眼鏡・サクラ・キャラメル

文字数 3,857文字

ギプスが取れるまでの間、維は詰所に保科がいれば将棋の相手をしてもらい、勝ったり負けたりするうちに、それが取れる頃には保科が飛車角を落とさずに対局するくらいにまで腕が上がった。
最初のうちは遠慮がちに、保科の手が空いている時を狙って声をかけていた維だったが、この頃は保科の方も維が詰所に顔を出せば、本を読む手を止め、広げていた新聞をたたむ。事務所の隅にあるあの小さな机に将棋盤を広げ、駒の入った木箱を最初のうちは維の目に見えるように掲げ、小さく左右に振ってカタカタと音を鳴らし維を誘った。その音だけで気がつくようになったこの頃は、維はまるで自分がドライフードが皿に落ちる音で寄ってくる飼い猫になった気がする。誰にも懐かない猫に自分自身が飼い慣らされているようで、それは不思議な感覚だったし、他の組員たちから見ても奇妙な組み合わせだろうと思いもしたが、誰が咎めるでもないはずのことを気にするのはやめにした。

日雇いのアルバイトが続いて数日事務所に顔を出さずにいると、その次に保科と対局するときは明らかに負けが多く、たった数日で腕が落ちた気がする。調子を取り戻そうと焦る維を相手にしながら、保科はのんびりと構えて維に訊ねる。

「バイト、忙しいのか」
「転んでからバイクの調子が悪いんです。修理するより新しいのが欲しくて」

そうか、じゃあ小遣いやるよ。金曜の午後、駅の裏に小さな児童公園があるだろ? あそこにおいで。そう言った保科が維を上から下まで眺めると、着ていたデニムジャンパーの、角が白く色落ちしてほつれた襟をつまみ、そうさなァ、もうちょっといい(なり)して来てくれるとありがたいね。ワイシャツと、タックのついてるようなボトムで。サラリーマン風、っていうのが理想だけど、そんなにかっちりしなくてもいいから。それから、これ掛けて来るんだよ。そう言った保科が黒い革張りの眼鏡ケースを維に手渡した。黙ったまま両手のひらで貝の形を作り、その口が開くように動かしてみせる。開けてみろ、ってことらしい。言われるままにすると、中にはシルバーフレームの眼鏡と一万円札が入っていた。

「それ掛けて、通りすがりにベンチのとこに来るといい。そうしたら、その札が増えるよ」



金曜日になり、維は持ち合わせの服から地味なワイシャツと、唯一持っていたグレーのスーツのボトムを履いて公園へと向かった。保科から渡されたファッショングラスをかけた自分の顔を鏡で見ると、駅の改札からオフィスビルに吸い込まれてゆく人たちに紛れ込めそうな気がしてくる。
駅の裏手は雑然とした様子で、小さな飲み屋と金券ショップ、質屋の軒と元は酒屋だったはずの間口の狭いコンビニがあり、その隙間みたいな空間に、小さなシーソーと動物を模した滑り台が置かれた児童公園がある。名前は児童公園だが、ここにいるのは暇を持て余した年寄りや、休憩時間にタバコを吸いに来る近くの勤め人程度で、稀に朝まで飲んで潰れた若者が寝転がっているくらいが精々といったところだ。

およそ子供の近寄る雰囲気ではない公園の、その一角にあるベンチの上に、Tシャツにデニム、赤いダウンベストを着た男が座っている。目の前に将棋盤がなければ、それが保科だと解らなかったかもしれない。詰所にいる保科はいつでもスーツ姿で、長めの髪をワックスで固めて後ろへと流しているが、今日は洗い髪をそのままふわふわと風になびかせている。ベンチの反対側には40代くらいの男が座っていて、どうやら対局している最中らしい。数名のギャラリーが取り囲むようにベンチを覗き込み、そのうちに男がぺこりと頭を下げると、参りましたと言って投了した。ギャラリーの輪を崩して男が立ち上がると、保科はあたりを見回して声を上げた。

「これそのまま次へ持ち越すよ。参加1万円、待った一回五千円の2回まで」

将棋盤の下には1万円札が3枚敷かれている。
応じる者の出ないのを見た保科が財布を出し、1万円を追加した。

「誰か受けないか。1枚増やすぞ」

維は眼鏡ケースに入っていた1万円札を持ち出して、声を上げた。

「やります」

維を見た保科の顎に笑窪が浮かぶ。受け取った一万円札を将棋盤の下に敷く。都合5万円の上で勝負が始まった。



つまり自分はサクラだ。通りすがりに真剣()とやり合うサラリーマンを演じればいい。やるべきことはいつも通り、詰所で保科を相手にいつもやっているように将棋を打てばいい。スーツを着ていないせいか、保科はいつもよりリラックスしているように見える。時折伸びをしてみたり肩を回してみたり、それでいて駒に触れる指先は繊細に、小さくパチリと音をたてて指す。揺れる前髪の向こうから微笑む視線に、維の視線も絡め取られそうになる。いつもよりだいぶ長い時間をかけた対局は、わずかに保科が優勢の様子で推移し、次第に焦り始めた維がふと首を持ち上げると、ベンチの周りのギャラリーが増えている。いつの間に、どこから集まってきたのだろう。自分達を囲む首の数は始めた時の倍か、それ以上かもしれない。

