空咳・番犬・酸素マスク

文字数 3,697文字

紫煙で曇った八畳間に、盆茣蓙が敷かれている。胡座をかいてその白い長方形の、長辺の真ん中に座っている兄貴を見つめているのは自分だけではない。ぐるり取り囲むように座った男たちが維と同じように押し黙り、息を殺している。保科はいつも大勝負の時に着る燕脂のシャツに、ほとんど黒に近いダークグレーの背広という出立ちで、肩で羽織った上着の裾に片腕を隠し、背中に回した掌の中で繰った札を、目の前にある紙下に挟むと真っ白な盆茣蓙から手を引いた。

「入りました」「さァ張った」

合力たちの煽る声に応えて、盆茣蓙を囲んだ男たちの腕がその上で忙しなく動く。あの紙下と呼ばれる小さな布の中に、胴師の選んだ数字の札が入っている、その数を当てる、ただそれだけのために男たちが、この決して広くない座敷に集い群がる。数字は1から6。つまり確率は6分の1で、参考になるのは保科の目の前に並べて置かれた、数字を書いた木の札だ。これまでの勝負で胴師がどの順番でどの数字を選んできたかが示されている、その札を張子の男たちが睨み、推量の糸口を掴もうとしている。

「付けてください」「どちらさんも手早うたのんます」

見切りをつけた張子たちの腕がそれぞれに動いて、目の前に張り札を並べていく。各人の手元にある数字の書かれた6枚の札から、胴師が選んだ数を推理して同じ札を並べるのだ。隣の張子は早々に3枚の張り札を自分の座った目の前に伏せて並べ、その周りにズクを置いた。本命と対抗、保険とも言える押さえの3つの数字を選んだ、ということだ。掛金である一万円札を重ねて折り束ねたズクと呼ばれるそれは、手練れの博徒が組んだものだろう。盆茣蓙の上を頻繁に行き交いながらそれでいてバラけることはない。自分も早く札を選んで張らなければと焦る維の隣から、迷ってるのかと声がする。見れば隣に座って張子になっているのも保科だ。袖口から燕脂色を覗かせたスーツ姿で胡座をかき、小さく手首をスナップさせる動きで、いつもの通りリズム良くズクを置いてゆく。

「手ぇ切って、 勝負」

維を置き去りにしたまま合力の声が低く響き、胴師の腕が動く。横一連に並んだ木札から一枚を滑らせるように抜き、一番右に付け替える。六。その証拠として同じ数の書かれた小さな札が、捲られた紙下の中から現れた。胴師の選んだ数字を合力が声に出すと、座の緊張が解けざわめきが戻ってくる。スベったウカったの悲喜が声になって溢れ、当てた者は自分の前に伏せ置いた六の張札を表に返し、外れた者はズクをそのままにして札だけを手元に引き上げた。胴師の左右に構えた合力が掛金を集め、当てた者のところへと配当をつける。

「次ぃ行きましょ」

そう言われて気がつくと、いつの間にか自分の目の前には紙下と目木が並んでいる。隣にいたはずの保科は姿を消し、合力が自分の左右を固めている。自分に胴師をやれ、というのか。有無を言わせないかのように合力が「入っとくなはれ」の声をかけて維を煽る。ぐるりと取り囲んだ張子たちは水を打つように鎮まって、その代わりとばかりに煮詰めたような欲望を滾らせた視線で刺してくる。動揺を悟らせまいと息を潜めるあまりに肺が重苦しい。

「……自分の頭、つむじの上くらいから盆茣蓙全部を見るんだ。将棋みたいな一対一の勝負と違うからね。ちょっと引いて、全体を俯瞰しなきゃ。誰に今勢いがあるのか、ツキに見放されてるのはどいつかを、自分の位置から少し離れたところに意識を飛ばして、そこから読むんだよ」

保科の声がする。どこだ。どこから自分を見ているのか。声の源を探そうと辺りを見回す維を、制するような声が追いかけてきた。

「見るな。視線の動きひとつで張子たちはお前の(キズ)を読むぞ」

毎回同じ速さ、同じリズム、同じタイミングで勝負することが、胴師に求められる最低限の技量だ。感情を表に出さず、伏せた眼で一点を見つめ、指先が豆札に触れる感覚に集中しろと保科に叩き込まれてきた。……それなのに維の眼は盆茣蓙を囲む人の中に、保科の姿を探してしまう。

いない。いない。いない。 ……息が苦しい。

維。 自分を呼ぶ声のする方を振り返るが、違う。この声は保科ではない。



呼んでいたのは三矢で、声のする方を見ようとして口元が酸素マスクに覆われているのに気がついた。この前来た時は点滴の管だけで済んでいたのに、酸素とはいえもう一本管が増えてしまったことに悄然として、一度は開いた目をもう一度閉じてみる。夢で会えたのは初めてのことで、醒めてしまったことが悔しくて、開いたばかりの目の上で眉間が皺を寄せてピクピクと揺らいだ。

