずとも自然に呼吸が浅くなり、細くしか開けられない目でどうにかこうにか作業する。維の表情があまりに険しいのを、俺は薬が効いてるから痛くもなんともないのに、何でお前がそんな顔すんのよと言って保科は笑うのだが、指から何本も突き出たピンの先端で自分の心臓をちくちくと突かれているような気がして、見れば見るほど苦しくなる。包帯を巻き終える頃には消耗し切った表情になる維を見かねて、保科の方から消毒の後は一局つきあうというルールを設定したのだ。

果たして目の前に吊るされたエサに維は反応し、毎日どうにか消毒を終えると、ベッドの脇に置かれた小さなテーブルに将棋盤を用意した。保科は左手の親指で駒を滑らせるように操り、つまみ上げるという動作ができない保科の代わりに、時には維が保科の駒を動かした。なんかお前とすんの久しぶりだよなと言われてベッドの脇でする会話としては誤解を招きそうな内容だと思ったが、実際対局している間中、維は脳の奥で痺れるような快楽に近い何かを感じる時がある。

「お前三矢に似てきたなぁ」
「どこがですか」
「打ち方だよ。柔らかいねえ。何でも覚えて呑み込んじまえる年齢だもんなあ」

わずかの間に三矢に影響されて、保科に仕込まれたはずのものが簡単に上書きされてしまうのかと思うと維は怖くなる。

「俺は保科さんの相手だけでいいです」
「まーだそれ言ってんの。いろんな奴のいろんな手を知らないと強くならないよ?」

本当の意味で強くなりたいと思ったことなんてあっただろうか。
本音を言えばただこの人の手のひらの上で転がされて、右に左に動くふわふわとしたものにじゃれついていることがただ楽しかっただけではないのか。このマス目が描かれた板を挟んでいる間は、この人だけを見つめて、この人に探られる時を過ごせる。それを一分でも一秒でも長く続けたいと願うから、簡単に投了したくないだけだ。上達したいと思う動機としては、あまりに不純すぎる。



不意にベッドの脇に置いてあった保科の携帯が鳴る。何度か操作するうちにすっかり受け答えにも慣れた維が手に取ると、モニターには『高木』の二文字が浮かんだ。自分の知っているどの組員でもない聞き覚えのない苗字だが、保科にモニターを向けて確認させると、出て、と言われていつも通りに取り次いだ。

「お待たせしました。保科携帯です」
「……俺だけど、憲之いるかい」
「お待ちください」

たったそれだけの会話だった。保科の耳元へと携帯を持っていくと、首を傾げて維の方へと身を寄せる。代理ですみません、すぐに自分で出られないんでと断りを入れてから通り一遍の挨拶を済ませると、明日伺いますから、そこでお話しさせてくださいと言って保科は電話を切った。

「維、明日はもうちょっといい(なり)しておいで」
「スーツとかですか」
「持ってる?」
「公園で対局した時のが」
「ああ、あれでいいよ。親父のとこ行くからそのつもりでいて」

あの声は組長その人だったのかと気がついて、今頃になって維は緊張する。大丈夫だよ、取って食ったりしないから。維の強張った頬を見た保科はそう言って、左手の親指で器用に歩兵を一コマ進めた。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み