「見るな」

要らない緊張を背負いこむために周囲を見る必要はないと、保科が小さく唇だけを動かして維を窘めた。維の気を引こうとしたのか、保科がポケットから黄色い紙箱を出し、包み紙を剥がしてキャラメルを口に入れる。
そこから先、急に精彩を欠いてきた保科が突如悪手を打った。維はそこにすがりついて形成を立て直してゆく。無我夢中で王将を追い詰めて、気がついたら保科が頭を下げ、「参りました」と言った声が聞こえた。どよめきともつかない小さな感嘆が波立ち、ギャラリーの塊がほどけてゆく。保科が将棋盤に敷かれた札を抜いて維に渡した。

「お見事」

そう言って小さな声で、行け、戻るなと維に言うと、ギャラリーの中の一人に声をかけた。

「お、来たね。 やるかい? ショパールはないけど1万で、勝てば倍。待ったは1回5千円の2回までだ」

きっと常連なのだろう。自分とそんなに変わらないくらいの歳に見える、長身の男が立っている。結局その男は保科の誘いを受けず、代わりに別の男がベンチに腰を下ろしたところまでを見届けて、維は公園を後にした。



「おっ。何だ、誰かと思った」
「デートでもしてきたのか」

詰所へ戻ると、いつもと違う堅い服装をしている維のことを、居合わせた若衆たちが囃し立てた。そんなんじゃないですと言いながら、トイレに入って鏡で自分の姿を見ると、確かにいつもと違って見える。外すことも忘れてそのままにしていたシルバーフレームの向こう側から、のぼせたような潤んだ目で、どことなく上気した自分がこっちを見て不思議そうな顔をしている。落ち着こうとして眼鏡を外し、顔を洗っては鏡を覗いて、まだどこか酔っているような目をした自分を鏡の中に見つけては再び顔を濯ぐ。何度か繰り返した後でようやくトイレを出ると、落ち着かない気分でソファに沈み、保科の戻りを待った。

何時間過ぎただろうか、もう今日は事務所へ戻らないのかもしれないと思い始めた頃、ようやく入ってきた保科はもうすっかりいつものスーツ姿に戻って、いつもの机に座る。維がそばに行って眼鏡ケースを差し出すと、はい、お疲れさんでしたと言って受け取った。なかなか似合ってたよ、これ。そう言って保科は戯れにケースから眼鏡を出して掛けてみせた。維のようにサラリーマン風、と言うよりは、どこかのキャンパスを歩いている教授か研究者のように見える。

「あの……、 あの金、いいんですか」
「いいも何も、賭けに勝ったんだから当然だろ」
「全然勝った気がしません」
「いいから取っておきなよ。バイク買う資金の足しにしたらいい」

維は机の上にあった盤の上に駒を広げて、対局の一場面を再現するために並べた。あの時、保科がキャラメルを口に入れた時の盤面だ。

「保科さん、あの時ここに指しましたよね。どうしてこっちを封じなかったんです」

保科は盤面をチラリと眺めただけで、アタマ使うと甘いもん欲しくなるなと言い訳をしてからポケットを探り、またあの箱からキャラメルを摘み出す。今日はもう勘弁してよ。あれから3人も相手して疲れちゃったと言う保科にお構いなしに『ここでこうすればよかったはずです』『こっちを進めて成れば有利なのに』『ここの香車を使えば違う展開になったはずだ』と言いながら、維は保科が打った悪手を次々と再現してみせる。椅子の背もたれにのけぞって、遠くから駒を動かす維の指先を見るともなく眺めていた保科が、不意に立ち上がり包みを剥がしたキャラメルを維の唇に荒っぽく押し付けた。

「ほれ、食え」

有無を言わさず押し込まれた甘みを溶かすことに忙しくなった舌は、必然的に維の口数を減らす。ようやく静かになった維に保科が言った。

「随分と読めるようになったなぁ。……大したもんだ。俺が教えてやれることはもうないな。一つだけあるとすれば、お前、途中で余所見をしただろう。あれは拙いな。俺とやってる間は、お前は俺のことだけ見とけばいいんだ。勝負ってのは相手をよく見た者が勝つ。他のことは二の次でいい。ましてやギャラリーに気を取られるなんて論外だね」

あ、これ最後か。ちょっとコンビニ行ってくる。
保科は空になった黄色い紙箱を机の上に放り出したまま部屋を出てゆく。それでその日はそのまんま、詰所に戻って来ることはなかった。




※真剣師…チェスや将棋、麻雀などの対戦で金銭を賭け、その水揚げで生計をたてる人。棋士や雀士などタイトルや大会に挑み賞金を得る、いわゆるプロとは別。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み