苦しいのか。今前川呼んでくるからと言って立ちあがろうとした三矢を呼び止める。いいよ。どうせまた二人揃って怒鳴られるだけだろと言うと「今日は三人かな。景もまとめて」と応えた。
まだいるのか。診察終わってんなら摘み出せと言うと、三矢はまあまあと言って維を宥めにかかる。まだ留守番が要りそうなんだと言い訳をすると、ずり下がった肌掛けを引き上げて維の肩を覆いなおした。

襟元で動く三矢の指先を、維はそれとなく確認する。考え事をしながらささくれを毟るのが三矢の癖だ。何かトラブルを抱えている時は指先が荒れているからすぐにわかる。爪の脇を赤く腫らした三矢に何かあったのかと尋ねると、気付かれたことを羞恥するみたいに俯いたままポケットに手を入れる。取り出した端末を操作して、メールを画面に表示した。送信者欄には幸田の名前があり、ccに維の名前も入っている。タイトルに「至急」の文字を入れ、簡潔にまとめられたカンタの所在と近況についての本文を「なるべく早く対応するべき状況」との言葉で締め括っていた。しょぼつく眼を強く瞑って、カンタの顔を思い起こす。幸田の報告によれば、隣町の盛場辺りで薬物の売人をしているらしい。距離としては案外近くにいたことに安堵しながら、維は面倒なことになったと思う。至急対応は幸田に言われるまでもない。
三矢の後ろでカーテンが開き、前川と景が入ってきた。枕元を譲った三矢と入れ替わりに腰を下ろして、黙って維のバイタルを確認する。その後ろでごめんなさいと頭を下げる景に向かって怒鳴るつもりが、マスク越しでは気迫もキレも感じられない、小言のような啖呵しか出せない。

「帰れ。仕事は終わりだと三矢から聞いただろう。金は渡したはずだ。その金でどこでも通って好きなもん彫ったらいい。金も時間もとろかして、背中汚して親泣かせてみろ」

そこまでをどうにか言い終わると、そこから先は全部空咳に化けたようで、乾いた音をたてながら体を揺らしている維に、景はごめんなさいを繰り返すばかりで出てゆく素振りも見せない。それどころか約束の3カ月までまだあと2週間はあるはずです。最後までやらせてくださいと言って食い下がる景に、三矢はとりあえず今日はもう帰れと言って、小さな声であとは俺から維にうまいこと話を通しておくからと付け足した。聞こえてるぞという維の声に眉を顰めながら、何もそんなに急がなくてもいいだろう。どうせ景も暇持て余してるんだからとその場で説得にかかった。

「2階の事務所はどうすんだ。俺一人で片付けろって言うのか」
「……俺が一緒にやれば済む話だろ」
「酸素マスクがなきゃ息もできないのにか」

自分はもう戦力外だということを他でもない三矢に突きつけられて、さすがの維も押し黙るしかない。



黙って様子を見ていた前川が、ふと景を顎で指して、こいつを破門にするのかと口を挟んだ。
破門もなにも、そもそも組員でも何でもないガキ一匹の処遇がそんな大層なはずもない。バイトの契約が終了しただけで、あとはバカがどこへ行こうが俺の知ったことかと維が言うと、前川は「へぇ、お前先輩に対して随分な口を効くもんだね」と言って立ち上がった。

「葦折原、よく聞けよ。お前当分このガキを側に置いておけ。こいつは喘息のキャリアでお前なんかよりよっぽど長くこの病気と付き合ってる。すっかり寛解して診療所ともご無沙汰だったくらいだ。お前の薬の管理と服薬指導はこいつにやらせるのがちょうどいい。野垂れ死にも満足にできないなら先輩に頭下げて指導してもらえ」

投薬管理なら自分がと言いかけた三矢に前川は、お前なんぞアテにできるか。あれほど吸わせるなと言ったところでこの有様じゃねえか。兄弟分の番犬ひとつ務まらんくせに笑わすなといなして、ヒラヒラと手の甲を振って払い除ける。
緊急だから院内処方してやると言って、前川は紙袋に入った飲み薬と吸入ステロイド剤を呼び寄せた景に持たせた。使い方と注意点、まだ覚えてたら説明してみろと言われ、景はそれにすらすらと答えてみせる。黒縁の眼鏡を外して上着の裾でレンズを拭きながら、黙って聴いていた前川がそのうちに満足気に微笑んだ。あのうこれで合ってますかと不安気な声を出した景に、上等だ。申し分ないねと言って眼鏡を再び鼻に乗せ、ブリッジを中指で押し上げた。

「飲み薬は2週間分処方してある。飲み終わるまで吸入薬の使い方と、症状管理のキモをあいつに教えてやれ。お前は今日から兄貴の番犬だ」
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